『国宝』吉沢亮と横浜流星、最後の「演目」が小説とは異なる理由ーー映画がより面白くなる「原作」の読み方

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2025年06月13日 08:00  リアルサウンド

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『国宝』上・下(吉田修一)

※本記事は小説/映画『国宝』の内容に触れる部分があります。未読/未鑑賞の方はご注意ください。


 6月6日に公開された吉沢亮主演の映画『国宝』が、「100年に1本の傑作」「今年のナンバーワンが確定」と、早くも大絶賛を浴びている。歌舞伎に身を捧げた主人公が人間国宝になるまでの半生を描いた本作は、約3時間という長尺ながら「もう一度見たい」「時間を忘れた」「あまりに濃密」といったポジティブな感想ばかりが飛び交い、SNSやレビューサイトでもネガティブな意見はほとんど見られない。


参考:【写真】吉沢亮・写真集 『Profile(プロファイル)』インタビュー


▪️小説と映画、異なる印象を抱かせるキャラクターたち


 原作は、吉田修一が2018年に発表した同名の長編小説。文庫上下巻で800ページに及ぶこの作品は、2019年に第69回芸術選奨文部科学大臣賞、第14回中央公論文芸賞をダブル受賞した名作である。本作の執筆にあたり、吉田は四代目中村鴈治郎に3年間密着取材。黒衣として実際に歌舞伎の裏方を務め、舞台のすべてを目に焼きつけたという。興味深いのは、その鴈治郎自身が映画『国宝』において歌舞伎指導を担当し、劇中にも大物歌舞伎役者「吾妻千五郎」として出演している点である。小説と映画が密接に連動していることが、この背景からも明らかであり、本作がいかに“本物”を追求した作品であるかが伝わってくる。


 映画は起承転転転転転結くらいありそうな速いテンポで展開するが、観客の中には「あのとき何があったのか?」と気になったシーンもあったのではないだろうか。たとえば、春江(高畑充希)が喜久雄(吉沢亮)のプロポーズを拒んだシーンもその一つだろう。子どもの頃から慕い合い、入れ墨まで刻んだ2人の関係性は、誰の目にも特別に映る。だが春江が選んだのは、喜久雄のライバルである御曹司の俊介(横浜流星)だった。この選択は映画の中では唐突にすら映るが、原作にはその感情の複雑な機微が幾重にも描かれている。


 喜久雄の芸に打ちのめされた俊介が「本物の役者になりたい」と涙を浮かべる姿に共鳴し、後に結婚する道を選んだ春江。“水商売の女”という身である彼女にとって、スターの階段を上っていきそうな光に包まれる喜久雄よりも、闇の中で道を見失いそうな俊介のほうが、自分が寄り添える存在だったのだろう。劇中ではそれが“同情”にも見えたが、原作では俊介は喜久雄と共に何度も春江の店に足を運んでおり、関係性が発展していた描写がある。また俊介の魂の叫びに対し、「あんたは甘ちゃんのボンボンやけど、そういう大きな心を持ってたんもんな」と人間性を認めていたセリフも見られることから、一見「尻軽」に見えた“乗り換え”も、実際は自然な成り行きでもあったのだ。


 また、喜久雄の娘・綾乃を生む芸妓・藤駒(見上愛)との関係も、映画では途中から描かれなくなるが、原作ではその後も物語が続いている。喜久雄は藤駒と添い遂げることはなかったが、綾乃を実子として認知し、継続的に会いに行っているのだ。血の繋がりだけではなく、“断ち切ることのできない縁”として描かれており、映画では暗示的だった父としての苦悩と責任が、原作ではより生々しく語られる。


▪️喜久雄(吉沢亮)が”国宝"たる所以


 喜久雄の背負うものは芸の業だけではない。父としての罪、そしてそれを背負いながら舞台に立ち続ける姿が、彼の“国宝”たる所以の一つでもあるのだ。


 さらに、妻となる彰子(森七菜)も、原作を読むことでその存在感の大きさが際立ってくる。映画のラストでは姿が確認できなかった彰子だが、それは芸以外のすべてを捨てるという「悪魔の取り引き」で、喜久雄が空っぽになっていることを表現していたとの解釈もできる。しかし原作では、彼女は最後まで喜久雄を見守り続けており、そんな彰子は、恋人や妻というよりも、“芸の証人”という役割を担っているのだ。


 また、原作にはもう一人重要人物が存在する。喜久雄の幼なじみであり、暴力団の世界に足を踏み入れていた徳次(下川恭平)である。映画では序盤に登場していたのみだったが、2歳上の兄貴分である徳次は喜久雄を支える付き人であり、最も信頼できる存在。無償の献身が物語に感動を与え、人間ドラマに厚みを持たせているのも原作小説の大きなポイントだ。


 映画のクライマックスで俊介と喜久雄が共演する演目は「曽根崎心中」だが、原作で描かれる最後の舞台は「隅田川」である。この演目は、死んだ子どもを探してさまよう母を描いているが、原作の俊介も子どもを亡くし、両足も失った状態で登場する。その苦悩と芸に生きることへの執念が重ね合わされる演出だ。一方、映画では喜久雄と俊介の2人にフォーカスが当たっていることでアレンジが加えられていた。演目の選択一つとっても、そこに込められた意味の違いが、映画と小説の表現の奥行きを際立たせているのである。


 映画『国宝』を観たあと、原作を手に取る。それは、スクリーンの外に広がるもう一つの舞台に足を踏み入れることでもある。吉田修一が見つめた“人間国宝”の裏側には、名前も光も持たない者たちの人生があった。そのすべてが一つの“芸”に収斂していくさまを、小説という静かな舞台でも味わってほしい。観ることで心を震わせ、読むことで魂を深くえぐる――この映画と原作の関係性こそが、まさに“国宝級”の芸術体験なのである。


(文=泉康一)



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