「10歳で東京の7LDKでひとり暮らし」 『バチェラー』司会の坂東工(47)が“寂しかった”子ども時代を回想

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2025年06月13日 16:10  日刊SPA!

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坂東工さん
 人気恋愛リアリティショー『バチェラー・ジャパン』『バチェロレッテ・ジャパン』において、司会進行役としてその存在感を示す俳優の坂東工さん(47歳)。今年、俳優として活動して、四半世紀を迎える。一方で、レザーアーティストや画家としても活躍の場を広げるなど、その多才ぶりに注目が集まる。
 今回のインタビューでは、俳優として生きるまでの道程を本人の口から語ってもらった。

◆10歳でひとり暮らし、しかも「7LDKの家」で

――俳優としてはハリウッド映画である『硫黄島からの手紙』(クリント・イーストウッド監督)などに出演し、『バチェラー・ジャパン』『バチェロレッテ・ジャパン』でもその顔を知られる坂東さんですが、随分早くからひとり暮らしをされていたと伺いました。

坂東工:そうなんです。私が幼い頃、日本は景気がよく、活気のある面白い時代だったと思います。具体的に言うと、「家庭を顧みないで稼ぐ」みたいなことが今よりも許容されていた時代だったんです。父は大手芸能系企業に勤めるサラリーマンで、非常に仕事のできる人でした。しかし仕事ができる一方で、たぶん人間関係がそこまで上手ではなくて、次第に疎まれていったようです。結果的に、父は会社を解雇されてしまいました。

 母はその昔、アナウンサーをしていたらしいのですが、結婚・出産・子育てがあって長い間、主婦をしていました。父が会社を解雇されたあとは、その母が父に代わって家計を支えることに。母はまず事業を興したのですが、この事業がうまく軌道に乗ると、家庭内での父と母のパワーバランスが崩れてしまい……。打ちひしがれたせいもあってか、父は暴力を振るうようになりました。やがて2人はうまくいかなくなり、母は兄、姉と私を連れて、父から逃れるため、夜逃げ同然で引っ越しをしたんです。

 そんなことがあったのが私が10歳くらいのときです。兄と姉は私と年齢が離れていましたから、大学に行ったり留学したりして、次々に家を離れていって、母も複数にわたる事業所を経営していたので、あまり家に帰らなくなりました。そんな経緯で、私は東京にある7LDKでひとり暮らしをすることになったんです。

◆最初のうちは楽しかったが…

――10歳で東京の7LDKでひとり暮らしというのは、情報が多すぎてどこから伺っていいのかわからないのですが……。その家というのは、ご両親が持っている物件だったのでしょうか。あと単純に広すぎませんか?

坂東工:ですよね(笑)。母が勤めていた会社が購入した、いわゆる投資用物件だったようですね。かなり広かったですよ。トイレも3つあって、お風呂も2つあったので、最初のうちは楽しかったんです。「今日はこっちのお風呂入ろう」とか、探検気分というんでしょうか。でもだんだん、そんな広い家にたったひとりで寝起きしないといけないのは淋しくなってしまいました。母は仕事が忙しくて、月にだいたい1回くらいしか帰ってこないし。でも「淋しい」という気持ちを私はあまり母に伝えなかったような気がします。

◆月に1回振り込まれる「3万円」で食費をやりくり

――家の広さを置いておくとしても、小学生がひとり暮らしというのは大変なことが多くないですか。たとえば、日々のご飯などはどうしていたのでしょう。

坂東工:朝は食べず、昼は給食でまかない、夜はコンビニで購入して食べる生活でした。毎日コンビニの食事を食べていたので、今でもコンビニのご飯を見ると胸が一杯になります。月に1回、母親から銀行に3万円が振り込まれるので、それをおろしに行くんです。その3万円で1カ月の食事代を充足させないといけないので、いろいろ考えながら生活をしていました。

 それ以前に、銀行にひとりで行ってお金を下ろそうとすると、だいたいガードマンに止められてしまうんですよ(笑)。事情を説明して、母に電話をしてもらったりするのですが、ガードマンも「君の家庭は大丈夫なのか」みたいに困惑していたりして。でもこっちもお金を下ろせないとご飯が食べられないので、必死ですよね。

 最も辛かったのは、風邪のときですね。小学生ひとりで動けないですから。母に電話をして、東京事務所のスタッフに看護してもらう……みたいな対応だったと思います。

◆今は亡き父との思い出は…

――お父様から逃れて、結果的にひとり暮らしをすることになってしまった坂東さんですが、具体的にお父様とのやり取りで覚えていることはありますか。

坂東工:仕事関係でうまくいかなくなってからは、その憂さを晴らすようにお酒を飲んで、暴力を振るっていました。暴力の対象は、決まって母だったんですよね。その光景は、子どもだった私を恐怖させるに十分なものでした。一方で、父は明確に、私を可愛がってくれていました。他のきょうだいとも違う、何か愛情みたいなものを感じたのは覚えています。暴力を振るって暴れたあと、「おいで」と手を引かれて一緒にどこかへ行くのですが、当時は「何をされるんだろう」と怖かったのを覚えています。でも今考えれば、たぶん父なりの愛情だったのでしょう。

 父はもう他界して、この世にはいません。最後に会ったのは私が20歳前後のときのことで、亡くなったのを知ったのも、35歳くらいのときです。3ヶ月に1度訪れる先祖の墓に名前が刻まれていたからでした。お寺を頼って父の最期を知ろうとしたとき、親戚の方たちが看取ってくれたことを知りました。同時に、父が最期まで住んでいた家屋がゴミ屋敷になっていることもわかって、なんとも言えない気持ちになりましたね。

 私は末っ子なのですが、父の墓守は私なんですよ。今でも事務所に飾っている、父が幼い私を入浴させている写真があります。これを持ってお墓参りに行ったとき、ちょうど決まったのが『バチェラー』の仕事でした。

◆衝撃的な大人だった“育ての父”

――一家離散、それに付随して坂東さんがひとり暮らしをするきっかけになった原因を作ったのはお父様だと思いますが、マイナスの感情は持っていないようにみえるのが不思議です。

坂東工:客観的にみれば、とんでもない父親なのかもしれません。母にしても、今なら“育児放棄”なのでしょう。ただ、それ以上に周囲に助けられてきたことが私の人生を豊かにしてくれたとも思うんです。

 たとえば、当時は小学生でアルバイトをさせてくれるところがありました。私は週に6回、新聞配達をやっていました。それで月に5万〜6万円くらいにはなったと思います。

 それから、私が“育ての父”と呼ぶ人との出会いもありました。彼は私の同級生のお父さんなのですが、赤い眼鏡をして、短パンを履いて……みたいな風貌で。「大人はネクタイを締めてスーツを着て出勤するもの」と思っていた私にとって、衝撃的な大人でした。あとから聞いた話では、デザイナーだったようです。仕事が忙しいのに、週に1回くらいはご飯を食べさせてくれました。今でも思い出すのは、私が自分の生い立ちを話したとき、彼が「お前、それおもろいな」と言ったんです。それまで、私は自分の人生が面白いとは思っていなかったので、特別感を与えられたみたいで、衝撃的でした。憐れむとか憤るでもなく、私の人生を真正面から肯定してくれて、対等に扱ってくれた初めての大人だったと思います。思えば、最初に演劇に連れて行ってくれたのも彼でした。映画とか本の面白さも、彼に教わりました。

 たとえば心が器だったとすると、その時の私の器には、明らかに欠けているピースがあるような状態でした。けれども、そういう人との出会いによって、ピースはまた自分ではめていくことができる。そうすれば、人の善意とか好意というものを注がれても漏らさずに満たせる自分になっていくのだと思います。

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 坂東さんの、爽やかでにこやかな、美しい佇まいに魅了される人は多い。与えられた環境のなかでひたすら今を生きた結果、引き寄せたとしか思えない大きな仕事に巡り会えた。その素地を作ったのは、間違いなく幼少期だろう。不幸を嘆くのではなく、人生に向き合うこと。その繰り返しの根源に、他者への感謝がある。

<取材・文/黒島暁生>

【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki

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