1986年の全日本耐久選手権第4戦鈴鹿1000kmを戦った東レ・サード・トヨタMC86X。佐々木秀六、岡本安弘、見崎清志がドライブした。 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは1986年の全日本耐久選手権を戦った『サードMC86X』です。
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現在、スーパーGTのGT500クラスにおいて、DENSO KOBELCO SARD GR Supraを走らせているSARD(サード)。
トヨタ系のレーシングチームとして長い歴史を誇るサードは、前身であるシグマ・オートモーティブ時代の1973年、独自開発の純国産マシン&日本人ドライバーというオールジャパン体制で初めてル・マン24時間レースに挑むなど、かつてはオリジナルのレーシングカーも開発していた。
シグマのオリジナルマシンによるル・マンチャレンジは、1975年をもって終了となったが、その約10年後。サードが設立された翌年の1986年に、再び彼らはレーシングカーを開発するに至った。そのとき生み出されたのが『サードMC86X』だ。
MC86Xは、1986年当時世界的に隆盛し、日本でも盛り上がりを見せていたスポーツプロトタイプカーカテゴリーであるグループCカーレース戦線に参入すべく開発された車両だった。
このMC86Xを手がけたのは、東京R&Dの小野昌朗で、小野はかつてル・マンを戦ったシグマMC73を生み出した人物でもあった。
小野はMC86Xを開発するにあたり、東京R&Dと関係のあった東レに協力を仰ぎ、モノコックの一部にカーボンコンポジット構造を採用。当時のグループCカーはまだアルミモノコックが主流で、ジャガーXJR-6のようにフルカーボンモノコックを採用していた車両もあるにはあったものの、MC86Xのこの試みは先進的であった。
さらにエアロにもMC86Xは力を入れていて、日本自動車研究所にあったムービングベルト風洞を活用して、空力デザインを行なっていた。当時、ムービングベルト風洞を使ったエアロの開発は、日本ではまだ稀な事例であった。
このようにしてさまざまな“最先端”を使って開発されたMC86Xは、トヨタの4T-GT改エンジンを搭載し、1986年の全日本耐久選手権第3戦富士500マイルにおいて初陣を迎えた。
その後、MC86Xは最初に作られたモノコックをそのまま流用しつつ、MC87S、MC88Sとモディファイが進んで、1988年まで国内のグループCカーレースを戦った。しかし、優勝等の特筆すべきリザルトを残すことはできず、サードのオリジナルCカーでの活動は幕を下ろした。
MC86Xから始まったその系譜は結果こそ残らなかったものの、サードが見せた意欲的なチャレンジの記憶は日本のグループCカー史にしっかりと刻まれているのである。
[オートスポーツweb 2025年07月02日]