【ラグビー日本代表】リーチ マイケル「ブライトンの奇跡」あの決断を振り返る 10年経った今も「トライを取りにいく」

0

2025年09月18日 10:00  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真

「ブライトンの奇跡」から10年
リーチ マイケル・インタビュー(前編)

 世界のスポーツ史において、9月19日は特別な一日である。

 2015年にイングランドで行なわれたラグビーワールドカップで、日本が南アフリカを破った日だからだ。

 過去7度のワールドカップでわずか1勝に終わっていた日本が、2度の優勝を誇りプール戦では1度しか負けたことのない南アフリカを撃破──。その事実は超ド級の衝撃とともに、世界へ広がっていった。「あらゆるスポーツの競技を含めて史上最大の番狂わせ」と言われ、その舞台となった都市の名前を冠して「ブライトンの奇跡」と呼ばれるようになった。

   ※   ※   ※   ※   ※

「実はフルタイムでは、あの試合をまだ一度も見ていないんです。あれから10年ということで、最近またSNSで映像が流れることが多い。いろいろなところで取り上げられているから、あえて見るまでもないかな、という感じなんです」

 キャプテンとしてチームを牽引したFLリーチ マイケルは、そう言って小さな笑みをこぼした。フルタイムで見ていなくとも、記憶は鮮明だ。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

「勝因として、まず僕が挙げるのは『準備』ですね。南アフリカに勝つための正しい準備を積み上げていきました。ホントにハードワークをしましたから」

 ワールドカップイヤーの4月から8月までにかけて、日本代表は10回に分けて、延べ75日間の合宿を行なった。その間に、国際大会やテストマッチを戦い、海外にも遠征した。前年の2014年も100日以上が合宿に費やされた。

「合宿はホントにキツかったですね。自分の限界をどんどん伸ばしていって、毎日が限界突破でした(苦笑)。自分たちは世界一練習したチームだし、これだけやったんだから結果がほしいと思いましたよ。そして、これだけやったんだからという自信になっていました」

【南アフリカを焦らせる作戦】

 16時45分にキックオフされた南アフリカ戦は、FB五郎丸歩のペナルティゴールで幕が開く。そのあとにトライを許すものの、29分にラインアウトからモールを組み、リーチがトライを決めて10-7とする。32分にトライを喫し、前半は10-12で折り返した。

「試合の展開は、想定していたとおりでした。スコアを大きく離されないように意識していて、10点差以内で進めていこうと」

 後半も、五郎丸のペナルティゴールが試合を動かすスイッチとなる。ほとんどの時間でリードを許すものの、スコアが10点差以上開くことはない。69分には五郎丸のトライとコンバージョンで、29-29の同点とした。

「南アフリカの選手たちは、日本に負けるとは思っていなかったはずです。どんなに下手くそな試合をしても、絶対に負けないと思っていたに違いない。スタジアムにいた人たちも、日本が負けると思っていたでしょう。たぶん100パーセントの人が、そう考えていたんじゃないかな。日本がいい勝負はするかもしれないけれど、勝つのは南アフリカだって、みんな考えていたでしょう。

 ただ、当時の南アフリカの傾向として、焦るとやったことのないようなことをする──というのがあったんです。練習でやっていないような、らしくないプレーをする。まさにそういう展開になって、自分たちは練習したことをどんどん出していきました」

 29-32で迎えた後半終了間際、日本のスポーツ史にとって歴史的な決断をリーチが下す。3点ビハインドの状況でペナルティを獲得すると、ペナルティゴールで同点を狙うのではなく、スクラムを選択してトライを奪いにいったのだ。

 ヘッドコーチのエディ・ジョーンズは、ペナルティゴールを指示していた。南アフリカと引き分けることができれば、それだけで大きな価値がある。オーストラリア人指揮官の判断は妥当なものだったはずだが、リーチは「同点じゃなく、勝ちにいくという気持ちだった。みんなもそうだった」と話した。

【ヘスケスは左手を空高く突き上げた】

 10年前の決断を、あらためて振り返ってもらう。

 リーチは間を置かずに答える。

「迷うことはなかったですね。ホントになかったです。試合の展開を考えても、グラウンドの上の雰囲気を察しても、相手はシンビン(反則による10分間の一時退場)でひとり少ないし、これはもう勝ちにいくべきだろうと。

 ペナルティゴールを狙って、もし外れたら、それこそ最悪の結果になってしまうし、決めたとしても同点です。勝ちではないんだから、リスクを背負って勝ちにいくことだけを考えました。

 それは、僕ひとりの判断ではないんです。みんな、スクラムで勝ちにいくぞって。あのチームはボールを持ったら強かったので、とにかくボールを持ってアタックをし続ける。そうしたら、どこかでトライを取れるという自信もありました。あの南アフリカ戦の前にも、1本トライを取ったら勝てたという試合がありました。それも、勝つための準備になっていたんだと思います」

 この日の日本は、前半からスクラムに手応えをつかんでいた。果たして、スクラムを選択すると右サイド奥深くまで展開し、そのまま縦へ突き進むのではなく、横へ動かす。

 ピッチを幅広く使う展開で相手を揺さぶり、数的優位が生かされていく。相手の圧力を跳ね返してボールをつないでいった日本は、No.8アマナキ・レレイ・マフィのパスを受けたWTBカーン・ヘスケスが左隅へ飛び込む。

 タックルを受けたヘスケスの身体は、タッチラインの外へ押し出された。しかし、背番号23は左手を空高く突き上げる。

 ラストプレーで5点をもぎ取った日本は、34-32で南アフリカが握りかけていた勝利をもぎ取った。ティア1と称されるトップカテゴリーの国から、ワールドカップで初めて勝利をつかんだ。南アフリカ、ニュージーランド、オーストラリアの南半球3強を、初めて退けた一戦にもなった。

「試合が終わった瞬間は、ホッとしましたね。チームメイトの喜んでいる姿を見たら、うん、ホッとしました」

 南アフリカを相手に、あの日と同じシチュエーションが訪れたら、同じようにトライを狙うのか。

「まったく同じなら」と前置きをして、リーチは言う。

「もちろん、トライを取りにいきます」

(つづく)

◆リーチ マイケル・中編>>奇跡から10年後「日本人のスタンドオフが少ない」


【profile】
リーチ マイケル
1988年10月7日生まれ、ニュージーランド・クライストチャーチ出身。15歳で来日して北海道・札幌山の手高校に入学。東海大学を経て2011年に東芝ブレイブルーパス(現・東芝ブレイブルーパス東京)に加入する。日本代表歴は2008年11月のアメリカ戦で初キャップを獲得。2013年に帰化。2014年から2021年まで日本代表キャプテンを務め、ワールドカップは2011年・2015年・2019年と3度出場。ポジション=FLフランカー、No.8ナンバーエイト。身長189cm、体重113kg。

    ニュース設定