
戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。戦後80年の節目となる今年、鳥取県米子市出身で反戦をテーマに映画を撮り続けた監督の肉声が見つかりました。自身も経験した終戦を映画「日本のいちばん長い日」に残した岡本喜八監督です。
父の故郷に降り立った1人の女性。
岡本喜八監督の次女 岡本真実さん
「2年ぶりくらい。『喜八』だから8本にしとくか…」
手を合わせた先に眠るのは、映画監督だった父、鳥取県米子市出身の岡本喜八さんです。
岡本喜八監督の次女 岡本真実さん
「一般の方のような父親ではなかったですけど、精一杯努めてくれた」
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真実さんが父の故郷を訪ねた理由。見つかった父親の声を聞くためです。
今年1月、BSS山陰放送の倉庫で岡本喜八監督の肉声が見つかりました。
故・岡本喜八監督
「当時は米子では、中学生は映画見れなかったもんで」
57年前の1968年、BSSラジオで語る岡本監督の音声です。
日本映画界の鬼才とも呼ばれる岡本監督。娯楽要素に戦争の残酷さをにじませた数多くの戦争映画を世に送り出しました。そこには反戦への思いが貫かれています。
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1924年に米子市で生まれた岡本監督。映画監督になるため、東宝に入社したものの、翌年には召集されてしまいます。
故・岡本喜八監督
「特甲幹(特別甲種幹部候補生)で半年ぐらい入隊が遅れたから助かった。普通に入隊した連中のうち、大体半数近くが死んだ」
この音声が収録された直前、岡本監督は終戦の日を描いた映画、「日本のいちばん長い日」を世に送り出しました。
故・岡本喜八監督
「そういうのを見たときに、自分は何か戦争映画を作って、ああいう経験、再びしないように。それが仕事じゃないかと思った」
自らも向き合った戦争をフィルムに込めた岡本監督。
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故・岡本喜八監督
「事実の重みを感じましてね。僕自身の作家というものが、潜り込む余地がなかった。そういう苛立たしさを感じました」
終戦から80年となった今年も、岡本監督は生まれ育った米子の地で眠っています。
故・岡本喜八監督
「激動した揺れ動いた地面に、いかに足を踏ん張れるか、これだけで済んだと思いますけど。僕らは平和平和つってても、やっぱり地球上のどっかで血が流れたり、銃声が聞こえてる。大変危機感を感じますけどね」
残念ながら岡本監督の口から戦後80年について聞くことはかないませんが、その作品に込められた思いは色あせることなく、今も私たちに平和を問いかけ続けています。