「実は巨人ファンだった」江夏豊が明かす阪神退団の裏側。なぜ「巨人移籍」は幻に終わったのか

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2026年05月21日 16:20  日刊SPA!

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'00年に行われた阪神ー巨人OB戦では、巨人・長嶋茂雄監督(当時)との名勝負が復活、結果は中前安打 写真/産経新聞社
 シーズン401奪三振、両リーグでのMVP獲得などの大記録を残し、「プロ野球史上最高の左腕」と評される江夏豊氏。78歳になった江夏氏の最後の書き下ろしとなった書籍『江夏の遺言』(江夏豊・松永多佳倫の共著、小学館刊)が話題を呼んでいる。同書では「オールスター9連続奪三振」「江夏の21球」など、球史に残る名場面を振り返ったほか、各球団での衝突と軋轢の真相、さらには引退後に起こした「過ち」からの再起の日々を赤裸々に明かしている。※本記事は『江夏の遺言』から本文の一部を抜粋、再編集したものです。

◆ミスターは野球人の太陽だった

ミスターこと長嶋茂雄は、俺にとって敬愛以上のなにものでもない。

昭和30、40、50年代に現役でやっていたプロ野球人はみんなそう。それほど長嶋茂雄は皆にとって太陽の存在。俺は、長嶋茂雄のことを“ミスター”と呼んでいる。ミスターは現役時代から「豊、豊」とよく声をかけてくれ、なぜか可愛がってもらえた。

ミスターとの対戦成績は、226打数62安打、本塁打14、打率2割7分4厘、三振54。

その対戦のなかでどれが一番の思い出かと聞かれれば、全部。どれかひとつに絞り込むのは難しい。印象的だったのをあげろといえば、やっぱり初打席だ。

1967年5月31日後楽園球場での巨人戦。村山さんが先発だったのが血行障害により4回より急遽降板する。エースの村山さんが先発している序盤で、ブルペンで投げるピッチャーなど普通いない。たまたま三日前の二八日大洋戦で先発し、散発4安打、11奪三振、プロ入り初完封で158球投げたばかりの俺だけが早めに上がらせてもらおうと思って調整がてらにプルペンで投げていた。

そしたら「よし、江夏いけ」と藤本のおじいちゃんが叫ぶ。それまで巨人戦には一度も投げたことがなかった。おじいちゃんが「江夏はまだ早い」と巨人戦登板を回避させていたのだ。そういった経緯もあって念願の巨人戦初登板は、スクランブル登板だった。

「江夏いけ」と言われたときは、「え、俺?」というより「よっしゃー」という気分になった。なにせ、巨人戦だ。おまけに兄貴分の村山さんが持病で降板となったとなれば、弟分の俺が行くしかないやろーと気持ちを奮い立たせてマウンドに登ったのは覚えている。

◆初対決で心を奪われた瞬間

5回に初対決となった。

「ほお〜、これが天下の長嶋茂雄か」

マウンドで初めて対峙すると、ミスターのオーラが包み込むほどの塊となってうわっと押し寄せてくる。ホームだからとかアウェイだからとか関係なく、気合いが入っているときのミスターは全身から炎が滲み出て見える。

「あ、巨人の星や」

瞬時に思った。だからといって怯まなかった。この時点では、ミスターではなくまだ“長嶋茂雄”であり、なんとも思ってなかったからだ。

三日前に完封している自信もあってか、ポンポンとストライクを取ってツーナッシング。

「よっしゃ、三振や」

リズムも球威もよく、怖いもの知らずの俺は胸元のインコースで三振を狙いにいった。よし、と思った瞬間、ミスターが腕を畳みながら体を上手く反転する。

「カキィーン」

金属音にも似た快音が鳴り響き、レフト線に強烈なライナーが飛んでいく。あっという間にフェンスまで到達し、レフトがクッションボールを処理している間、ミスターは二塁ベースへと悠々とスライディング。すぐに立ち上がり、土で汚れたユニフォームをパッパッと手で軽く叩く。普通、快心の当たりを打った打者は塁上でこれ見よがしにピッチャーを睨みつけたりするものだが、ミスターは平然とした顔で俺を見ることなく視線をスタンドにやっている。

いつもなら「くそっ」と悔しがるものだが、俺はただただ見とれていた。

「かっこええなぁ」

心を奪われた瞬間だ。こうなったらもうどうしようもない。俺は、このとき以来ミスターのファンになった。

◆幻に終わった巨人移籍の真相

実は、阪神退団の騒動時、ミスターも関係していることをあまり知られていない。昭和50年に阪神から放出される際のトレード先が、巨人にほぼ決まりかけていたのだ。広島カープ初優勝“赤ヘルフィーバー”で湧き、ミスターが現役引退後すぐに監督に就任した1年目に巨人が最下位になった年だ。

監督1年目のシーズンで巨人史上初の最下位となったことは、ミスタープロ野球として一点の曇りもなく華々しい17年間の現役生活を送った長嶋茂雄にとって唯一の汚点だ。これを払拭するためには是が非でも次のシーズンで圧倒的な勝利でペナントを奪還しなくてはならない。そこで背に腹は変えられぬ強引さで他球団の主力とのトレードをどんどん画策していく。

そしてどこからか、“江夏は阪神を出される”という情報を耳にしたミスターが「江夏をほしい」と漏らしたことで、巨人の広報担当の張江五さんが裏でいろいろと動いてくれた。

はじめ巨人関係者からコンタクトがあったときは、「あの巨人が!?」と正直目を疑った。今まで憎っくき相手として立ち向かっていたチームが俺を欲しがっている……、複雑な心境というより驚きから次第に嬉しさがこみ上げてきた記憶がある。ちょうど阪神のゴタゴタの渦中の真っ只中にいた俺は人間関係に嫌気がさし、もう野球界から足を洗おうとしていた矢先だった。これが他の球団だったら、無碍に断っていただろう。でも、「天下の巨人がこの俺を」と思ったら野球を辞めるつもりだった俺にとって野球の神様からまだ見捨てられてない思いというか、一縷の望みを得た気持ちになったからだ。

◆実は巨人ファンだった江夏豊

巨人はライバルであったが、実は大好きなチームでもあった。もっと言ってしまえば、俺は「巨人ファン」だったといっていい。すでに述べているように、俺はプロに入るまで阪神のことをまったく知らなかった。当時のテレビ中継は巨人戦しかない。幼い頃から「プロ野球といえば巨人」という感覚で育ったことは間違いない。

我々の年代で野球をやってきた人間は、口には出さずとも大抵が巨人ファン。なんだかんだで巨人が嫌いだという人もいるかもしれないけれど、切るか切られるかの問題となれば周りに切らしたくない、自分で勝負をつけたいというぐらい大好きよ。この時代にON筆頭に巨人のいい選手たちと勝負ができたことは、何事にも変えられることのない財産。そんな巨人軍への移籍とならば正直胸が踊ったものだ。

何回か関係者と会って条件提示もされて俺はOKを出し、あとは発表を待つばかりだった。史上初の最下位になった巨人再建のためという大義名分はもちろん、個人的には阪神を見返してやりたく、「よし巨人に行ってやってやろう」と沸々と血湧き肉踊っていたところに、思わぬ横槍が入った。トレード発表前に日刊スポーツにすっぱ抜かれたのだ。当時はトレードがマスコミにバレてしまうと破断になるため、結局巨人入りは幻となったわけだ。

【松永多佳倫】
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て沖縄移住後、ノンフィクションライターに。プロ野球界の重鎮のインタビューをはじめ、スポーツ取材に定評がある。著書に『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。5月15日に江夏豊氏との共著『江夏の遺言』を刊行した。

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