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ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン――。鉄道車両の座席で、分厚い雑誌のページをめくっている。その昔、こうした光景を目にするのは珍しくなかったが、スマホの普及によってほぼ見かけなくなった。
鉄道の時刻表は、乗り換えアプリを使えば簡単に検索できるようになった。わざわざ紙の時刻表を持ち歩く必要がなくなったわけだが、ちょっとユニークな取り組みをして、鉄道マニアだけでなく、新たな読者を増やしている事例がある。JTBパブリッシングが手掛けている『JTB時刻表』である。
『JTB時刻表』の前身である『汽車時間表』が登場したのは、1925年のこと。来年、創刊100年を迎えるわけだが、どのような取り組みをしているのか。「スピンアウト」である。
時刻表を見たことがない人は知らないかもしれないが、掲載しているのは鉄道の情報だけでなく、バス、船舶、航空など、日本全国の交通情報を網羅している。100年の歴史の中で、ずーっとさまざまな時刻表を提供してきたわけだが、このたび初めて「地域版」を出したのだ。
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この話を聞いたとき、数年前、ガイドブック『地球の歩き方』が東京版を刊行し、話題になったことを思い出した。「他社の本が売れたから、時刻表でも東京版で」といった話ではない。今年の8月に「千葉県版」(660円)が登場したのだ。
『JTB時刻表』を見ると、都市部のように電車が数分おきに運行している路線は、始発と終電のみ掲載していることが多い。このような話をすると「てことは、千葉が田舎ってこと? 確かに東京から離れれば離れるほど、自然が豊かになるけど、千葉より田舎の県はほかにもあるだろっ」などとチーバくんファンからお怒りの声が飛んできそうだが、少し前の出来事を思い出していただきたい。
●「千葉県版」は重版に
2023年3月のダイヤ改正で、JR東日本は京葉線の快速と通勤快速の運行を朝と夕方以降の時間帯で取りやめると発表した。ご存じのとおり、その後、沿線の自治体はご立腹に。ダイヤを見直すというドタバタ劇があったわけだが、一連の報道を受けて、『JTB時刻表』の梶原美礼編集長は、ふとこんなことが頭に浮かんだ。
「これほど大きなニュースになっているということは、千葉県の時刻表に興味を持っている人が多いのではないか。京葉線の始発『蘇我駅』では、朝のラッシュ時に乗り換えに苦労している人も多いので、詳しい情報を掲載すれば便利になるのではないか」と考え、地域版の実現に動き出したのだ。
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と、ここで気になることがひとつ。売り上げとコストである。先ほど紹介したように、鉄道の時刻表はスマホを使えば、簡単に調べられる。スピンアウトの千葉県版を出したものの、売れなかったら損失を抱えることになる。こうした懸念に対し、梶原編集長はどのような手を打ったのか。
ECサイトで、プリントオンデマンドでの販売である。注文があれば印刷するという流れなので、基本的に在庫を抱えることはない。とはいえ、できればリアルの書店でも扱ってもらいたい。編集長自ら営業に回って、なんとか2店舗で置いてもらった。東京の神保町と秋葉原で販売することになったが、千葉県の書店では「残念ながら置いてもらえなかった」(梶原編集長)という。
千葉県に絞った時刻表は珍しいので、ファンの間で話題に。書店での販売は返本のリスクを抱えていたものの、想定の3倍ほどの注文が入った。ちなみに、Amazonの書籍「売れ筋ランキング」で、10位にランクイン(10月23日時点)するほど、注目が集まった。
●飛行機の時刻表も登場
スピンアウトの雑誌は、もう1つある。飛行機のダイヤに特化した時刻表(月刊)を刊行したのだ。タイトルは『国内航空ダイヤ』『国際航空ダイヤ』『国内・国際航空ダイヤ』で、価格はいずれも605円。
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ページをめくると、飛行機の時刻表だけでなく、さまざまな情報が載っている。例えば、『国内航空ダイヤ』には空港と各地を結ぶバスやタクシーの情報、航空各社の運賃(通常期・多客期それぞれの目安)などを掲載。
『国際航空ダイヤ』では、航空会社コード(2レター)と都市空港コード(3レター)を掲載しているほか、ダイヤは時差(サマータイムを含む)やコードシェア、経由地(経由便の場合)にも対応した。
それにしても、なぜこのタイミングで紙の雑誌なのか。実は、かつてJTBのグループ会社が『JTB国際線時刻表』を発行していて、ページの編集作業はJTBパブリッシングが手掛けていた。ただ、こちらもスマホの影響などを受け、2021年3月号で休刊した。
このような背景があると、ますます「紙の時代ではないよね。なぜ復活させたの?」と思ってしまうわけだが、大きなきっかけのひとつに航空会社の撤退がある。以前、多くの航空会社は冊子の時刻表を無料で配っていたが、現在は発行していない。「であれば、紙の時刻表を復活させてもいいのでは」(梶原編集長)と考え、月刊誌として再登板させたのだ。
鉄道の千葉県版と違って、こちらはECサイトでの販売のみ。つまり、返本のリスクはゼロ。また、鉄道の時刻表に掲載されている情報を、いわば「抜粋」した形になるので、編集コストも最小限に抑えた。目標部数は、赤字にならないこと。「とりあえず、損益分岐点を超えるまで売っていこう!」というミニマムな方針を掲げたところ、結果はどうだったのか。赤字を出さないために必要な部数の200倍も売れたのだ。
考えてみると、かつて旅行代理店で海外旅行のチケットを申し込むと、窓口の担当者は紙の時刻表をペラペラめくっていた。また、旅行者は無料の冊子で出発時刻などを確認していた。
いずれも、なくなってしまったわけだが、一覧性などを考えると、スマホよりも紙に優位性がある。もちろん、会社の屋台骨を支えるような売り上げを残すことは難しいだろうが、今回の取り組みは「企画次第でコストを抑えれば、少ない部数でもなんとかやっていける」ことを証明したことになる。
●次は「大阪環状線」か
鉄道の千葉県版と飛行機の時刻表が登場――。しかも、紙で売れた。となれば、気になるのは「次」である。まだ決まっていないそうだが、梶原編集長は「大阪環状線」のことが気になっているようだ。
大阪駅に「おおさか東線」が乗り入れるタイミングに合わせて、2023年3月にダイヤが大きく変わった。このとき、時刻表に大阪市内の特集(2023年3月号)を掲載したところ、読者から好意的な声がたくさん届いた。この反響に手応えを感じているようで、「大阪環状線のスピンアウトはアリかもしれない」とぼんやりと考えているようだ。
「ん? 大阪の環状線よりも、東京の山手線のほうが利用者が多いので、部数が伸びるのでは?」と感じられたかもしれないが、必ずしもそうではないようだ。山手線は、山手線のみで完結する。一方、環状線は、兵庫からも京都からも奈良からも、列車がどんどん入ってくる。
近隣の主要都市からやってきて、大阪市内をぐるぐる回って、再び去っていく。編集者泣かせのダイヤになっているわけだが、複雑になればなるほど、ダイヤに興味をもつ読者が増える傾向があるそうだ。
さて、編集長の頭の中は、次の言葉がぐるぐる回っているかもしれない。車掌の口調で「次は大阪〜、大阪〜」と。
(土肥義則)
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