ゴールキーパーから民主化運動の戦士へ

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2015年08月03日 17:41  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

 中東で最も知られたサッカー選手の1人で、「アジアで2位と言われたゴールキーパーだった」青年が、シリアの民主化運動のリーダーへと変貌を遂げる。青年の足取りを追い、内戦に陥っていくシリアを見詰めた『それでも僕は帰る〜シリア 若者たちが求め続けたふるさと〜』は、首都ダマスカス生まれのタラール・デルキ監督の新作ドキュメンタリーだ。


 アブドゥル・バセット・アルサルートは11年までシリアのユース代表チームで活躍していた。祖国が混乱に陥るなか、彼は反政府運動を率いることになる。


 撮影が始まったとき、バセットは19歳だった。その人気と影響力は絶大で、生まれ育ったシリア西部の都市ホムスの通りで、彼が民主化を訴え、プロテストソングを歌うと、大勢の聴衆が声を合わせた。


 その後、激しい戦闘で破壊され、政府軍に包囲されたホムス。故郷の町を必死に奪還しようとするバセットをデルキは追い続ける。カメラは無差別な殺戮が日常と化したシリアの現実をひるむことなく捉える。


 バセットの変貌を見守るのはつらい。反政府運動が始まった当初、彼は希望に燃え、確とした信念を持っていた。だが、何カ月も戦闘が続き、何度か負傷も経験すると、死にたいとつぶやくようになる。


観光気分の国連監視団


 仲間たちにとって、バセットはカリスマ性のあるリーダーだ。しかし本人は、自分が運動に引き入れた仲間が次々に銃弾に倒れるのを見て、責任の重みに押しつぶされそうになっていたと、デルキは言う。「彼の身に起きたことは、この世代全体に起きたことでもある。彼らは孤立無援だ。自分たちの信じる正義のために共に戦ってきた親友を失えば、たとえ戦争に勝っても、勝利を祝う気にはなれない」


 11年8月〜13年4月のシリアの状況を追ったこの映画は、14年のサンダンス映画祭でワールド・シネマ・ドキュメンタリー部門の審査員賞を受賞した。


 報道管制下でカメラを回し続けるのは死と隣り合わせの行為だった。デルキは撮影を終えるとベルリンに脱出した。だがシリア人プロデューサーのオルワ・ニーラビーアはダマスカス空港で逮捕され、マーティン・スコセッシ、ロバート・デ・ニーロら映画人がシリア政府に圧力をかけ、ようやく釈放された。


 一時は革命の中心地となったホムス。この街のどこにカメラを向けても、平穏な日常のかけらも残っていない。仮設のクリニックには負傷者が次々に運び込こまれ、無差別の狙撃で子供たちまで死んでいく。


 映画の中では、国連監視団の6人のメンバーがようやくホムスを訪れるが、待ちわびていた住民の訴えにろくに耳を傾けず、たった30分で滞在を切り上げる。「彼らはまるで観光客のようだった」と、デルキは言う。


 デルキは、バセットの友人、24歳のオサマにも焦点を当てた。オサマは有名な市民カメラマンで、インターネットで映像を公開してホムスの現状を世界に伝えようとする。平和主義者の彼は、撮影中に当局に拘束された。その後どうなったかは不明だ。


 デルキの知る限り、バセットは今、テロ組織ISIS(自称イスラム国、別名ISIL)に包囲されたホムス北東の郊外にいる。この映画が撮影された時点ではまだ存在していなかったISISの台頭で、シリア情勢はさらに錯綜を極めている。


 自由を求めて立ち上がった若者たちが残酷な戦闘に身を投じる。その軌跡をつぶさに追った映像は重い問いを突き付ける。




ルーシー・ウェストコット


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