写真 宿でくつろぐドリフターズ。土曜日の「全員集合」本番を終えると、翌日曜から火曜までは全国各地をめぐって、コントと歌謡ショーによる公演を毎日2回ずつこなした(写真提供=イザワオフィス) |
コロナ禍の巣ごもりで、「愛の不時着」などネット配信番組が人気を博している。でも生放送の迫力で視聴者の心を鷲掴(わしづか)みした番組がふと懐かしくなる。土曜午後8時、テレビの前に「全員集合」させたお化け番組の制作秘話を、いま明かす。
【高木ブーさんの写真はこちら】 昭和の時代、お笑い番組制作に「死ぬ気で」頑張った男たちがいた。
毎週木曜の午後3時。東京・赤坂のTBS局内の一室で、「8時だョ!全員集合」のネタ会議が始まる。参加者はドリフターズのメンバー、ディレクター、放送作家のほかに、セットを作る美術スタッフなど合わせて30人ほど。
皆が思う。今日の会議は11時ごろで終わるのか、朝の4時5時までかかるのか──。
1969年10月4日にスタートした「全員集合」。途中半年間の休止期間をはさみ、85年9月28日まで放送。最高視聴率は73年4月7日の50.5%! 毎週の番組の制作は、翌週土曜のネタを決めることから始まった。
「全員集合」の一番のウリは、冒頭約20分のコント。会議は、放送作家が用意した台本を読むことから始まる。
仲本工事さんが語る。
「人生において一番苦労する日でしたね。あれがなければ、僕はたばこを吸うこともなかったのに(笑)。台本を読んだいかりや(長介)さんが1〜2時間、考えるんです。美術などのスタッフはすることがないから、将棋を指したりして時間をつぶしていました。ようやく『これでいこう』と言うんですけど、それは放送作家のものではなく、いかりやさんが考えたものなんです」
どんな台本でも、それがそのまま採用されることはまずない。番組の立ち上げから最終回まで参加した、放送作家の田村隆さんが回想する。
「いかりやさんの口癖は『俺たちは死ぬ気でやってんだから、死ぬ気でやってくれよ』。こちらも必死に台本を作るんですが、『死ぬ気でやってこの程度かよ』と言われるとつらかったですね。1週間で辞めた人もいます」
おおまかな方針が決まると、詳細を詰めていく。生放送の舞台だから制約も多いが、ここでもいかりやさんの要求は厳しい。美術を担当した西川光三さんが苦笑する。
「長さんはできないことを言ってくるんです。でも『できない』と答えたらそれまでなので、何ならできるかを説明します。たとえば『空を飛びたい』と言われたら、『レールを使ってつって動かすことならできます』と答える。『それでやろう』か『じゃあ、やらない』か決まります」
金曜も午後3時に集合。翌日の本番に備え、前週の木曜に決めたコントのリハーサルをする。
「稽古は必ずGリハ(リハーサルルーム)で。隣のHリハも他の番組で使っていて、そちらの出演者がよく見学に来ましたが、決して来なかったのが萩本欽一さん。萩本さんはトイレでばったり会うと、『うちで麻雀やろう』とかいろいろと話しかけてくれましたが、番組の話は一切しませんでした」(田村さん)
ドリフが稽古をしている間、西川さんらは準備に追われた。いかりやさんの要求はコロコロ変わる。ギャグを思いつくたび、大道具の改変や小道具の追加を命じたのだ。
変更は本番の土曜日にも行われた。
「現場に着いてから長さんが何を言うかわからないので、土曜は朝からおなかの調子が悪かった。会場までの途中駅のトイレの場所を調べておきました。思いつきで何を買いに走らされるかわからないから、ポケットには常に10万円を。仏壇が欲しいと言われて仏具屋に走ったときは、高いから諦めてパネルでそれふうのものを作りました。急にゴリラの人形が欲しいと言われたこともあります。あちこち探したけどないので金髪の女の子の人形を買ってきて、和紙を貼って、塗って作りました」(西川さん)
これは「長介人形」として人気に。仲本さんはいかりやさんへの怒りを込め(?)殴った。
セットの雨どいをめぐり、美術スタッフが反乱を起こしたこともある。
「前の日にも確認。現場でも確認した。それなのにまた違うことを言いだして。これはダメだと思って『お茶に行くか』と言ったら、50人ほどいた美術担当が全員付いてきました」(西川さん)
現場を放棄して喫茶店にこもった美術スタッフを説得に、何度もアシスタントディレクターが足を運んだという。
夜8時。ようやく本番を迎える。生放送だけにハプニングも続出した。
ジャングルのセットのヘビが燃えだしたことがあり、西川さんは消防署から調書を取られた。ラクダを登場させようと運んだが、ホールに向かうエレベーターを怖がり大量に失禁。登場を諦めたこともあった。
84年6月16日の入間市市民会館では、ちょうど8時に停電が発生した。視聴者もびっくりしたに違いない。テレビ画面は真っ黒。ドリフの面々は機転をきかせ、懐中電灯を持ってきていかりやさんの顔を照らして驚いてみるなど、見事な場つなぎ。9分後に明かりがつくと、いかりやさんがせりふを言った。
「8時9分半だョ!」
生放送だからこそ続いたのではないかと語るのは、高木ブーさん。
「撮り直しができない危機感が、ミソなんじゃないかなあ。この1時間頑張れば終われるという気持ち。終わると皆『お疲れ様』って、すぐにいなくなっちゃった」
競うようにして会場を去っていく中で、高木さんは最後まで残った。
「誰か忘れ物をしてないか気になってね。すると長さんが、『ブー、行こう』と声をかけてくるんだよ。僕と長さんは同年代。10歳ほど下に仲本と加藤(茶)、その10歳ほど下が志村(けん)。長さんが一緒に飲み食いするのは、僕しかいない。よく焼き肉屋に行ったね。仕事の後だから、僕はレアでもいいから早く食べたい。長さんはゆっくりと焼いて食べる。僕が焼けていない肉を取ろうとしたら、長さんは『そうじゃない』とマジで怒りだしたねえ。話題は愚痴。長さんには、メンバーやスタッフの愚痴をこぼす相手が僕しかいなかったから」
荒井注さんが74年3月で脱退。代わりに坊や(見習い)をしていた志村さんが、正式にメンバー入りした。
坊やはそれなりの待遇しか受けられない。高木さんが語る。
「トンカツ屋で食べたり出前を取ったりするときは、メンバーの5人はカツライスを頼み、志村はライスだけ。ただし皆、2切れずつ残して志村にあげたんです」
待望のメンバー入りした喜びで張り切りすぎたか、志村さんは当初、空回りが目立った。仲本さんが説明してくれた。
「僕たちはバンドマンだから、リズムがあるんです。志村は若いからアップテンポのリズム。つまり8ビートのコントの中に16ビートが入ってきたわけで、なかなか合致しませんでした。それが変わったのが、『カラスの勝手でしょ』。あれはちょうどドリフのリズム。それから志村がうまく絡まってきました」
高木さんも続ける。
「生放送だから、台本どおりにやらないといけない。アドリブは許されなかった。時間がオーバーしちゃうんでね。でもアドリブをするのが志村。加藤と志村のコントは素晴らしいものでしたよ」
ただし問題も発生。ゲスト出演した歌手の麻丘めぐみさんによれば、
「コントが長くなっちゃうと、歌の時間が削られてテンポが速くなるんです。イントロを聞いて『えっ、今日はこんなに速く歌うの』とあせることもありました」
81年、重大危機に見舞われた。仲本さんと志村さん、番組プロデューサーの3人が、競馬のノミ行為をしていたことが発覚したのだ。
その日は土曜。会場の小田原市民会館に警察がやってきて、その場でマスコミに発表があった。現場は大混乱におちいったが、いかりやさんは「最後の全員集合になるかもしれない。全力でやろう」と決断。5人全員で舞台を行った後に、記者会見。仲本さんと志村さんの謹慎が決まった。
高木さんが語る。
「その後どうするか。ゲストを頼んで5人でやろうという話も出た。でも、それじゃあドリフじゃなくなっちゃう。なんとか3人で頑張ろうよと。コントで整列して、長さんが『番号』と言うと、加藤が『1』、僕が『4』と答える。で、長さんの『総員異状なし』でウケました」
謹慎明けまで「3人ドリフ」が踏ん張った。
「皆さんが努力してくれたことで、復帰できました。ありがたかったです」
今にしてそう振り返る仲本さん。ドリフターズに入ったときのことを教えてくれた。
学習院大学に通いながらジャズ喫茶で歌っていた仲本さんは、東京商工会議所への就職の話も出ていた。だが音楽の道に進みたかった。
「親から『そんな不良みたいなこと』と反対されたんですが、いかりやさんが交渉してくれたんです。『工事が辞めるときは、俺が辞めるとき。責任を持ちますから』と」
濃密な人間関係で作られてきた「全員集合」だが、ついに終幕が。
高木さんは「寂しいけど、ドリフがなくなるわけではないから」と受け止めた。放送期間中は忙しく「子どもと遊ぶ時間がなくて、罪滅ぼしのため買ったリカちゃん人形が36体になったね」。
仲本さんは「女の子と付き合う暇なんてまったくなかったですよ。番組が終わってから。それは加藤も同じ。年の差婚は『全員集合』のせい」と苦笑する。
多くの人間ドラマとハプニングに彩られた、濃密な番組。その現場で汗を流した人の述懐は、実に新鮮に響く。それは五十路(いそじ)の記者の、年齢のせいばかりではないだろう。(本誌・菊地武顕)
※週刊朝日 2020年12月4日号