オリックス・育成2位の園部佳太が二度のピンチを乗り越えプロの道へ

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2021年12月15日 06:40  ベースボールキング

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オリックスの育成2位、園部佳太<写真=北野正樹>
◆ 紆余曲折を経て得たチャンス

 オリックスから育成ドラフト2位で指名された園部佳太(福島レッドホープス)は、二度の人生のピンチを乗り越え、プロ入りの夢を叶えた。

 一度目は小学5年の下校中に遭遇した2011年の東日本大震災、津波に巻き込まれる直前に避難し、九死に一生を得た。そして、プロを目指して入学した大学では、死球をきっかけに打撃不振に陥り2年の夏に中退。野球を辞めるつもりだったが、知人の一言で目覚め、野球生命を断つことなくBCリーグを経てプロの道に進むことが出来た。

 園部は、福島県いわき市出身。東日本大震災が発生した時は、豊間小学校から集団下校の途中だった。海岸からは約200メートル。怯えていると、同級生の母親の運転する車が現れ、別の地区の小学校に避難することが出来た。「その地域は津波で壊滅状態になったので、車に乗せてもらえなければ危なかった」と園部。実家は防風林に守られ全壊は免れたが、約1メートル浸水。看護師として勤務中の母、佳子さんと再会できたのは夜になってからだった。

 二度目のピンチは、いわき光洋高から専修大に進学後に訪れた。高校時代は、甲子園出場は逃したが、通算48本塁打を放った強打者。特待生として入った専大でも、1年の春季キャンプで打撃が認められ、春のリーグ戦からベンチ入り。代打が主だったが、「7番・一塁手」で先発起用されたこともあった。

 しかし、夏の練習試合で頭部に死球を受けてから、打撃が狂い始めた。体に異常はなかったが、「ボールが怖くなり、投手に向かっていくことが出来なくなってしまった」。さらに、「打撃が分からなくなってしまった」という。

 「高校時代は、常に打つことが出来て、打撃で迷ったことがなかった。形やタイミングなど、勝手に出来ていたから、考えたこともなかった」。言い換えれば、それまではセンスだけで打撃をこなすことが出来たということなのだろう。「打てなくなった時に、どうすればいいのかが分からなかった。修正していくうちに、何が正解かも分からなくなってしまった」と振り返る。

 1年秋には腰を痛め、打撃は復調しないまま、2年春のリーグ戦後に中退し、帰郷した。


 野球からは、離れるつもりでいた。バイトを始め、車の免許取得のため教習所にも通い始めた。そんな時、体を動かそうと通ったジムで、高校時代から知るトレーナーに「やり切ったのか」と問われ、野球への思いが募った。「プロを目指して、もう一度挑戦しよう」と翻意するのに時間はかからなかった。

 昨年2月頃に別の知人の紹介で、地元の「福島レッドホープス」の練習にテストを兼ねて参加し、内野手として入団が認められた。ボールへの恐怖心は消えていなかったが、開幕までの紅白戦で荒れ球の外国人投手の速球を中前にはじき返した瞬間、恐怖心はなくなり投手に向かっていく闘争心が蘇った。

 昨季は60試合に出場し、打率.296、35打点、5本塁打。今季も58試合で打率.312、29打点、2本塁打と好調で、オリックスの指名を受けることが出来た。二遊間でコンビを組み、昨季から2年連続して打率.350以上を記録しているチームの先輩、菊名裕貴からのアドバイスも打撃改善につながったという。「時に難しく、時にシンプルに助言をしてもらい、やっと知識も増えてこうすればいい、と分かるようになった」と感謝する。

 「逆方向にも大きい当たりを放つなど、長打力が魅力の内野手」というのが、小松聖スカウトの園部評だ。プロでの目標は、もちろん1日でも早い支配下選手。「安達(了一)選手のように、長く安定した選手になりたい」と守備の名手、安達を目標に掲げた。

 レッドホープスからオリックス入りは、古長拓(育成6位)に続き2年連続。1年で退団した古長からは「頑張れよ」とエールが寄せられたそうだ。

 進級していれば大学4年の年。「辞めて正解だったと思う」と園部。人にも恵まれたこの2年、遠回りではなかった。


文・写真=北野正樹(きたの・まさき)

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