◆ 猛牛ストーリー【第59回:阿部翔太】
2023年シーズンはリーグ3連覇、そして2年連続の日本一を目指すオリックス。今年も監督・コーチ、選手、スタッフらの思いを「猛牛ストーリー」として随時紹介していきます。
第59回は昨季セットアッパーやクローザーとして44試合に登板し、防御率0.61と抜群の安定感を示してチームに貢献した阿部翔太投手(30)です。
鋭く落ちるフォークボール、スプリットを武器に44イニングで42個の奪三振をマーク。プロ3年目の今季は「ストレートの質にこだわりたい」と直球を磨いています。
キッカケとなったのは昨年の日本シリーズ。第2戦の9回、カウントを追い込んでから同点3ランを許したのが直球でした。大舞台での経験を活かし、「困った時こそ、ストレートを投げる」と直球にこだわります。
◆ ベンチの中嶋監督を見た理由
「あと3人の打者を、どうして打ち取ったのか、全く覚えてないんですよ」
それほど、ショックが大きかった。
2022年10月23日、ヤクルトとの日本シリーズ第2戦。3点リードの9回、5番手として登板した阿部は、二塁打と四球の無死一・二塁から代打・内山壮真に同点3ランを許してしまった。
「マウンドからベンチの監督を見たら、両方の手を丸める仕草。まだ0−0の同点、これからだ、というように見えましたが、覚えているのはそこまでです」
マウンドから中嶋聡監督を見る余裕があったのかと思ったら、実は「早く代えてくれないかな」と、降板したい一心でベンチを見たのだという。
後続の山田哲人を4球で中飛、村上宗隆を1球で一ゴロ、オスナを5球で空振り三振に仕留めてチェンジ。同点でこの回を終えたことで阿部に対するベンチの信頼感は失われず、勝ちを逃したとはいえ延長12回引き分けでシリーズの流れを大きく変えることもなかった。
むしろ、チームメートから「お前のおかげでここまで来ることが出来たんだ。下を向くな」との声が上がり、チームの結束が生まれることにもつながった。
◆ ヒントになった先輩の姿
内山への投球は、スプリット、カットボールの2球で追い込み、ファウルの後、スプリットが2球低めに外れ、2ボール・2ストライクからの6球目、141キロの真ん中高めの直球を左翼席に運ばれた。
「あの時、捕手にすれば1球見せたいというのがあったと思います。その球を打たれてしまうと、投げさせる球がなくなってしまい、次に勝負がしづらくなってしまいます。シーズンに入ると(直球と)分かっていてもいかなくてはいけない時もありますから」と、阿部は直球を磨く理由を説明する。
ヒントもあった。その試合の12回に8番手として登板した近藤大亮の投球だ。
近藤は打者3人に対し、投じた12球がすべて直球で空振り三振・空振り三振・中飛に仕留めた。
「大亮さんの投球を見て、真っすぐが来ると分かっていて(打者が)打てないのは、一番の強みだと感じました」
「シーズン終盤で疲れがたまっている時でも、キレのあるストレートが投げられるのが一番重要なことだと思います」
近藤とは、2年前から大阪府羽曳野市内のトレーニングジム「Rebirth(リバース)」で一緒に苦しいトレーニングを重ねてきた。
トミー・ジョン手術後に育成選手となった近藤は支配下に復帰、阿部も2年目に結果を出すことが出来た。身近なところにいるお手本を参考にするのは自然の成り行きでもあった。
◆ 「気配りの人」
守護神・平野佳寿のアドバイスもあった。
19試合連続無失点が途切れた昨年7月中旬。2人きりのロッカーで「アベちゃん、1つアドバイス出来ることは、フォーク中心なら行き詰まる時が来る。しんどくなる時が絶対に来るから、ストレートの量を増やしてみたら」。先輩のありがたい助言だった。
投げる球に困った時、得意のフォークやスプリットでなく、ストレートで勝負をする。投球の幅も広がり、打者に狙い球を絞られないことにもつながるというわけだ。
気配りの人だ。初めての雨となった7日。近藤と一緒に施設内を移動する際、2人でファンに手を振り、立ち止まって写真撮影に応える姿があった。
「雨でグラウンドが使えないのが分かっていても、こうして来て下さる。ありがたい、の一言です」
取材する私にまで「風邪をひかないでくださいね」と気遣ってくれた。
成美大学(現・福知山公立大学)時代には様々なバイトを経験した。
スーパーでレジを打ったり、工場でゲーム用カセットをパッケージに詰め込んだりもした。冬の高速道路のバイトでは、翌日が練習休みの深夜から明け方まで、料金所手前に立って雪用タイヤを装着しているかのチェック。足の感覚がなくなるほどの寒さで、睡魔に襲われることはなかったという。
そんなバイト体験や、就職した日本生命での5年以上のサラリーマン生活が、「気配りの人」のバックボーンになっているのだろう。
日本生命という社会人野球の名門出身だが、「一度も、自分をエリートだと思ったことはありません」と言い切る。
成美大時代は2年秋に右肘を痛めて約1年間、戦列を離脱。日本生命でも1年目に右肩痛に見舞われた。
28歳でようやくドラフト指名(6位)されたが、「ここまでエリートで来たのならプロ入りしなかったかもしれませんが、ここで安定志向になってもな、と。チャンスがあって、プロに行かないという選択肢はありませんでした」と迷いはなかった。
「打者と対戦して、アドレナリンが出て力が出るタイプ」と言い、ブルペンで31球を投げ込んだ4日には、初めて受けた森友哉から「投げ込んで最後の方になれば、ボールの変化も違ってきた」という言葉があったという。
「球の質を上げると言っても、球速を競うコンテストではありませんので、(スピード)ガンの数字より打者の反応がすべてです」
29歳でブレイクを果たし、「オールドルーキー」ともてはやされたが、短命で終わるつもりはない。実戦形式のマウンドで成長した姿を見せる。
取材・文=北野正樹(きたの・まさき)