大川小・津波訴訟、行政の「組織的過失」にたどり着いた意義 吉岡和弘弁護士インタビュー

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2023年05月25日 10:01  弁護士ドットコム

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映画「生きる〜大川小学校 津波裁判を闘った人たち」は、東日本大震災のとき、宮城県石巻市の大川小学校でこどもを亡くした遺族たちの記録だ。今年2月の公開以来、観客は1万人を超え、異例のロングランが続いている。


【関連記事:大川小・津波訴訟、2人だけの弁護団でも勝てた理由 吉岡和弘弁護士インタビュー】



裁判までの過程で何があり、裁判をどう闘い、そして勝ち取った判決がもつ意味とは――。映画化の発案者でもある吉岡和弘弁護士へのインタビューの2回目をお届けする。(ライター・諸永裕司)



※インタビュー記事の1回目はこちら



●保護者説明会のやりとりが「宝の山」になった

――提訴したのは2014年3月10日でした。なぜ、3年かかったんですか。



初めて相談を受けたのは震災の年の暮れ、2011年12月30日でした。当時、第三者による検証委員会が立ち上がって、遺族はその結論を待っているところでした。



事件や事故が起きて加害者の立場になると、行政側は内心、早く裁判をしてほしいと望むものです。提訴されれば、「あとは裁判所で」と言って逃げられますから。でも、提訴される前であれば、こどもの最期がどうだったのか知りたいと遺族が言えば、無下に拒むことはできないでしょう。





――そもそも、検証委員会が開かれたのは、市教委による保護者説明会では真相が明らかにされなかったからですよね。



市教委が震災から約1カ月後に第1回の保護者説明会を開いたとき、あまりにいい加減な説明に腹を立てた遺族が罵声を浴びせる場面がありました。気持ちはよくわかります。ただ、市教委はとにかく2時間、頭を下げて嵐が過ぎるのを待っているわけです。それを1回か2回やって説明はしました、と。



そのため、遺族たちは戦い方を考えました。マイクを握るのは1人か2人に絞り、なにを発言するかもちゃんと準備して。相手が「答えられない」って言ったら、「じゃあ、次回までに」と言えばいい。そうやって次に繋げ、説明会を繰り返し、相手に発言させて、情報を引き出していく。そのことのほうが重要なんだ、とわかっていくんです。



――市教委は当初、2回目の説明会を1時間ほどで打ち切ろうとしていました。終わった後も、「ご遺族に納得いただきました」みたいなことをメディアに言って。



そうですね。でも2回では終わらせませんでした。4、5回目になると、「1回目と3回目の答えが違うんじゃないか」とか、矛盾を突いていって。震災の2日前に震度5の地震が起きたときに、校長は先生のひとりを河原に見に行かせたじゃないかと迫ったことで、「5メートルを超える津波が来たら、学校はもたないと思ってました」という校長の発言を引き出すんです。保護者説明会でのそういうやりとりが、宝の山になって。



法廷では、どんなに長くても直接、聞けるのは2時間が限度です。「記憶にありません」と繰り返されたら、すぐに終わっちゃう。でも、保護者説明会は10回開かれました。1回あたり4時間ぐらいだから、40時間。それが、事実上の「反対尋問」の機会となったんです。しかも、弁護士じゃなく、当事者の遺族が質問するから、彼らも答えざるを得ない。そうしていくうちに、答弁の齟齬や矛盾が見えてきて。





●遺族が裁判を進める当事者として戦ったので、分裂しなかった

――裁判を進めていくなかで、工夫したことはありますか。



原告団の会議では、地震が起きてから津波に襲われるまでの51分間について、時系列で検証しました。毎回、きょうは何時何分から何時何分までと決めて、誰かが発言したらホワイトボードに書いて、「それは違う」「いや、こんなことがあった」など、みんなで議論しました。それを毎回4、5時間。そうすることによって、自分のこどもたちがこういう時間の流れのなかで死に至ったという、共通の認識をもてるようになったわけです。



集団訴訟では、必ずといっていいほど意見が割れて、分裂するものです。でも、認識を共有しているから、ときに意見が違っても、議論すれば一致できる。なにより、当事者が自分たちで考えて自分たちで行動しているから、弁護士のせいにはできない。遺族が裁判を進める当事者として戦ってくれたことがよかったと思います。



――メディアに対してはどうでしたか。



マスコミに悪印象を持っている人はいました。ちょっと来て、ちょっと書いて、またいなくなるとか。たしかにそういう面はあるけど、マスコミを味方につけなきゃ勝てないんだから、「喧嘩するな」って言いました。向こうが遺族を利用するなら、こっちも利用すればいいじゃないかと。そういうふうにしてうまく友達になっていってね。



――最大の焦点は、こどもたちをなぜ山に逃さなかったのか、でした。



一人だけ生き残った教務主任の先生が第1回の保護者説明会に出てきましたが、途中で退席しました。映画の冒頭のシーンですね。このとき話した内容には事実かどうか疑わしいところがあって。しかも、市教委は生き残ったこどもたちからの聞き取り記録を廃棄し、当日、別の場所にいた校長は教務主任から受け取ったショートメールを削除していました。



――それだけに、一審では教務主任の証人尋問に期待が集まりました。



被告側は、教務主任の主治医である東北大教授が「証人採用したら、彼はその日のうちに自死するだろう」との意見書を出し、裁判官が採用しなかったために実現しませんでした。それじゃあ、裁判をした意味がない、と遺族は憤りました。



でも、大人で唯一の生存者である教務主任の話を聞かないでこちらを負けさせたら、明らかに控訴の理由になるでしょう。それを聞かないということは、こちらを勝たせてくれると決断したんじゃないか、と私は受け止めました。





――その通り、一審は勝訴しました。



ただ、認められたのは「現場過失」だけでした。校庭でこどもたちをみていた10人の先生たちが、津波警報を聞いた時点で適切な場所に避難させなかった、と。一方で、地震が起きる前に準備すべきマニュアルの不備を見逃していたなど、学校だけじゃなく、市教委や石巻市も含めた「組織的過失」は認められませんでした。



たとえば、僕があなたを殴ったときに、拳を責めたって仕方ない。なぜ僕が拳をぶつけたかといえば、僕の脳が「殴れ」と命じたから。事故も、処罰すべきは拳ではなくて脳じゃないの、と訴えたんですが。



●高裁の裁判長が突然言い出した「謎かけ」

――だから、勝訴したにもかかわらず原告側も控訴したんですね。



高裁では、準備手続きのなかで裁判長が突然、「一審判決を見直します」と言ったんです。そして、こう続けました。「ついては学校教育安全保健法の26条から29条をよく読んで、双方から意見書面を出してください」って。謎かけのようで、最初は真意をつかめませんでした。



判例を調べてみると、罪を犯して少年院に送られた少年が職員から暴行を受けたケースがあって、少年院で暮らさせるようにした以上は安全な状況をつくらなければいけない、という判決が見つかりました。ああ、こういうことを言っているのか、と。



つまり、市が「あなたのこどもは大川小に通わせなさい」と言ったということは、大川小は安全だから安心して通わせなさい、と言ったことになるんじゃないかって。それなのに、大川小の避難マニュアルは、海のない山梨県の学校のものを下敷きにしていました。市教委がそういうふうに作らせて、それでよしとしていた。裁判長は、その責任をちゃんと問うてくれました。





――高裁の裁判官に理解があったんですね。



ただ、民法学者の世界では、これまで「組織的過失」を認めない風潮がありました。そこで、民法の権威で京都大学の潮見佳男さんという教授に頼んで、意見書を書いてもらいました。そういう意味で、裁判官に恵まれたし、学者にも恵まれて。もちろん、原告となった遺族たちにも。



――高裁判決は、学校・市教委・石巻市が情報を共有して防災にあたるべきとした上で、市教委には「児童の安全確保のため、大川小の施設及び設備ならびに管理運営体制の整備充実その他の必要な措置を講ずるよう努める義務があった」としました。最高裁でもこの枠組みは保たれました。



最高裁への上告理由書をどうするか考えた末、国会図書館で全国の新聞の社説を集めて添えました。これが世論だ、これを覆していいのか、と。



やはり、「組織的過失」が認められた意義は大きいですね。たとえば医療現場で看護婦がミスした場合、個人ではなく、病院の構造的な問題が問えますから。鉄道事故では運転手だけでなく鉄道事業者の、欠陥住宅では設計士だけでなく、マンション販売業者の責任も問える。あるいはGAFAのようなデジタル・プラットフォーマーも「場を提供しているだけ」という理屈は成り立たなくなるわけです。そういう意味では、本当に意義深い裁判でした。



●日本の防災の礎となる判決を、遺族たちが勝ち取った

――組織的過失が認められたことは、亡くなった10人の先生の遺族にも意味があるのではないでしょうか。



彼らはずっと沈黙を守っていて。何か口にしたり動いたりしたらマスコミから叩かれるみたいな、そういう圧力を感じているのでしょう。本来、雇用者である市や県は、現場の教師たちを安全な職場で働かせる環境を整える義務があったことを忘れてはなりません。



もう一つの大きな柱は、いまの学校教育の現場というか、校長がこうだって言ったら服従しなきゃいけないっていうような職場環境ですね。普段から自由な発言ができる環境があれば、ああしたことは起きなかったでしょう。



――最後に伝えたいことはありますか。



遺族は3度、被害にあっている。そのことを知ってほしいです。まず「組織的過失」によって我が子を失い、その後、市や市教委が聞き取り記録を廃棄したり、事実関係を明かさなかったり、不法行為とも呼べる対応に傷つけられました。また、裁判を起こしたことで、誹謗中傷や「殺す」という脅迫まで受けたんです。



日本人には、裁判を極力避けようとするところがあります。訴えるなんて、と。でも、やっぱり立ち上がらなければ、こういう判決は出なかった。社会は変わっていかない。大川小の遺族たちは、日本の防災の礎となる判決をみずから勝ち取ったのです。



【映画「生きる 大川小学校津波裁判を闘った人たち」】 ポレポレ東中野、シネマ・チュプキ・タバタ(東京)、シアターキノ(北海道)、イオンシネマ石巻(宮城)など全国で公開中





【参考書籍】
『水底を掬う 大川小学校津波被災事件に学ぶ』(斎藤雅弘、吉岡和弘、河上正二著、信山社)
『子どもたちの命と生きる 大川小学校津波事故を見つめて』(飯考行編著、信山社) 


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