ジュリアス・イーストマンというブラッククィアの作曲家。歴史に消えかけたその音楽、キャリアを紐解く

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2023年06月30日 13:10  CINRA.NET

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Text by 山元翔一
Text by imdkm

「ジュリアスはとてつもないエネルギーの源だった」「彼はどこまでも音楽的な人間で、僕たちはみんな彼のキレを気に入っていたよ」——ネッド・サブレッド - ティム・ローレンス『アーサー・ラッセル ニューヨーク、音楽、その大いなる冒険』(2010年、スペースシャワーネットワーク / 翻訳:山根夏実、監修:野田努)より引用ジュリアス・イーストマンは、1970、80年代を中心に活動したブラッククィアの作曲家、マルチインストゥルメンタリストだ。現代音楽、ポップ、ニューウェーブ、ディスコ、フォークソングまでをも越境した鬼才アーサー・ラッセルとの出会いを通じて、ニューヨークのゲイ・アンダーグラウンドシーンに根差したディスコミュージックと接点を持つようになるも、その出自を前衛的なクラッシックミュージックに持つ。

当時、ほとんどが白人だった現代音楽、ミニマルミュージックの世界で、黒人のイーストマンは異彩を放っていたことであろう。そのうえ、彼はゲイだった。2023年現在では再評価も進んでいるが、住居を追われた際に楽譜や録音物などの所持品が廃棄されてしまったこともあり、かつては忘れ去られかけていた不遇の音楽家だった。

CINRAでは「プライド月間」にセクシュアルマイノリティのひとつのロールモデルとして語り継ぐべく、ジュリアス・イーストマンを取り上げる。残された作品に耳をすましながら、現代を生きる私たちとのさまざまな接点とともに、imdkmにそのキャリアを振り返ってもらった。

1970年代から1980年代にかけ、ニューヨークのダウンタウンを中心に活躍しながらも突如姿を消し、49歳の若さでこの世を去った作曲家・パフォーマー、ジュリアス・イーストマン。晩年にはアパートメントを追い出され、ホームレス生活を余儀なくされ、1990年に亡くなった際には実に8か月ものあいだその訃報が知られることはなかった。作品は散逸し、忘却されかかっていた。

しかし、2000年前後からはじまったメアリー・ジェイン・リーチら有志によるリサーチが実を結び、いまでは「ついぞ、ジュリアス・イーストマンの音楽を『長らく失われた』と評するのはもはや適切に思えなくなった」(*1)と「The New York Times」に宣言されたほどの再評価の波が押し寄せている。たとえば日本でも、原雅明がその再評価の高まりを紹介するコラムを執筆している(*2)。(再)評価がはじまって四半世紀が経とうとしており、もはや単に「歴史に消えた悲劇の作曲家」と紹介するには及ばないだろう。

イーストマンが書いた作品は、ラ・モンテ・ヤング、テリー・ライリー、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスといったミニマル・ミュージックの巨匠におとらずユニークな(ポスト・)ミニマリズムの実践だ。発見されたアーカイブ音源のリリースから、復元された作品の上演や再録音にいたるまで、とりわけ2010年代後半からは目覚ましい勢いでその受容が広がっている。

そんな再評価の貢献者のなかには、クラシック界の面々のみならず、DJ /rupture名義でも知られるDJでエレクトロニックミュージシャンのジェイス・クレイトンや、Blood Orange名義をはじめ幅広いジャンルで活動するデヴォンテ・ハインズも含まれる(もっとも、ハインズはそもそもクラシックのバックグラウンドを持っているのだが)。

そんな作曲家としての顔にとどまらず、イーストマンは、きわめて「インターセクショナル」なアーティストだった。

まず、そのアイデンティティの側面から。彼は黒人であり、ゲイであり、そうした自らのアイデンティティを臆することなく作品に反映させた。とりわけタイトルに黒人や同性愛者を意味する卑語をためらうことなくつけたことは重要で、そのために一部のブラックコミュニティーから強い反発を受けることさえあった。

メアリー・ジェイン・リーチの証言によると、普段の振る舞いからしてかなり個性的だったらしく、イーストマンはボーカリストとして出演するあるパフォーマンスのリハーサルに、レザーのジャケットを羽織ってチェーンを身に着け、スコッチを飲みながら現れたそうだ(*3)。

のみならず、イーストマンは類まれな音域と声質を持つシンガーとして、ポスト・ミニマリズムを先駆ける作曲家として、ニューヨークのアップタウンのようなエスタブリッシュメントとダウンタウンのDIYシーンとの架け橋となった。なにしろ、ピーター・マックスウェル・デイヴィスの前衛オペラ『Eight Songs for a Mad King』では主たる歌い手を担い、そのニューヨーク交響楽団での上演ではピエール・ブーレーズの指揮のもと歌いさえした。

一方で、同じくニューヨークで活動した異端児アーサー・ラッセルとのコラボレーションを通じて、ディスコミュージックにもコミットした(※)。Dinosaur L名義の楽曲、たとえば“#3 (In the Corn Belt)”(ほかの楽曲でもイーストマンはボーカルとキーボードで貢献している)で朗々と歌い上げるバリトンボイスはイーストマンだ。

ほかにも、メレディス・モンクの『Dolmen Music』(1981年)への参加など、まさしく、さまざまなシーンを交差(インターセクト)させる特異な人物だった。

私がイーストマンの名前を知ったのは、ロンドンのプロデューサー、ロレイン・ジェイムスが彼にオマージュを捧げたアルバム『Building Something Beautiful To Me』(2022年)をリリースしたことがきっかけだった(※)。

ジェイムスとおなじく、クイアで、黒人のミュージシャン。そんなささいな情報だけを胸に、好奇心から再生したイーストマンの代表作“Stay On It”(1973年)は、きわめて鮮烈な印象を残した。

シンコペートする、軽快で親しみやすい反復フレーズ。それはポップミュージックのリフのようで、明らかにバックビートを感じさせた。ためしに、2005年リリースのコンピレーション『Unjust Malaise』から“Stay On It”を再生して、手拍子を打ってみて欲しい。思わず、2拍・4拍にクラップしたくなってしまうはずだ。

曲が進むと、フィリップ・グラス(※)を思わせる加算的なリズムの操作が加わるが、それでもなおそこにはグルーヴが感じられる。そんなグルーヴと、混沌へと融解するようなパートが交互にあらわれ、楽曲はタンバリンのささやかなノイズで終わる。

反復がもたらすトランスとも、構築的な美とも、プロセスの美学とも異なるミニマリズム。しかし、“Stay On It”をきっかけに探りはじめたイーストマンの作品は、そうした強烈な第一印象を裏切るようなバラエティーと活力に満ちていた。

たとえば、その問題含みのタイトルにもかかわらず数多く録音されてきた代表曲のひとつ、“Evil N****r”(1979年、タイトルに含まれるのはいわゆるNワード。筆者の判断で伏せ字とした)は、通例4台のピアノで演奏される、荒々しく力強い作品だ。

強烈に連打されるピアノは、90秒ごとにユニゾンしては荒波のようなテクスチャーをつくりだし、ときにクラスター的に響いてゆく。あるいは戦闘的なイメージを醸すタイトルが付せられた“Gay Guerrilla”(1979、1980年ごろ)も4台のピアノで演奏されることの多い作品で、不協和で硬質な響きが緊張感をもたらす。イーストマンはこの時期の自作が目指すものを「有機的音楽」と呼んだが、まさしく有機的で不定形な印象を残す楽曲群がつくりだされた。

イーストマンは1960年代末から1976年ごろにかけてはニューヨーク州バッファローで活動し、現地のニューヨーク州立大学バッファロー校で教鞭もとった。1976年夏にニューヨークに移り住み、新たなコミュニティーを築きはじめる。

“Evil N****r”をはじめとする「N****r」シリーズや“Gay Guerrilla”といった挑発的なタイトルのアグレッシブな作品を発表しはじめたのはニューヨークに移って以後のことで、ある意味ではこの移住を契機に彼は自らのアイデンティティを単刀直入に表現するようになったように見える(※)。

ニューヨーク移住前の1970年、ピーター・マックスウェル・デイヴィスの『Eight Songs for a Mad King』のリハーサル時の様子 / ジュリアス・イーストマン『Femenine』インサートより(bandcampを開く)

実際、ニューヨーク移住直前のインタビューでは、しばしば引用されるこんな発言をしている。

「私が獲得しようとしているのは、最大限に自分らしくあることです——最大限に黒人であり、最大限にミュージシャンであり、最大限にホモセクシュアルでありたいのです。自分がどうあるべきかを学ぶことは重要です、つまり自分のすべてを受け入れるということです」 - 『Buffalo Evening News』1976年7月17日掲載記事より(筆者訳)ちょうど5月末、6月のPride Monthに先駆けるように、そんなイーストマンの重要作のひとつがアナログ盤でリイシューされた。1974年に書かれた『Femenine』(スペルはママ)だ。

本来は、対となる「Masculine」という作品も存在していたが、現在は失われている。『Femenine』は“Stay On It”の軽快さとも、ニューヨーク移住以後に聴かれるアグレッシブな表現とも異なる、陳腐さを承知で言えば「美しい」作品だ。メアリー・ジェイン・リーチはリリースに寄せたライナーノーツで、本作をふたつの時期の移行期的な作品と位置づけている。

今回のリリースは、もともと2016年にリリースされたアーカイブ録音を、2022年にジム・オルークのリマスタリングによってリイシューしたもののヴァイナル化だ。

ジュリアス・イーストマン『Femenine』アートワーク(bandcampを開く)

必ずしも十全に保存されていたわけではないアーカイブであるため、やや聴き取りづらい部分もあれば、レベルオーバーしてしまっている箇所もある。しかしながら、機械仕掛けのスレイ・ベル(わざわざイーストマン自身で開発したらしい)を背景に繰り広げられる、シンプルなフレーズの反復。そして、大部分即興的に、あるいはリハーサルを重ねながら構築されたであろう豊かなテクスチャーの群れは、胸をうつような瞬間を70分ほどの演奏時間のなかに山ほど封じ込めている。

『Femenine』は、“Stay On It”ほどグルーヴィーな反復を持ってはいない。むしろ、ゆったりと大きな流れをつくりだすような壮大さと、相反するような親密さに満ちている。とはいえ、そのメインのフレーズを取りだしてみればわかるように、そこにはシンコペーションがあり、その反復と各楽器のレイヤーには、ゆるやかに身を任せたくなるようなリズムの表現が感じられる。

ライナーノーツによれば、この演奏中、イーストマンは女性用のドレスを身に着けており、観客には自ら準備したスープを振る舞ったという。フルクサス的なユーモアにも、親密さへのアプローチにも、クイアな表現にも思えるイーストマンの振る舞いが、この作品の響きにどのような効果をもたらしたか。想像は尽きない。

音楽評論家のカイル・ギャンが『Unjust Malaise』のライナーで、あるいはNPRのトム・ハイゼンガが近年のウェブ記事で指摘するように(*4)、“Stay On It”や『Femenine』はその制作時期を考えるときわめて予見的だ。すでにミニマリズムは長らく関心の的だったとはいえ、より大きな展開を見せはじめるのは同時期か、もう少しだけあとのこと。

たとえばスティーヴ・ライヒの『Music for 18 Musicians』は1974年から1976年に作曲され、初演は1976年。フィリップ・グラスの『Music in Twelve Parts』は1971年から1974年に制作され、1974年に録音されているし、『Einstein on the Beach』は1975年に書かれ、1976年に初演された。

この時期のイーストマンの作品は、ジャズやポップのイディオムや方法(とりわけ即興)を取り入れ、同時代のミニマリズムと一線を画するように開かれていた。そしてニューヨーク移住以後には、自らのインターセクショナルなアイデンティティに信念を持ち、制作を行なった。

マシュー・メンデスは自身の論考のなかで(※)、イーストマンの“Stay On It”について、「外の世界」の政治との関わりという面からライヒやグラスよりもフレデリック・ジェフスキーとの共振を指摘しているが、それを敷衍していえば、イーストマンにとって音楽はキャリアを追うごとに、自身のアイデンティティと外の世界——決してイーストマンには優しくなかったであろう世界——を摩擦させるものとなっていたように思える。

『Femenine』は“Evil N****r”や“Gay Guerrilla”に次いでとりあげられることの多いレパートリーで、録音としてもApartment Houseによるものが2019年に、Ensemble 0 & Aum Grand Ensembleによるものが2021年に、そしてイーストマンの作品を集中的にとりあげ続けているWild Upによるものが同じく2021年にリリースされている。

いずれも素晴らしい録音だ。このように彼の作品が新たに現代音楽のレパートリーとなっていくことはもちろん喜ばしいことだ。しかし、イーストマンの足跡をたどりながらその作品を聴くとき、レザーに身を包んだ、あるいはドレスを身に着けてスープを配る、そんな彼の姿を思い起こさないわけにはいかない。

自らのアイデンティティを臆することなく作品に結びつけた彼の創作行為に、後世の私たちはどのように向き合うべきか。そのひとつの答えは、もしかすると、このように彼の姿を語り継ぐことなのではないかと思う。
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