「負けたらあかん」で53年、天童よしみ“のど自慢”荒らしが歌謡界を代表する歌手になるまで

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2023年10月08日 21:00  週刊女性PRIME

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歌手・天童よしみ

 天童よしみはステージで歌うとき、感情が高ぶって、泣いたりすることはほとんどない。しかし昨年リリースした50周年記念アルバムのタイトル曲『帰郷』をコンサートで歌うときには感極まって、涙を流しながら歌うことも珍しくないという。

天童よしみが泣くと気持ちが曲に乗る

 天童バンドのドラマー・そうる透(65)が語る。

ボーカルが泣くとよくないと思われるかもしれないけど、天童さんの場合は、全然そうではない。むしろその気持ちが曲に乗って、観客に伝わるんですよね。

 歌詞に“ありがとう”という言葉が何度も出てくるんだけど、その“ありがとう”の声の表情がすべて違う。しかもコンサートの場所によっても違う。仙台、神奈川、大阪、岡山……同じ“ありがとう”がないんです。いつも客席の方の年齢、性別、いろいろな要素をよく見て、どんなふうに歌えば伝わりやすいかを微調整しています」

 客席を見渡すと観客も一緒に泣いている。この『帰郷』は、これまでの天童の人生を歌った曲ではあるのだが、コロナ禍でコンサートが開けなかったこと、そしてようやく今、ファンと再会できる喜びを歌った曲のようでもある。《帰ってきたわ 故郷(ここ)に》の「故郷」にそれぞれの地名をあてて歌うと、ファンの涙腺は崩壊する。

 コロナが蔓延して以降、コンサートの予定がすべてキャンセルになった。天童は、「歌をやめようか」と考えたことがあったという。しかし「ゼロからスタートできるチャンスってそう経験できることではない」と気持ちを切り替え、ファンクラブの人たちに直接電話をし、これまでの感謝を伝えた。半世紀の歌手生活で初めての経験だ。

「みなさん喜んでくれました。でも中にはファンのダンナさんが電話に出られて、いくら説明しても振り込め詐欺だと思われて電話を切られたこともありました(笑)」

『NHK紅白歌合戦』27回と輝かしい実績

 彼女の輝かしいキャリアはあらためて言うまでもない。『NHK紅白歌合戦』に通算27回、現在26回連続出場中でトリも3回務めた。シングル『珍島物語』は130万枚超えのミリオンセラー。'17年には日本レコード大賞最優秀歌唱賞を女性歌手としては史上初、3度目の受賞をした。

 押しも押されもせぬ歌謡界を代表する歌手が、自らファンに直接電話をする。それは、天童が歌い手として歩んできた道のりと無関係ではない。どん底で打ちひしがれていたときも、ファンがいてくれたからこそ頑張れた。「負けてたまるか」で歩んできた天童の半生をたどりたい。

《やってやれない事はない》

 そんな歌い出しで始まる『女侠一代』(畠山みどり)が、天童よしみが生まれて初めて覚えた演歌である。その後の天童の人生を暗示するかのような歌詞だが、選曲したのは父親。バンドを組み、サックスを吹くほどの音楽好きで、娘に歌を教えるのが半ば生きがいのようになっていた。時に厳しい要求が続いた。『女侠一代』には浪曲節でコブシを回さなければならない部分がある。小学1年生の天童には難しかった。

 克服するチャンスが訪れたのは、父親の運転する自転車の荷台に乗せてもらって歌の練習をしていたときだ。凸凹道にさしかかって自転車が上下運動をしたとき、いきなりコブシが回った。父親は、

「それや! それがコブシや! もう一回行くで!」

 何度も凸凹道を往復した。

「スポ根アニメの『巨人の星』みたいでね。でもそのおかげでコブシというのは喉だけで歌うのではなく、身体全体を使うものだとわかりました」

のど自慢で“常勝”の天童が味わった挫折

 小学生のころは、宿題を終えると、歌の練習が始まる毎日。そのかいあって“のど自慢荒らし”の異名をとった。6歳で出場した「素人名人会」では、大好きな歌のひとつ、中尾ミエの『可愛いベイビー』で名人賞を獲得。のど自慢会場でよく顔を合わせたのは、のちに漫才師になる上沼恵美子だ。今でこそ圧倒的な存在感を見せる上沼だが、歌では天童の敵ではなかった。11歳のとき、子どものど自慢の最高峰『日清ちびっこのどじまん』でも、上沼を退け天童がグランドチャンピオンに輝いた。

「そのとき、恵美子さんは手を叩いて祝福してくれて、すごくデキた人だなと思っていました。ずっと後になって、“あのとき、悔しくなかったの?”って恵美子さんに聞いたら、“首絞めたくなるぐらい悔しかった”って。“でもね、よしみちゃんには絞める首がなかった”って(笑)」

 しかし天童にも上沼の気持ちがわかる日がくる。『ちびっこのどじまん』の日本一決定戦で敗れたのだ。初めての敗北経験。天童は演歌『北海育ち』、優勝者はポップス『バケーション』。

「演歌じゃいけないのかと思い、落ち込みました。歌で勝ち負けを競うのも疲れてきたし、そもそも歌う喜びを感じていなかったように思いますね。喜んでいるのは両親ばかりで。歌うこと自体、楽しくなくなって、父との練習もしなくなりました」

 父親は「歌を忘れたカナリアは」と間近で歌って奮起を促したが、反発しか湧かなかった。当時は、ザ・タイガースのジュリー(沢田研二)に夢中だったのだ。

 数年後のある日─。

「こんな番組やってるで!」

 父親が勉強中の天童にこう呼びかけたのは中学3年生のときだった。テレビで『全日本歌謡選手権』という番組が放送されていた。プロとアマチュアが共に競い、10週連続勝ち抜くとデビューできるという番組。見たら、審査員が「歌なんかやめて米作りに励みなさい」とエラそうにコメントしている。ルポライターの竹中労さんだ。「絶対にイヤ」と言ったが、父親は「これまで歌ってきた曲、10個並べてみろ」という。書き出してみると10曲がそろった。

「10週勝ち抜く気満々の父の顔を見ていたら、どういうわけか、出ようかなという気になったんです」

 順調に勝ち抜いた。するとファンレターが段ボール箱3〜4個分も届くではないか。

「うれしくてね。デビュー前でこれ? もしデビューしたらもっとすごいことになる。絶対にプロになりたい、という気持ちが強くなりました」

 天童は見事10週勝ち抜きに成功。そして『風が吹く』という曲でキャニオンレコードからデビューした。「天から授かった童」という意味で芸名は「天童よしみ」。曲の作詞も命名も、例のエラそうに話していた審査員・竹中さんだった。

どん底の天童を救った偶然の出会いとは

 '72年、母親と上京。キャッチフレーズは「恐るべき天才少女」。デビュー曲はある程度ヒットしたが、2曲目以降が売れなかった。当時、山本リンダの『どうにもとまらない』などポップスが全盛期。「演歌は太刀打ちできなかった」と天童は振り返りつつ、

「自分のせいで親が別居生活になり迷惑をかけている。でも私としてはもう少し頑張ってみたい。引き裂かれる思いでしたね」

 5年後の'77年、いったん大阪に帰郷することにした。しかし歌手はやめたわけではない。温泉施設に行ってレコードを手売りしたり、河内音頭が好評だったので、盆踊り会場で歌ったりしていた。

「祭りに父が来たことがあって、“河内音頭のよしみ”と書かれた法被を身につけていたのですが、よく見ると“演歌の天童”と父が書き足してある。娘は河内音頭だけやないぞというプライドを持っていた。私の気持ちをよくわかってくれているなと思いました」

 天童は当時、歌手をやめようかと落ち込んでいた。LPレコードを作っても、河内音頭が主で演歌は添え物の扱い。その状況に絶望していたのだ。

「“歌をやめる”と母に言いました。でも絶対に後悔するからと引き留められました」

 時間に余裕があったので、料理やお茶、お花を習った。「料理には興味がなくて、料理教室に行くフリをして友達とディスコに行っていました(笑)。でもお花は楽しかったですね。未生御流の先生は私の生けた花を見て、“芯が通ってるわ”と褒めてくださいました」

天童が近くにいると紅白歌合戦を見ない両親

 両親は、歌手として思うに任せない娘を気遣った。大みそか、親は紅白歌合戦を見たいのに、天童が近くにいるとほかの番組を見た。しかし本人は気にしたことなどなかった。帰郷する前年の'76年、同期で同じレコード会社に所属する研ナオコが、紅白歌合戦に初出場したときでさえうれし泣きしたのだから。

 そのころ、天童は歌謡教室を始めている。社員に歌が下手だとバカにされた父の知り合いの社長が、教えてほしいと頼み込んできたのだ。ワンポイントの指導でグッと上達した社長が、天童の教え方のうまさを口コミで広げ、生徒は200人を数えるまでになった。生徒の励みにしようと、定期的に発表会を開いた。会の最後に天童が行う「模範歌唱」が生徒には好評だった。

「生徒さんの表情を見て、私のオリジナル曲を出したいと。その曲をみんなに歌ってほしいと強く思いましたね」

 当時、レコード会社との契約が切れることになっていたが、捨てる神あれば拾う神あり。'85年ごろ、天童の生徒夫婦が大阪キタのスナックでカラオケを歌っていたら「上手やね」と褒める客がいた。

「天童よしみさんに教えてもらっているので」と答えると、「えっ? 彼女の連絡先わかる?」と聞く。テイチクレコードの営業部長だったのだ。その部長には天童にぜひ歌ってほしい曲があった。

 それこそが『道頓堀人情』だった。天童は両親と一緒に曲を聴いた。「これや!」。そう言って抱き合って号泣した。

《負けたらあかんで東京に》

 つらいことがあってもそれは過去のことだという意味の歌詞もあった。天童たちが当時抱えていた思いを代弁するような曲だった。


 だが喜ぶのは早かった。レコードが発売される'85年12月に合わせ、1日10軒の店を回って歌う全国キャンペーンの指令が出たのだ。赤提灯やスナックに飛び込みで歌う。北海道の果てにぽつんと立つ一軒家に住むファンに会いに行き、そのおじいさんのためだけに歌う……。そんなことを来る日も来る日も続けた。

「焼き鳥屋さんの煙の中で歌うのはしょっちゅう。ダンプカーが巻き上げた砂煙が入ってくるような店で歌うこともありました」

 一緒に回った母親に言われたことがある。

「お客さんが少なくても、あんたは一生懸命やらなあかんで。どんなときでも手、抜いたらあかん。一生懸命まじめにやってたら誰かが見てる。その人が力をくれたり支えになったりするんやから」

 真冬の北海道の焼き鳥店での出来事は一生忘れない。狭い店内には母親の居場所がなく、外で待ってもらった。歌を終えて母の頬を触ったときの冷たさといったらなかった。天童さんは心に誓った。

「こんな仕事はもうさせたくない。暖かい部屋でいられるようにしてあげたい」

 キャンペーンが半年を過ぎたころ、テイチクのディレクターに言ったことがある。

「テレビには出られないんでしょうか? 一軒一軒回るよりもテレビに出たほうが……」

 怒られた。

「テレビなんて自分で出るもんじゃないの。売れたら向こうから言ってくるものだよ」

 二の句が継げず、“のし上がるしかない”と思った。

 それから間もなく、有線放送で『道頓堀人情』がかかり始めた。

「店を回っていると、あっちの店からもこっちの店からも『道頓堀人情』が流れてくるんです。“道頓堀人情の花道”ができたみたいで、これがヒットなんやと思いました」

 '86年、全日本有線放送大賞上半期特別賞を受賞した。

 ただ『道頓堀人情』以降、ヒットが生まれなかった。あるディレクターに言われた。

「天童さんのファンは女性が多いのに男歌が多い。もっと女性の切なさを歌った曲がいいんじゃないですか?」

 それを受けて女心を歌ったのが『酔ごころ』('92年)。これがヒットし、翌年も『酒きずな』という女歌をリリースすると、'93年の紅白歌合戦への初出場が決まった。

演歌歌手のイメージを破る“キャラ変”

 天童はよほどのことがない限り、人の意見を採り入れるようにしている。両親からの助言があったからだ。

「自分がええと思っている曲ばかり歌っていると、自己満足で終わるぞ」

 その教えを守り続けて手にした曲が『珍島物語』である。実は天童、この曲のデモテープを聴いたとき、自分の曲ではないと思った。メロディーが単調、演歌っぽくない、コブシがない。一度は断った。が、テイチクの社長から「心機一転も大事」と言われ、聴かせるアレンジに仕上がっていたので引き受けることにした。するとあれよあれよという間にミリオンセラーに。'97年、2度目の紅白歌合戦出場を果たした。

 実はこのころから、ひそかに天童の“キャラ変”計画が動き始めていた。本人によると、

「演歌歌手は笑っちゃいけない。着る物もパンツスーツ中心で男っぽいイメージ。性格もやや暗めで、話す言葉も共通語。台本以外のことはしゃべらないように事務所の社長から言われていました」

 だが当時、事務所スタッフとして天童に同行していた安念孝仁さん(60)は、それではもったいないと考えていた。普段の天童は話が面白いからだ。

 例えば、仲の良い歌手数人で高級寿司を食べに行った際、割り勘で払うことになったのだが、みんながゴールドのクレジットカードで払っているのを見て、私もカードでと思った天童、普段は現金主義なので、間違って病院の診察券を出してしまった話、カラオケで歌った点数が出る機種が出始めたころ、天童が持ち歌を完璧に歌ったにもかかわらず40点と表示が出て、「この機械、壊れてるなあ」と言って店を出た話。

 次は母親のエピソードで、舞台にはせり上がり用の穴があいているのだが、そこに天童が落ちて大ケガしないか心配で、舞台袖で見ていた母親が「気ぃつけや」とつぶやきながら、客席から見える場所に立った話……。

 こうした面白エピソードは山ほどあるので、それをステージのトークやテレビのバラエティーなど用途に応じて、天童とネタを考えた。

「言葉も天童さんの良さが出る大阪弁にしました。大阪のコンサートに来られた方の感想で“さすが天童さん、話が上手だわ、ヨシモトとは違うな”と。勘違いさせるほど笑わせることができて、思わずガッツポーズしました(笑)」(安念さん)

 NHKの歌番組のコーナーで、亡くなった遠藤実さんとの思い出を複数の歌手が語ることになったとき、安念さんらと天童は作戦を決行。台本にはない独自ネタ話を披露した。「遠藤先生から、あなたはキレイになると言われました」と。アナウンサーはとっさのことに固まったが、客席が揺れるほどの大爆笑に。

「そうしたチャレンジを続けていくうちに、天童さんは明るく面白い人というイメージが浸透して、レコード会社も“人間・天童よしみ”、親しみやすさを押し出していこうという戦略に転換していったのです」(安念さん)

 2頭身の「よしみちゃん人形」ができたのも、その一環だった。店頭に並ぶと、生産が追いつかないぐらい売れた。魔除け、歌がうまくなるお守りなどのご利益があるともいわれた。ノーベル製菓の『VC-3000のど飴』のCMで「なめたらあ・か・ん〜♪」を歌い始めたのも'98年。コンサート会場にも若い女性が来るようになった。

演歌歌手を超えたノンジャンルボーカリスト

 面白いキャラクターになったからといって、歌の魅力が落ちるわけではなかった。付き人として'86年ごろから天童の歌を間近で聴いてきた歌手のおおい大輔(58)は言う。

「ステージでご一緒したり、観客席から聴いたりしても、天童さんの歌って、なんでこんなに泣けるんだろうと思うんですよね。同じ曲を何回も聴いているのに」

 その秘密について、天童の音響にも携わってきた前出の安念さんに聞くと、「天童さんの歌には人の魂を揺さぶる特徴がある」と言う。

「ひとつは声のパワーです。ロングトーンの声を出しても減衰するどころか、声がひと山もふた山も伸びていく。高出力のターボエンジンを積んでいるかのようです。そして倍音です。1人の声で幾重にも音が重なって和音が鳴っているような印象で、それが豊かだから人の魂の中に入っていくのだと思います」

 その才能は、海外でも評価された。2004年、ディズニー映画『ブラザー・ベア』の劇中歌『グレイト・スピリット』を日本語で歌う歌手を探していたときだ。J―POPを中心とした複数の歌手のサンプル音源がアメリカに送られた。その中に天童のものも入っていた。選ぶのは、映画の音楽プロデュースを担当したドラマーのフィル・コリンズ。彼が白羽の矢を立てたのが天童だった。

「アメリカでは同じ曲をティナ・ターナーさんが歌っているんですよ。めっちゃ高いキーを裏声を使わずに歌わなければならない。本当に出せるかなとずっと不安でした。喉から血を出してもやるぞ、という覚悟で臨みました。するとね、出せたんです。ホッとして泣いてしまいました」

 できあがった作品は、“ロックの女王”ティナ・ターナーに引けを取らないパワフルでソウルフルなものになっていた。それがきっかけになったのか、新しいチャレンジをするようになる。

 '05年には、『こぶしのない夜』というライブを開催。バンドメンバーには、冒頭に登場したドラムのそうる透、ベースの高橋ゲタ夫などロックやJ―POPなどを主戦場とするミュージシャンが参加。曲もアップテンポのポップス、ロック、ジャズ、沢田研二メドレー、アニメソングなど、これまでの天童からは想像もつかない内容だった。

「最高でしたね。そうるさんたちはそれ以来、私のバンドメンバーになってくれてね。演歌のリハーサルは1日で終わることが多いんですが、そうるさんたちが入ってからは、約1週間かけて私の歌に合わせて演奏を作ってくれる。だから毎回、演奏に酔わされてしまうんです。でも私は“負けるか”と思って、タイミングを少しズラしてみたり、それがすごく楽しいんです」

「ずっとステージに立っていたい」

 そうるは「それは、音楽で会話が成り立っているからだ」と言う。そうるによれば、天童はバンドを率いる“バンマス”みたいな人だと形容する。自分の音のイメージをしっかり持っていて、それぞれのパートにちゃんと伝えられるのだ。そうるはこう続ける。

「よしみさんは、ノンジャンルのボーカリストとしては、ナンバーワンなんじゃないかな。昔は美空ひばりさんがその地位にいましたよね、ジャズもすごくうまくて。よしみさんはジャズだけでなくクラシック系のメロディーも平気で歌えてしまう。チャレンジ精神が旺盛だから、一緒にやっていて楽しい」

 そんな才能に着目したのがジャズトランペッター・日野皓正だ。日野はひばりさんとも『テネシー・ワルツ』などをセッションしたことがある。天童は『愛燦燦』を歌ったが、共演したとき、日野にこう言われた。

「よしみさんの声ってアメリカだよ。アメリカ行きなよ!ニューヨークもいいよ。絶対行けるよ!」

 アメリカ行きはまだ実現していないが、新しい分野へのチャレンジを続け、活動の幅を着実に広げている。

 今年2月公開の映画『湯道』では銀幕デビューを果たし、クリス・ハートと銭湯デュエットを果たしたかと思えば、今度は悪役を演じる。

 9月公開の『BAD LANDS バッド・ランズ』である。安藤サクラ扮する特殊詐欺師らが、思いがけず大金を手に入れたのを機に巨悪に追われるストーリー。天童はヤクザとつながる特殊詐欺の道具屋“新井ママ”。ヒットメーカーの原田眞人監督が、

「天童さんが歌う堂々とした立ち姿がこの役にふさわしい」

 と直々にオファー。演技に厳しい監督なので、天童は終始緊張していたが、

「これまで劇場公演の時代劇で岡っ引きなどの男役も経験してきたので、自分の中のイメージで演じました」

出演映画『翔んで埼玉 〜琵琶湖より愛をこめて〜』

 歌のステージでは一曲ごとに主人公が変わるのを演じ分けて歌で表現するが、映画では同じシーンを繰り返し撮影するので、同じテンションを持続させる気持ちの入れ方が勉強になったという。

 11月にはもう一本の出演映画『翔んで埼玉 〜琵琶湖より愛をこめて〜』の公開が控えている。

 同じ11月、ミュージカル『日劇前で逢いましょう』にも出演予定だ。本格的なミュージカル出演は初めて。昨年『三都物語』というミュージカルに出演したのをきっかけに知り合った演出家からのオファーで実現。今回は昭和のスター歌手を演じるという。

「お芝居のセリフに歌がついているので表現力が高まって、お客様に感情を伝えやすいので、演じていて楽しいです」

 こうしたさまざまなチャレンジが功を奏したのか、コンサートには初めて来たという人が増えているという。

 新しいことに果敢に取り組んでいく天童の姿を見ていると、以前聞いた、京都のある古刹の僧侶の言葉を思い出す。

「古いものの中に絶えず新しいものを注入し続けてきたからこそ、京都は魅力を失わなかった」

 その際大切なのは、「本質的なもの」は絶対に見失わないことだとも。天童にとっての本質とは、歌でありファンだろう。

 今年、コンサートで始めた新しい試みがある。公演が終わった後に行う「見送り会」だ。

「お客様に絶対にお礼を言いたい」

 そう思ったのだという。CDを買ってくださった方にグータッチをして謝意を伝え、見送る。

「いつも長蛇の列ができるんですけど、みなさん感想や思いを短い時間ですがお話ししてくださるのがうれしいです」

 コロナ禍で抱いていた不安は、もう天童にはない。

「ずっとステージに立っていたいです。どんなことがあっても、今までの天童よしみの世界をひとつずつ組み立てていければと思っています」

 どんなことがあっても人生を諦めない─そんな姿勢が、天童よしみという歌手には貫かれている。

<取材・文/西所正道>

にしどころ・まさみち ノンフィクションライター。雑誌記者を経て現職。人物取材が好きで、著書に『東京五輪の残像』(中公文庫)、『絵描き 中島潔 地獄絵一〇〇〇日』(エイチアンドアイ)などがある。

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