止まらない“承認欲求”…現代の空気感をリアルに描く『シック・オブ・マイセルフ』

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2023年10月14日 17:01  cinemacafe.net

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『シック・オブ・マイセルフ』© Oslo Pictures / Garagefilm / Film I Väst 2022
2012年に設立し、10年余りで唯一無二のブランドへと成長した映画会社A24。2023年の第95回アカデミー賞では『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』『ザ・ホエール』が主要部門を席巻し、『aftersun/アフターサン』『その道の向こうに』『CLOSE/クロース』『マルセル 靴をはいた小さな貝』と製作や北米配給を手掛けた作品が続々とノミネートを果たした。

A24といえば『ミッドサマー』のアリ・アスターを筆頭に、個性的な若手監督をピックアップする“目利き”な采配で知られている。そのアスターがプロデュースし、ニコラス・ケイジが主演し、A24が配給を手掛ける新作『Dream Scenario(原題)』を手掛けた俊英クリストファー・ボルグリ。『ミッドサマー』チームが熱視線を送る才能が2022年に生み出した映画『シック・オブ・マイセルフ』が、10月13日より劇場公開。“承認欲求おばけ”の実像をブラックに、それでいて切実に描き切った本作は、いまの時代に突き刺さるリアルタイムな空気感を内包している。

30代=ネットリアタイ世代の俊英による、生きた「承認欲求」

まずは、簡単に『シック・オブ・マイセルフ』のあらすじを紹介しよう。アーティストである恋人のトーマス(エイリック・セザー)が脚光を浴び始め、嫉妬を抱くシグネ(クリスティン・クヤトゥ・ソープ)。彼女は、あるきっかけから承認欲求をエスカレートさせていく。しかし、その方法はあまりに危険で――。

「承認欲求」はインターネットの台頭で加速し、SNSが生活に浸透していくにしたがって最早三大欲求(食欲・睡眠欲・性欲)に付随するレベルにまで肥大してしまった感すらある、いわば現代病のひとつ。当然、様々な映画でも題材に取り上げられてきたが――これは個人的な感覚だが、その正体を的確に表せている作品はあまり多くないように思う。その要因の一つは、世代的な問題だ。青春時代をネットやSNSと共に過ごすことを免れた世代の作り手は、どうしても他者的な批判・批評めいた目線でこの問題を斬りがち。ただ我々(ゆとり〜Z世代)においては、「そうではない」ことが肌感としてわかるのではないか。我々自身が実生活で経験している日常的な悩みでもあるからだ。

例えば同じA24の『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』のボー・バーナムは1990年生まれ、『メインストリーム』のジア・コッポラ監督は1987年生まれ。一概に年齢だけで判断できない部分はあれど、ネット社会に対する解像度が高い作品の作り手は、やはり若手が多い(なお、アリ・アスターは1986年生まれ)。例えばリューベン・オストルンド監督(1974年生まれ)が『ザ・スクエア 思いやりの聖域』『逆転のトライアングル』で描く「炎上商法」「インフルエンサー」とは、距離感がだいぶ異なっている。

そして、『シック・オブ・マイセルフ』のクリストファー・ボルグリは1985年生まれ。リアル/デジタルの他者からの評価を欲してしまう「承認欲求」のどうしようもなさ(止められなさ)、そんな自分にどこか引いていたりもするアンビバレントな状態等々、加熱/冷めた心理描写が絶妙だ。シグネの行為自体は過激だと感じても、そうさせる心理には思い当たるフシしかないのではないか。実に先鋭的な切れ味を、震えながら楽しんでいただきたい。

「ルッキズム」「多様性」「盗作」「搾取」――現代の問題を網羅

承認欲求をテーマにしているという点で“いま”感の強い『シック・オブ・マイセルフ』だが、時代に突き刺さる要素はそれだけではない。「ルッキズム」や「多様性」「創作におけるオリジナリティ」「搾取」に対するエグい球を次々と繰り出してくる。シグネは働いているカフェである事件に遭遇して血を浴び、「自分を傷つけたら注目を浴びるのでは?」と考えてしまう。そして違法薬物に手を出し、身体がどんどん変化していくのだが…。

見た目や容姿に対する過度な意識はルッキズムに通じ、直近ではNetflixシリーズ「マスクガール」等でも描かれている。小説では金原ひとみの「デバッガー」(作品集「アンソーシャル ディスタンス」収録)や綿矢りさの「眼帯のミニーマウス」(作品集「嫌いなら呼ぶなよ」収録)で“お直し(整形)”に熱中する人々が描かれており、こうした題材選びにおいても時代の匂いをかぎ取る非凡な嗅覚を感じさせる。

さらに、シグネが変化させた外見を病気と偽り、ハンディキャップを背負った人々による「セルフラブ」の広告塔としてプチブレイクしていく展開は、「多様性」を痛烈に皮肉ったものといえるだろう。同じノルウェーのオスロを舞台にした『わたしは最悪。』や、マイノリティがマジョリティを“利用”するさまを描いた高瀬隼子の「おいしいごはんが食べられますように」や年森瑛の「N/A」といった小説にも通じ、複雑化した現代のひりついた空気感を鮮度高くパッキングしている。

また、トーマスの表現技法は既存の家具をかっぱらってきて作品化するようなものであり、シグネも活動に加担させられる。マルセル・デュシャンはかつてアート界に「レディ・メイド」というジャンルを構築したが(トイレの便器を作品化した「泉」が有名)、トーマスはそんな崇高なものではなく“引用”というのもおこがましいほど。「バズれば著作権を無視していい」というマインドや、恋人という立場を利用した搾取――。今日(ようやく)問題視されるようになったトピックが、『シック・オブ・マイセルフ』にはごまんと盛り込まれている。

毒された「普通の我々」を暴き切る心理描写

しかし、『シック・オブ・マイセルフ』の凄まじい点は、それらが飛び道具的に暴れまくっているのではなく、必然性をたたえながら一つの物語に収まっていること。着眼点や解像度の高さもさることながら、センセーショナルなトピックの数々をまとめてしまえる筆力と作品の強度は、目を見張るものがある。それでいて、さりげない「居心地の悪さ」等の描き方が抜群に上手い。

例えば、トーマスが主役のパーティに参加したシグネの居場所のなさ、皆の気を引こうと発言するもエアポケット的な沈黙を作ってしまい、後に引けなくなって虚言が膨らみ騒動になっていく流れや、自分が悲惨な状態に陥っても「これバズネタじゃない?」と考えてしまう卑しさ等々――「目も当てられない」と思いながらも、あくまで多少デフォルメされただけでそこに映っているのは私たちの分身。普通であると信じたい我々の闇深さをしっかりわかってくれて、容赦なく突き飛ばす『シック・オブ・マイセルフ』、観賞後に救われるか食らうか…勇気をもって試してみてほしい。




(SYO)
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