「4つエラーしても次の日、使ってくれた」。愛弟子が学んだ阪急ブレーブスの名将

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2023年11月07日 18:10  週プレNEWS

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1984年、パ・リーグ優勝を果たした阪急の上田監督と主力選手たち(写真=共同通信社)


【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第2章 愛媛マンダリンパイレーツ監督・弓岡敬二郎編 第4回

かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第2章・第4回は、1980年代に阪急ブレーブスの名ショートとして名を馳せ、現在は独立リーグ屈指の名将として愛媛マンダリンパイレーツ(以下、愛媛MP)の指揮を執る弓岡敬二郎が、ブーマーが大暴れした阪急最後の優勝について語る。(文中敬称略)

【写真】練習場の古いポスターにプロ野球(NPB)入りの夢をつかんだ選手の姿が

■山田、今井、佐藤義、山沖がフル回転

1984年シーズン、上田利治監督の阪急は、日本式の野球に順応して開花し、打率.355、37本塁打、130打点という圧倒的な成績で来日外国人初の三冠王に輝いたブーマーの活躍に牽引され、6年ぶり10度目のリーグ優勝を達成した。

弓岡が振り返る。

「84年シーズンは、何やってもうまいこといったんですよね。ブーマーが三冠王いうたら、それにウワーッと乗っていけるような感じやったです。優勝するときって、そうじゃないですか。みんなが調子良うて、ブワーッとなるいうのがね。そやから相乗効果じゃないけど、誰かが良かったら、それに便乗してブワーッと。ブーマーのおかげでね」

実は、ブーマーの活躍で優勝した84年シーズンと、西武に17ゲーム差をつけられて2位に甘んじた前年83年シーズンのチーム打率は同じ.272。84年は本塁打数も167で、前年から9本増えただけだ。

打撃陣以上に貢献したのは投手陣だった。

先発では、7月、膝に打球を受け骨折し長期離脱するも不屈の魂で復帰し、広島との日本シリーズで3試合に登板したエース山田久志(14勝4敗)。キャリアハイの成績を残し胴上げ投手になった14年目の大ベテラン今井雄太郎(21勝9敗、最多勝、最優秀防御率のタイトル獲得)。抑えから先発に再転向した佐藤義則(17勝6敗)の3人。

一方、前年は先発で15勝を稼ぎながら抑えにまわった山沖之彦(11勝8敗15S)は、リーグ最多の48試合に登板するなど、投手陣は盤石の体制。84年シーズン、チーム防御率はリーグ唯一の3点台(3.72)で、2位の西武(4.10)を大きく引き離していた。


ただ弓岡が振り返るように、長短含め勝負どころで必ず安打し、打点を稼ぐ頼もしいブーマーの存在が、結果、投手陣にとっても安心してマウンドに上がれる状態を生んだのかもしれない。ちなみに打線の繋ぎ役、2番・弓岡もリーグ最多の49犠打を記録し、打率もキャリアハイ(.304)の成績でリーグ優勝に貢献した。まさに選手全員の力が結集して掴んだ6年ぶりの栄光だった。

「上田さん、選手ではあんまり実績なかったのに、コーチしたわけですよね。今思うたらね、『なんや、お前、選手のときにたいしたことないのに、なんで俺らに言う』みたいなもんでしょ。それを理論づけて教えて、日本一の監督にまでなったのはすごいなあと思うて。

日本シリーズで3連覇して名監督と呼ばれるようになっても、謙虚で驕(おご)るようなこともない。臨時コーチに山内(一弘)さん呼んで、おかげで自分もバッティングについて勉強しよるわけですよね。

上田さんは、めちゃくちゃ本読んでました。野村さんも理論派で有名でしょ。僕らも野村さんの書いた本を読んだりしましたけど、上田さんなんかもっと前からこういうことをやっとったな、いうのは、ようありましたよ」

■野村克也には負けない、という気概

上田と同時代を生きた野村克也。同じ捕手出身の名将同士だが、戦後初の三冠王など輝かしい実績を積み重ねて26年間も現役を続けた野村とは対照的に、上田の現役生活はわずか3年。

指導者としても対照的で、34歳で一軍の選手兼任監督に就任した野村に対して、上田は1962年、25歳のとき、日本プロ野球史上最年少で広島カープの二軍コーチに就任。

翌年一軍バッテリーコーチ、その後は一軍打撃コーチになり、71年、広島から阪急に移籍してヘッドコーチを務めたのち、74年、西本幸雄の後継者として阪急の監督に就任した。37歳という若さではあったものの、現役引退から12年間かけて一軍監督まで上り詰めた。


口にすることはなかったものの、上田の緻密なデータに基づいた作戦を駆使する理論的な戦い方は、野村監督のいわゆる「ID野球」には絶対負けない、という気概を強く感じたという。そんな上田監督の人柄について、弓岡はこう話した。

「間違うてないと思うたら、とことん言うタイプですよ。『そらあ、あんたら』って、よう言われました。もう遠慮せんと、山田、福本(豊)、加藤(秀司)にも結構言うてましたからね。『それはあかんぞ』とか、よう言うてましたもん。でも、上田さんはきっちりした性格の反面、情の人でもありました。

僕、西武戦やと思うんですけど、1試合で3つか4つエラーしたことあったんですよ。それで勝ちゲームをひっくり返された。スローイングミスで、ワンバン放ってね。それでも上田さんは交代させず、次の日も使こうてくれましたもんね。それは、意気に感じますよね。

僕が監督やったら、『何しとるんや!』とすぐ代えるけどね。次の日も使いません(笑)。野球人生の中で上田さんとの出会いは大きかったですよね。現役時代から、将来、上田さんのような指導者になりたいなと思ってました」

時刻は午後5時過ぎ──。

グラウンド脇の木陰にベンチを2つ並べて始めたインタビューも開始から2時間以上経過していた。一旦打ち切り、松山市内で食事をしながら続きを行うことにした。

(第5回につづく)


■弓岡敬二郎(ゆみおか・けいじろう) 
1958年生まれ、兵庫県出身。東洋大附属姫路高、新日本製鐵広畑を経て、1980年のドラフト会議で3位指名されて阪急ブレーブスに入団。91年の引退後はオリックスで一軍コーチ、二軍監督などを歴任。2014年から16年まで愛媛マンダリンパイレーツの監督を務め、チームを前後期と年間総合優勝すべてを達成する「完全優勝」や「独立リーグ日本一」に導いた。17年からオリックスに指導者として復帰した後、22年から再び愛媛に戻り指揮を執っている

■会津泰成(あいず・やすなり) 
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など

取材・文・撮影/会津泰成

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