阪急ブレーブスの弓岡敬二郎は、相手チームのサインをほぼ見破っていた

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2023年11月14日 17:21  週プレNEWS

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ショート弓岡(左上)は、しばしば相手のサインを察知していたという(写真=共同通信社)


【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第2章 愛媛マンダリンパイレーツ監督・弓岡敬二郎編 第5回

かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第2章・第5回は、1980年代に阪急ブレーブスの名ショートとして名を馳せ、現在は独立リーグ屈指の名将として愛媛マンダリンパイレーツ(以下、愛媛MP)の指揮を執る弓岡敬二郎が、ショートというポジションについて語る。(文中敬称略)

【写真】巨人に育成ドラフト指名された「めちゃくちゃ足の速い愛媛の選手」

■言われてもやらない選手は終わっていく

午後7時、松山市の繁華街、二番町にある居酒屋で弓岡と再合流。生ビール片手に酒の肴をつまみつつ、話の続きを始めた。

ジーンズにカラフルなポロシャツ。私服姿だとプロ野球を代表する名ショートだったとは思えない。居酒屋で生ビールを飲む姿は、どこにでもいそうな「やや小柄なふつうのおっちゃん」だった。

2013年、弓岡は33年間在籍した阪急〜オリックスを退団し、愛媛MPの監督に就任した。

「50歳なんぼかで初めて単身赴任しました。食事の準備とか、そんなん家でもやったことない。座っときゃあ、ご飯が出てきた。女房のありがたみがわかりましたよ」と苦笑い。今では毎晩ご飯を炊き、出来合いの惣菜は買わず、肉や野菜の炒め物程度は慣れた手つきで料理できるようになった。もちろん、普段着からユニフォームまで洗濯も自分でしている。

独立リーグの選手たちへの指導について、弓岡はこう語る。

「選手の意識づけは、言うしかないですよね。言われて、明らかにやってる選手は伸びてきますわね。やってない選手はもうそのままずっと変わらない。それはすぐに終わっていく選手ですね。

NPBと比較すれば、選手の質は当然違う。僕らはちょっと、視線を下げなあかんですよね。でも、技術はNPBの技術を教えたらんとね。完璧じゃないけど、僕が習ったことを。偉そうなこと言うても、何が正しいとか、彼らに何が合ってるかというのはわかりませんけどね。

ここの選手でも10人おったら、実力も理解力もみな違いますから。俺の基本はこれやけど、自分らが感じたことはやってくれたらええ、という伝え方で教えてます。やっぱり時代とともに練習を合わせていかんと、なかなか難しいですからね、今の子は」


弓岡は2014年から16年まで愛媛MPの監督を務めた後、オリックスに戻り、2022年シーズンから再び愛媛で指揮を執っている。

「前回、愛媛に来たときは、まだ僕も元気やったからね。朝起きたら選手が『ノックお願いします!』言うわけです。朝からノックしてましたわ。コーチも一緒に入れて、二手に分かれてやったり。当時は朝からよう練習しましたね。バットも振らしたしね。重たいバットを振らしたりね」

NPBでは一軍、二軍を行き来しながら通算10年以上も教え、独立リーグでは最初の監督就任の3年間で愛媛MPを最強チームに仕立てた男でも、答えのない指導法を試行錯誤する日々は変わらないようだ。

■高校時代、ドラフト3位でクラウンに指名された

第二次の上田阪急を語る上で欠かせない選手の1人、「2番ショート、弓岡敬二郎」はいかにして誕生したのか。そして、弓岡本人は「ショート」「2番バッター」というポジションについてどのように考えていたのか。

「小学校の頃はキャッチャーしとったんです。あのマスクにね、なんか憧れて。かっこええなあと思って(笑)。で、ピッチャーもしたり、サードもしたり、ショートもしたりで。中学からはピッチャーとショート。肩が強かったし、足も速かった。高校1年の時はピッチャーで予選1勝してますもん。

本格的にショートを守るようになったのは、高校入ってからですよね。三遊間の深いところからノーステップでファーストに放るのが僕は好きやった。わざとノーステップで、ブワーン投げよったんです。肩が強かったから、ようそんなんやってましたね。野球はセンターラインがしっかりしたら強いチームになる。それも後で知ったんですけど、やっぱりショートは花形やな思いますよね。肩と脚がなかったら務まらへん」

高校(東洋大姫路)時代から「走攻守、三拍子揃った屈指のショート」として有名だった弓岡は、この時点でNPBのスカウトからも注目され、1976年のドラフト会議ではクラウンライター・ライオンズから3位で指名された。

しかし、病気で父親を亡くし、母親に金銭的な負担をかけたくなかったことから、既に高校2年の頃には「大学は行かず、社会人で野球を続ける」と決め、名門野球部のある地元企業、新日鉄広畑からも「高校を出たらぜひうちで」と熱心に誘われていた。

弓岡は、プロ野球は「社会人で実力を養い、もし一軍でもやれる自信が持てるようになれば」と考えていた。指名解禁となった社会人3年目、活躍が評価され、事前に巨人と阪神のスカウトから指名予定の連絡が入った。

しかし、結局ドラフトは指名漏れ。社会人4年目の1980年は成績が落ちてしまい、「もうこれでプロ野球選手の夢は断たれた」と思っていたところ、阪急から3位指名された。

阪急入団後、どのようにしてショートの定位置を掴んだのかは本連載の第3回で記した。不動のレギュラーだった大橋穰(ゆたか)の右肩骨折というアクシデントでまわってきた千載一遇のチャンスをものにして、上田利治監督に認められたのだ。


■ショートの捕球は一流テニス選手の動きがヒント

ただアマチュア時代は強肩で鳴らした弓岡も、プロ野球屈指の名ショートである大橋には到底及ばなかった。弓岡はそこで、大橋とは違うスタイルで勝負できる道を模索した。

「守備範囲の広さ、後ろの深い位置で守る技術は全然追いつかないですからね。これは真似できない。僕はだいぶ前で守りました。ただ捕球はよう見て勉強しました。大橋さんは包み込むような捕り方をしてました」

弓岡はあるとき、一流のテニス選手が相手のサーブを待つ間、両足を小刻みに動かして準備する様子に目が留まった。これを前後左右、さまざまな場所に飛んでくる球に対応しなければならないショートの守備にも応用できないかと考えた。

「静」から「動」ではなく、常に小刻みに動きながら捕球準備することで、浅い位置でも瞬時に対応してボールを捌ける技術を磨いた。また、どうすれば併殺が奪えるかを考えるためにセカンドの練習をしたり、セカンド寄りの打球に対しては送球を意識して曲線を描きながら捕球したり、ピッチャーのリズムを良くするために守備のテンポはどうするべきか常に意識した。

「よう僕は先輩のピッチャーに、『おいユミ、お前のところに打たせるぞ。ゲッツー取るぞ。俺はお前のところに球行ったら調子がええんや』と言われました。ランナーが出てもシュートとかスライダーでショートゴロ打たせてゲッツー取る、いうのをよう言われました。この二遊間ゆうのは、守備ではやっぱり一番大事ですよね」

さらにもうひとつ、弓岡を大橋とは違うタイプの名ショートにしたのは、洞察力に優れた「目」だった。

上田監督は生前、雑誌のインタビューでこう話している。

≪81年入団の弓岡敬二郎という遊撃手がおったでしょう。彼は、相手のベンチから出ているサインを見破って、自分のチームにサインで伝達していたんです。たとえば捕手の藤田浩雅に「次の球で走ってくる」とサインを出して、二塁で殺すわけです。百発百中だと相手も気がつくので、わかっていないフリをしながら相手にいつまでも同じサインを出させる≫(『スポーツカード・マガジン』73号より抜粋)

弓岡の洞察力は、広島・古葉竹識、阪急・上田利治というセ・パを代表する理論派の名将同士の対決となった1984年日本シリーズでも発揮された。

1984年11月5日号の『週刊ベースボール』の巻頭特集に、第5戦で右バッターボックスの達川光男が、外角高めに外された球に向かって、身体を伸ばしながらどうにかバットに当てようとする写真が見開きページで掲載されている。右下にはこんな文章が書かれていた。

≪5回表、1点差を追う広島は一死一、二塁から重盗を敢行。しかし阪急バッテリーは、これをはずし、二走を三塁で刺し広島の反撃を食い止めた。カウント1−2という状況から考えると、まずははずせないケース。それを見事にはずしたのは、阪急ベンチが広島側のサインを見破っていたとしか思えない。いずれにしても、広島のVを阻止し、阪急に2勝目をもたらせるポイントとなったプレーだった≫

「そうですよ、僕が外したんやから」と弓岡はニヤリ。雑誌は広島と争った日本シリーズの思い出話が聞ければと用意したものだったが、まさかこの写真にそんな逸話があろうとは思いもしなかった。弓岡自身、39年前のこの出来事については、この日まで公には語らずにいた。

「今はキャッチャーが野手にサインを出しますけど、僕が新人で入ったとき、バントシフトでもショートがサイン出してましたもん。メジャーリーグがそないしてキャッチャーが野手にサインやり出してから、サインはショートではなくキャッチャーが出すようになったみたいですけどね」 

■もしイチローがショートをやっていたら?

80年代の名ショートだった弓岡に、現在、NPBで活躍するショートで印象深い選手は誰かと聞いた。

「横浜(DeNA)の大和。1年目のときファームで見たら、こいつ、うまいなと思いましたね。ファーム1年目が一番うまかった。だんだん横着になってきたけどね(笑)。あとは今宮(健太/ソフトバンク)。肩も強いし、うまいね。

今ショートいうのは、守れて、バッターとしても2割5分以上の打率は残さなあかん。で、外野も内野も指示したり、みんなを引っ張れるような選手にならなだめでしょうね。今も昔も中心選手ですよ」

もうひとつ、タラレバで聞いてみたいことがあった。

オリックス時代の教え子イチローが、もしルーキー時代、外野ではなく内野、ショートを守っていたら、どうなっていたと思うか、と。

「あれだけの肩の強さと足の運びがあったらね、努力の虫だからスローイングも上達したはず。NPBなら守備だけでも十分、ショートでも活躍できたでしょうね。でもそれよか本人は、『いや、ピッチャーでお願いします』と主張したのちゃいます?」

こちらの興味本位の質問にも弓岡は嫌な顔ひとつせず、軽妙な関西弁で答えてくれた。

メジャーでも活躍したもうひとりの教え子、田口壮は自身のコラム、『はじめての二軍監督』(『ほぼ日刊イトイ新聞』)で、新人時代に指導を受けた弓岡(当時は一軍内野守備・走塁コーチ)について、「誰よりも怖いコーチとしてチームを引き締め、弓岡さん、という名前を聞いただけでも震え上がる存在でした」と書いている。

そんな鬼軍曹ぶりは、今の姿からはまったく想像つかない。年齢を重ねて穏やかになったのか、それとも戦闘服(ユニフォーム)に着替えて戦い(試合)が始まれば人が変わるのか。おそらく両方かもしれない。

話題は守備から攻撃について。「2番バッター」について伺うことにした。

(第6回につづく)

■弓岡敬二郎(ゆみおか・けいじろう)
1958年生まれ、兵庫県出身。東洋大附属姫路高、新日本製鐵広畑を経て、1980年のドラフト会議で3位指名されて阪急ブレーブスに入団。91年の引退後はオリックスで一軍コーチ、二軍監督などを歴任。2014年から16年まで愛媛マンダリンパイレーツの監督を務め、チームを前後期と年間総合優勝すべてを達成する「完全優勝」や「独立リーグ日本一」に導いた。17年からオリックスに指導者として復帰した後、22年から再び愛媛に戻り指揮を執っている

取材・文・撮影/会津泰成

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