毒と愛情を込めて37年、モノマネ女王・清水ミチコ、音楽と笑いの融合を突き詰める彼女の原点

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2023年12月09日 16:00  週刊女性PRIME

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ものまねタレント・清水ミチコ(63)

 東京・千代田区北の丸公園にある日本武道館─。収容観客数は、およそ1万人。多くのミュージシャンの憧れの地である。

 そのステージに、たった1人で立ち、マイクを握る女性がいる。

 バックのスクリーンに『筒美京平名曲メドレー』というタイトルが現れ、音楽が鳴り響く。

「モノマネの女王」清水ミチコ

 1曲目は、いしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』、鼻にかかった声が似ている。続いて「誰もいない海〜」の歌い出し。おお、南沙織の『17才』ではないか。やたらビブラートのかかる歌声。確かにそうやって歌ってました。そして浅田美代子の舌足らずで、少し(かなり)調子の外れた『しあわせの一番星』、ああ、ドラマ『寺内貫太郎一家』の劇中で歌われた曲だ。そして平山みきのクセの強い『真夏の出来事』、よく歌詞が聞き取れない麻丘めぐみの『わたしの彼は左きき』、極端な舌足らずで太田裕美の『木綿のハンカチーフ』……。

 老若男女であふれる武道館の大ホールは、爆笑の渦。曲や歌手を知らない世代も手をたたいて喜んでいる。

 スポットライトを浴びて歌っているのは、「モノマネの女王」と称される清水ミチコ(63)。

 これは、2021年に東京・日本武道館で行われたライブ・コンサート『清水ミチコBEST LIVE 2021〜Go to武道館withシミズ〜』のワンシーンである。旬な時事ネタ、ピアノの弾き語りはもちろん、おなじみの「作曲法」なども披露。

 翌年の『清水ミチコリサイタルin武道館〜カニカマの夕べ〜』では、瀬戸内寂聴さんの語り口で「平家と源氏」というタイトルでAdoの『うっせぇわ』を引っ張り出し、『まんが日本最近ばなし』は、もちろん『まんが日本昔ばなし』のパロディー。さらに「松任谷ユーミソ」という名で、まるきりユーミン(松任谷由実)の歌声で歌う『カニカマのテーマ』。ちなみに清水は自分の芸を、本物に近いが実は偽物の「カニカマ」と命名している。それにしても、しゃべり方までユーミンそっくりである。

 '13年開催の「国民の叔母・清水ミチコの『ババとロック』in 武道館」から始まった彼女の武道館コンサートは、もはや年始の風物詩となっている。

 これまで実に9回、来年の1月3日で10回を数える。

 それにしても、たった1人で1万人を相手にするとはどういう感覚なんだろう。怖くはないのか。忙しいリハーサルの合間に清水がインタビューに答えてくれた。

「基本的に1000人以上は同じなんです。1人に勝てれば大丈夫。気負けすると緊張してしまいますけど、視線に負けるというかね。初回はプレッシャーがあったからいろんなゲスト、お笑い芸人さんなどに出演してもらいましたけど、2回目からは1人でトライしています」

 さまざまな芸能人のモノマネ、さらにピアノの弾き語りモノマネ、顔マネなどで知られる清水。そのレパートリーはすさまじい。

 大竹しのぶ、黒柳徹子、小池百合子、桃井かおり、平野レミ、瀬戸内寂聴さんなど、100人を超える。弾き語りモノマネでは松任谷由実、森山良子、矢野顕子……。それも単に似ているだけではなく、本人がいかにも言いそうなオチで爆笑を巻き起こす。

 モノマネの上手な人や芸人は数多いが、清水の場合は単に似ているだけではない。その話し方、歌い方はもちろん、歌い方のクセを極端に演じ、聴くこちら側をニヤリと、時には大爆笑を誘うのだ。今回の全国ツアータイトルは『清水ミチコアワー 〜ひとり祝賀会〜』。

「基本的には、ピアノの弾き語りのモノマネや歌マネが中心ですね。新しいところでは、『新しい学校のリーダーズ』のネタで『新しい仏教のリーダーズ』というのを瀬戸内寂聴さんの語りでやります(笑)」

歌マネも大ネタをかける

 そして歌マネも大ネタをかけるらしい。

「『ほぼ1世紀メドレー』といって、10年ごとの歴代の歌手が出てきて、それこそ笠置シヅ子さんに始まって、歌謡曲の時代があって、'80年代になるとシンガー・ソングライターが出てくるし、その後には椎名林檎さん、米津玄師さんも。

 それからピアノで『猫ふんじゃった』をYMO風に弾いたり、ジブリ映画の久石譲さん風に弾いたりとか……。軸は以前と変わっていないんです。世間の事象が変わるから話題は変わりますけどね。武道館ではサプライズゲストも招いてます。まだ誰かは言えないんですけど」

 テレビやラジオ出演のほか、毎年、秋から年末年始にかけて武道館を挟んで全国ツアーを開催している。

「7、8月はネタ作りで、10月はそのネタを覚える時期、そこからリハーサルを本番前まで行います」

 音楽と笑いの融合、斜めから見た人間観察─。「清水ミチコ」という独特のエンターテイナーはいったいどうやって生まれてきたのだろうか。

ひいじいさんがキーパーソン

「昔から、あれ? この人何で笑ったんだろう?と、その理由を知りたいタチなんですね。うちの家族なんかも、訪ねてきたお客さんがさんざん人の悪口を言って帰った後に、“あそこをこう話せば笑えるのにね”なんてディスカッションするような家族でしたから(笑)。

 ありますよね、“変な空気”が伝わると“笑い”になる感覚(笑)。本音をポロッと言う。悪口を短く面白くを意識してね。私の笑いは、両親や同級生が教えてくれたんですね」

 そして家族のルーツをひもとくと、曽祖父がキーになるという。

「そのひいおじいさんは嘘つきで有名だったらしいんですね(笑)。自分の楽しみのために平気で嘘をつく人。人をからかうのが大好きだったそうなんです。それを聞いたとき、私に似てるなと思いました。ところが、うちの家族は誰も会ったことがないんですけどね。でも、私の弟がそのおじいさんのことを近所の高齢者に取材してきたんですよ(笑)」

 清水には、弟・清水イチロウさん(51)がいて実家の喫茶店を継いでいる。イチロウさんにも聞いてみた。

「はい、取材しました(笑)。そのじいさんは近所で『嘘つきえいざ』と呼ばれてました。本名は栄三郎というんですがね。不謹慎で有名で、病気で死にそうな人がいると、“〇〇がとうとう死んだみたいだ”とか言いふらす。それでお坊さんが行っちゃったりして大変だったとか(笑)」

 清水は、今年でデビューして37年になる。

「私が20代のころは、きついギャグが流行りました。毒舌キャラとかいってね。私もひどいデフォルメの仕方をしてましたけど、今はお客さんが繊細になってきていて、平和的なネタのほうがウケる。お客さんがしょげるので、あまりキツくはやらないようにしています。例えば、誰かの曲をひどいアレンジにしたりすると、お客さんがそのアーティストに対して気持ちがしょげたり、“清水さんが誰かに叱られるんじゃないか”と心配になって、しょげるみたい。でも、やわらかく言うことで逆に皮肉に聞こえることもあるみたいですね」

 清水が演じる森山良子やユーミン、矢野顕子のモノマネもちょっと意地の悪いエッセンスは感じられる。しかしそこには、本人に対する憧れや愛情もあるのだ。

「森山さんのモノマネは、息子の森山直太朗さんが“森山良子以上に森山良子だ”と言ってくれたりしました。ユーミンさんには以前、“山田邦子のモノマネには愛があるけど、清水ミチコのモノマネには毒しか感じない”なんて言われちゃってたんだけど(笑)、今では受け入れてくれて、ご本人と一緒にステージに立ったりします。自分では毒を入れてる感覚は……まあ、ちょっとはありますけど(笑)。ただうまいね、似てるねで終わらないように、アレンジを入れちゃうんですね」

 清水が目標にしているのが、芸能界の大先輩・タモリだという。

「私がまだ短大に通っていたころ、生のライブにいろいろ出かけるようになりました。そんなときに、深夜ラジオを聴いて憧れていたタモリさんのライブに行って衝撃を受けたんです」

 当時のタモリといえば、『今夜は最高!』『笑っていいとも!』などで人気を集め始めたころである。

「ピアノやトランペットを演奏しながら、演芸の要素もあるというライブでした。有名な演奏家の弾き方講座という、ちゃんとした作品を壊してパロディーにしていく斬新なコーナーもありました。そんなのを見るのは初めてだったので、“音楽と笑いを両立させるなんてすごい!”自分もこういう人になりたいと思っちゃったんですね」

「清水ミチコ」のルーツとは―

 清水の実家は岐阜県の飛騨高山。もともとは果物やご進物、お菓子を売る店だったが、店の横に倉庫があり、そこを父親が『if』という名のジャズ喫茶にしたという。

「高山で初めてできたジャズ喫茶だっ音楽たんです。父はすごくジャズが好きで、若いころウッドベースを弾いてたんですね。で、仲間とバンドをつくって、公民館などで演奏したりしてました。家族はその店の2階に住んでいましたね。ジャズが流れ、楽器があって、バンドの仲間がうちに集まっているのを子ども心に覚えていますね。それが、私の音楽に接する原体験でした」

 ピアノを始めたのは、小学校1年のときだった。ピアノ教室にも通ったのだが、

「私にはつまらなかった。歌謡曲やCMソングを弾くのは楽しいんだけど、決められた音楽を弾いていくのが面白くなくてやめちゃったんです」

 清水は、小学生のころから教室の隅っこで友達を集めて面白いことをしゃべるような子だったらしい。

「ずっと一緒だった友達によっちゃんという子がいて、私が狙いすぎたネタを言うと、急に笑わなくなる。だから、自然に思いついたことをしゃべったほうが面白いと身体で覚えたんですね。彼女のおかげで私の笑いは鍛えられたんです(笑)」

 中学生のある日、先輩の男子から「生徒会の副会長に立候補するから、応援演説をしてほしい」と持ちかけられた。

「張り切りましたねぇ。それで当時人気だったディスクジョッキーの手法をマネてスピーチしたらものすごくウケたんです。女子アナ風のきれいな話し方で汚いことをしゃべるというもので(笑)、“涙を流す私のこぼした鼻水が、今地面すれすれまで伸びています”とか(笑)。全校生徒が爆笑してくれた。自分だけ涼しい顔でみんなは大ウケ状態。こんな気持ちのいいことがあるんだって感激しましたね」

 高校に入ってからは、面白ノートなるものを作り、4コママンガを描いたり、先生のあだ名や特徴の一覧を書き込んだりしていたという。

「クラスの子をつかまえて、架空の芸能人に仕立て上げたりしてましたね。あなたは清純派の“花園リリィ”って名前ねとか(笑)。あなたは演歌歌手の“金華山鶴”とか(笑)。サインから歌まで作って遊んでました」

 そんな清水は、矢野顕子の音楽と電撃的に出会う。

「高校1年のときでした。ラジオで矢野顕子さんの音楽を初めて聴いたんです。デビュー間もない矢野さんのDJと弾き語りは、おしゃれでカッコよくて、それまで歌謡曲ばかり聴いていた私には、あまりにも衝撃的でしたね」

 清水と小・中・高が同級だったピアニストの和田典久さん(64)が言う。

「ミチコは、普通の子でしたよ。特に目立つ子ではなかったけど、仲良しのグループがあり、いつも芸能ネタなんかでゲラゲラ笑っていた感じでした。すごく耳がよくてピアノも上手だったから、僕もピアノをやっていたので、連弾したこともありますよ。子どもらしくない曲、ジャズの『テイク・ファイヴ』なんかを弾いていたのが印象的でしたね」

バイトからラジオの構成作家に

 高校時代、清水はいったんは音大に進もうと、再びピアノを習い始めたのだが……。

「音大に入ったら自分は音楽から離れるんじゃないかという予感がすごく強くなったんです。それまで、私が人から褒められることといえばピアノが弾けることでした。でも、音大に入ったらそんなの当たり前じゃないですか。それが嫌で音大を諦め、短大の家政科に入ったんです」

 当時、清水の実家は、喫茶店3軒とお弁当の店を経営していた。

「家政科に進んだら、先生にもなれるし、家業も継げるだろうと考えたんですね」

 家庭科の教員免許を取って短大を卒業。だが、地元の岐阜には戻らず、東京でアルバイトをしながら、ライブハウスに通い、糸井重里などが講師を務める、クリエイター養成の「パロディー講座」に通ったりしていた。

「短大のころから、パティシエになりたいな、と思って自由が丘のケーキ屋さんで厨房のアルバイトを始めました。そこで楽しかったのは、お菓子作りよりまかない料理でした」

 まかないはバイトの担当で、職人さんが「ミッちゃんの作るごはんは美味しいな」って言ってくれる。1人分100円でおかずを作る。

「それがすごく面白かった。パティシエよりお惣菜関係が自分に向いてるなと思うようになっていました」

 それを知ったケーキ屋さんが、田園調布の洋風惣菜屋さんを紹介してくれて、清水はそこに移った。

「その店のオーナーさんが面倒見のいい人で、私がどういう人間なのか、ということにちゃんと興味を持ってくれたんです。お笑いが好きでピアノが好き─。そしたら、“うちの2階にピアノがあるから好きに弾いていいですよ”と言ってくれたので、バイト終わりに弾かせてもらうようになりました」

 当時の清水は、ラジオの深夜放送やパロディー雑誌『ビックリハウス』にコントなどを投稿して時々採用されたりしていた。そのことをバイト先のオーナーに話すと、ラジオのディレクターを紹介してくれたのだ。会ってみると、「デモテープを作ってきて」と言われた。

「夏なのに、アパートの隣の部屋に聞こえないように毛布をかぶって、桃井かおりさんのモノマネをしたのを覚えています(笑)」

 そして新しく始まったミュージシャン・クニ河内のラジオ番組の放送作家兼アシスタントとして出演もするチャンスをつかんだのだ。

「それでも、お惣菜屋さんのバイトは続け、ピアノも弾いてました。ユーミンさんも矢野さんもこのころからマネしてます。最高に幸せな毎日でしたね。その生活は『笑っていいとも!』に出るようになるまで続いたのです」

初ステージ、永六輔さんとの出会い

 ラジオ番組では、番組の構成を考えたりしながら、リスナーのハガキを読んだり、自分のモノマネやネタを披露することもあった。

「ラジオ番組を通じて、何がウケるのかがわかり、ネタも増えてきたところで、小劇場『渋谷ジァン・ジァン』の新人オーディションに応募したんです」

 小劇場『渋谷ジァン・ジァン』とは、東京・渋谷の東京山手教会地下に'00年まであった収容客数200人弱の小劇場。アンダーグラウンド芸術の発信地として当時の若者に支持されていた。

 ここで行われる矢野顕子のライブには清水もしょっちゅう行っていた。

「ライブが終わると、ステージに置かれた矢野さんが弾いたピアノにちょっと触る(笑)。それがいつものことでした」

『渋谷ジァン・ジァン』では日曜日の午後、テープ審査で合格した素人にステージを開放していた。清水もデモテープを送り、審査に通り、初めてのライブ『モノマネ講座』が実現したのだ。観客は全部で20人くらいだったが、憧れの矢野と同じステージに立てたのは感激そのものだった。

 そしてそのライブには、思いがけない人物も来ていた。

「実は劇場のスタッフが、私のテープを永六輔さんにも聴かせていたらしいんです。永さんはモノマネがすごく好きだったから。そして、ステージの終了後に、永さんにダメ出しされたんです。“君はネタはプロだけど、生き方がアマチュアだ”と。確かにお辞儀もちゃんとできないし、落ち着きもありませんでしたからね」

 永六輔さんといえば、坂本九さんの『上を向いて歩こう』『見上げてごらん夜の星を』の作詞家として知られ、またNHKの音楽バラエティー番組『夢であいましょう』などの構成作家としても活躍し、多くの演芸人をメディアに紹介するプロデューサーでもあった。永さんとの思い出はまだある。

「沖縄にも『ジァン・ジァン』があったんです。そこに連れて行ってくれたのも永さんでした」

 初めて訪れた沖縄は、ものすごい嵐だった。とてもお客さんが来られるような状況じゃなかった、中止だろうと思っていたら、雨宿りに寄ったような女性が2人やって来た。

「2対1なんだけど、これはやるしかないのかな、と恐る恐る小さな声で始めました」

 そのときは、刑務所を慰問する女という設定のコントだった。その中で、お客さんを受刑者に見立てて、声をかけるというシーンがあったのだが……。

「恥ずかしさのあまり、私はお客さんのいない席に向かって声をかけてしまった。終わった途端、永さんの雷が落ちました」

─なんで、堂々とお客さんのいるほうにいかなかったんだ! それに声の出も悪い。挨拶の仕方もよくない!

「怒られまくりですね(笑)。でも大人になると、そうそう叱ってくれる人はいませんから、永さんには今でも感謝していますね」

 これが1986年のことだった。翌年にはフジテレビのバラエティー番組『冗談画報』に初出演し、さらには『笑っていいとも!』にもレギュラー出演する。

「その後、『渋谷ジァン・ジァン』では年に2回くらい、夜7時台でも舞台に上がるようになりました。回を重ねるごとにみるみるお客さんがいっぱいになって、250人も入って満杯になったときは“うわあ!”と思いましたね(笑)」

結婚・出産、そして―

 '87年、清水は、ラジオ番組で台本・構成を共に手がけていたディレクターと結婚。翌年には長女を出産する。

 ライブを収録した初アルバム『幸せの骨頂』も発表し、公私共に順風満帆に見えたのだが……。

「テレビに出て、知らない人からもチヤホヤされたらどんなにいいかなと思っていたのに、いざテレビに出始めると、注目される状況が自分は苦手だったんだってわかった。街に出るのが気が重い。視線が強いし、じろじろ見られるのが苦しい。それに期待値がどんどん高まっていくのもしんどかったですね」

 そして新しく始まるバラエティー番組『夢で逢えたら』(フジテレビ系)のレギュラー出演が決まる。共演は、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、野沢直子だった。当時は全員20代、お笑い界の次世代のホープが集められ、深夜枠で新しい笑いを作り出していく試みの番組だった。

「ダウンタウン、ウッチャンナンチャンは“笑いで天下を取ってやろう!”という意気込みで臨んでたんだと思うんだけど、私にはそんな覚悟はない。彼らは収録中だけでなく、カメラが回っていないところでも、ずっと面白いことをやっている。ある意味、笑いの化け物ですね。でも、私だけは、面白さに参加できてない。

 特にコントでは、どんどんアドリブで仕掛けられても、私は対応できない。前もって考えて出したネタはウケるけど、アドリブがまったくできない。やっぱり、自分は素人芸だったんだってわかったんです。ずっと1人でやってきて、人と絡むということがなかったですから、本当の鏡を見せられたような気がしましたね」

 しかし、そんな清水を救ったのが「伊集院みどり」というコントのキャラクターだった。

「後ろから見ると美人なのに、振り返ったら不細工、というキャラクター設定なので、自分の欠点を誇張したメイクをして、自信過剰で性格の悪い女を思いっきり演じてみたんです。それが大ウケとなった。人気投票で1位を獲得したんですよ。みんなに恩返しができたような。まるで借金を返せたような気持ちになれましたね」

父親から受け継いだ音楽と笑いのDNA

「僕はすごい“姉ちゃん子”で、姉の好きな音楽を聴いて育ちました。だから、音楽の趣味も一緒なんですね」

 そう語る弟・イチロウさん。今回の清水のツアーにも帯同して、ステージに上がる。実は彼もピアノ、サクソフォン、ベース、ギター、三味線を演奏するミュージシャンなのだ。

「2回目の武道館のステージで、僕は紋付袴で三味線を弾いて小唄をうたいました。また、姉のピアノと歌、僕のギターでジャズの名曲『スペイン』のパロディー曲もやりましたね。僕はYMOの細野晴臣さんのモノマネをするんですが、矢野顕子さんのコンサートに、僕が細野さん役、姉が矢野さん役で出演もしたんですよ。今回も姉と一緒に歌っています。

 亡くなった父は、本当に人を笑わせるタイプで、よく近所の人のモノマネなんかもしてましたね。音楽、特にジャズが好きなところ、笑いが好きなところも、姉と僕に受け継がれている。DNAってあるんですね」

 清水が、歌マネなどの一方で、30年にわたってやり続けているのが「顔マネ」である。アイドル、有名人、女優から政治家、その時々の話題の人(ささやき女将、耐震偽装建築士など)、似てるかどうかより成り切ろうとするその根性に脱帽である。彼女らしい、ちょっと斜めから見た視線で話題の人を切り取る手法である。『清水ミチコの顔マネ塾』『顔マネ辞典』というタイトルで書籍も4冊出しているほどだ。

 '20年からはステイホーム期間中にYouTubeチャンネルを開設し、話題を集めた。このYouTubeがまた楽しい。これまでの武道館コンサートの映像、思いついたモノマネ、またゲストを招いての対談なども楽しめる。

「やっぱり、コロナ禍の3年間はつまらなかったんですね。ライブができないから暇すぎて始めてみたんです。新ネタを披露する場がなくなっちゃったものだから。ライブ再開後、地方の会場の動員数が『YouTube見ました』という人のおかげで増えたんですよ。自分が寝てる間にも宣伝になるし、ありがたいメディアですね(笑)」

 YouTubeの『清水ミチコのシミチコチャンネル』は、100万回再生を突破する回もあるほどの人気である。

 その中には、とんでもない回もある。『歴史的建造物のモノマネ』というタイトルで何が始まるのかと思ったら、桜田淳子の声色でスペインの「サグラダ・ファミリア」になりきってしゃべるというもの。また、「世界一上品な“そうですね”について語る藤井聡太」という新ネタのモノマネも披露している。

「月イチの配信ライブでは、野沢直子さんや、青木さやかさんなどのゲストを招いて対談もやってます」

 最近では、国会で自分の曲やディナーショーを宣伝してしまった中条きよしの曲もまんまと俎上にのせられた。でも、とても文句は言えないだろうが……。

 先に登場いただいた小・中・高と同級生だった和田さんは、シャンソンの伴奏やバンド活動を中心とするピアニストだが、数年前にパーキンソン病を発症し、背中にボルトを30本入れる大手術をした。

ミチコもお見舞いに来てくれました。'20年に僕の快気祝いとしてコンサートを予定していて、そこにミチコもコーナーを作ってゲスト出演してくれることになっていたんだけど、コロナ禍になってしまい断念しました。

 正月恒例になったミチコの武道館公演には毎回、知人など60人のチケットをお願いして出かけます。これがまた大変なんです。チケットを手渡すのがね。でも、みんな楽しみにしてますよ」

 ずっと清水を応援し続ける和田さんに対し、当の本人は、

「和田君は、小学校時代の私を『音感がすごくいい』と褒めてくれて、それが今でも支えになってるほどで、今も大親友です」

 最後に、清水にこれから挑戦したいモノマネを聞いてみると─。

「やはり藤井聡太さんなど、ずば抜けた才能の人材を見ると、なってみたい!と思ってしまいます。まだ次から次にネタにしたい人は現れますから困りませんね。でも、私は人に喜んでもらえるのがいちばんうれしい。以前、糸井重里さんが言ってたんだけど、商売の目的というのは一見、お金のようでも実際は、自分が人に喜んでもらえること。私もまさにそう思っています」

<取材・文/小泉カツミ>

こいずみ・かつみ ノンフィクションライター。芸能から社会問題まで幅広い分野を手がけ、著名人インタビューにも定評がある。『産めない母と産みの母〜代理母出産という選択』『崑ちゃん』(大村崑と共著)ほか著書多数。

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