近鉄最後の優勝戦士、北川博敏と交代して代打逆転サヨナラ満塁ホームランを見届けた男の今 古久保健二は日本→韓国→台湾で指導者になった

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2023年12月21日 10:31  webスポルティーバ

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 今や常勝軍団となったオリックス・バファローズの本拠地として、ファンに認知されている京セラドーム。25年前に建てられたこのドームで、初めて日本シリーズが開催されたのは2001年のことだ。

 当時はまだクライマックス・シリーズのようなポストシーズンはなく、ペナントレースを締めくくったのは、今も語り継がれる北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁ホームランだった。この時優勝を飾った大阪近鉄バファローズはもうない。皮肉なことに、この時近鉄の引き立て役に回ったオリックスが「バファローズ」の名を継承した。

 ところで、22年前に劇的なホームランを放った北川は代打だった。その北川に代わり、ベンチで歓喜の瞬間を眺めていた選手を覚えているだろうか。

 その"彼"は今、台湾の地で若い選手たちと歓喜の瞬間を味わうべく奔走している。近鉄バファローズ最後の優勝を、ベテラン捕手として支えた古久保健二だ。

【指導者としてのモットー】

「台湾に来たのが2019年からですから、もう5年になりますね」

 楽天モンキーズの本拠地・桃園球場のベンチで古久保はインタビューに応じてくれた。指定された時間は正午過ぎ。この日のゲームは午後6時開始だったが「いろいろやることがあるんですよ」と、選手がちらほら集まる前から球場入りする理由を述べた。

 古久保は2002年シーズンを最後に現役生活に別れを告げ、近鉄の二軍コーチに就任。その後チームは消滅したが、その指導力は他球団の請うところとなり、中日、ヤクルトと渡り歩いた。

 2013年にはオリックスのコーチとして、バファローズのユニフォームに袖を通した。ここで2シーズン過ごしたあとの行き先は韓国。日本生まれの名将、金星根(キム・ソングン)に声をかけられハンファ・イーグルスのコーチに。ここで1シーズン過ごすと、近鉄の先輩捕手であり現役時代最後の監督でもあった梨田昌孝に誘われ日本の「イーグルス」、楽天で3年間ヘッドコーチを務めた。梨田の退団を受けて自らも楽天を去った2018年オフに台湾球界から声がかかった。

 ふたつ返事で台湾行きを決めた古久保は、3シーズンバッテリーコーチとして富邦ガーディアンズのディフェンスの強化に貢献し、昨年からは、かつて日本で袖を通したクリムゾンレッドのユニフォーム、楽天モンキーズのヘッドコーチを務めている。

「韓国の時は、ソングンさんがコーチを探しておられて、一緒に仕事をしたことがある小林晋哉さん(元阪急)が間に入ってくれました。台湾の時は富邦の球団顧問である郭泰源さんや、台湾でコーチをしていた(楽天時代の同僚)立石充男さん(元南海など)を通じてすることになりました。みんなどこかでつながっているんですね。台湾からお話をいただいた時も、韓国野球を経験していたので抵抗はなかったです。要は、コミュニケーションだけだと思うんですよ。野球の技術を教えるというのは、どこに行ってもそんなに差はないと思います」

 まず選手の声を聞くというのが、古久保の指導者としてのモットーだ。台湾で話されている中国語には、そもそも敬語がない。そのためか、日本以上にタテの人間関係が強い韓国と違い、台湾人の人間関係は非常にフラットだと、古久保は言う。

「選手との距離感ですか? もう友だちですよ(笑)。僕は中国語を聞いてなんとなくわかる程度ですが、選手たちも多少は日本語をしゃべりますんで。いつも冗談を言い合っていますよ。そこは韓国とは違うところですね。韓国は監督が絶対ですから」

 試合中のベンチでは現役時代同様に鋭い眼差しをグラウンドに向け、選手たちを叱咤している古久保だが、ゲームを離れた姿はまさしく好々爺だった。

「まず教える。それも『こうしなさい』ではなく、選手とコミュニケーションをとりながら、どうすれば理解できるか探っていく。そういう姿勢で臨んでいます。やっぱり、人それぞれ体もポテンシャルも違うので。でも、それは台湾に来たからではなく、日本にいる時から心がけていたことです」

【30歳を過ぎた頃に心境の変化】

 現在、59歳。野球を通じて、世の理不尽を体に叩き込まれた世代だ。同世代の指導者の何人かは、その「昭和のノリ」を捨てきれないなか、古久保は現役時代から頭を切り替えていたという。

「30歳を過ぎてからですかね。そういう年齢になってきて、次(引退後)を考えていたわけではないですけど、チームでも立場が変わってきたんです。それまでは自分のことだけを一生懸命やらなければならないという感じでしたけど、だんだん周りが見えてくるんです。そこからいろいろ考え出しましたね」

 近鉄は、伝統的に捕手併用制を採用してきた。古久保が入団した時には、梨田と有田修三のライバル関係があった。そして古久保が主力となった頃は、山下和彦、光山英和らと熾烈な正捕手争いを繰り広げた。

「いま、この立場になって併用もありかなと思います。やっぱりキャッチャーはリフレッシュする時間が必要ですから。ただ現役の時はずっと試合に出たいと。だから当時は、ベンチでは話をするけど、プライベートはまったく別でした。アドバイスなんかもちろんしない。今の選手はするらしいけど、それも僕の感覚だと、その選手には負けていないという自負があるからじゃないですかね」

 そんなヒリヒリした毎日を送るなかでも、30歳を過ぎた頃から心境に変化が出てきたという。出番は年々減っていったが、チームがどうすればいい方向に進むのかを優先して考えるようになった結果、現役最後の2シーズンは出場機会を増やしていった。その経験は、指導者となった今に生きていると古久保は語る。

 自ら「無頓着」と表現するが、自分よりひと回り以上も若い監督ともコミュニケーションを重視する。

「今の球団(楽天モンキーズ)が僕にどうして声をかけたのかは知りません。球団が何人かリストアップして、自分が動きやすいスタッフを選んだのかもしれません。監督はみんなの意見を聞くタイプなので、僕も言うべきことは言います。練習のやり方については、ちょっと違うなと思うところはありますが、そこは台湾スタイルに従います。日本だと練習の段階でかなり細くやりますが、それはスタッフの数も多いし、涼しいドーム球場だからできること。暑い台湾で日本みたいにはできないし、その必要もないと思います。文化や環境が日本と違うんだから、そこは台湾スタイルに合わせています」

 台湾スタイルといえば、華やかなチアガールを内野スタンドに配した応援は、日本の野球ファンにもおなじみのものになっている。このスタイルはもともと韓国から取り入れたもので、チアリーダーを導入する前から台湾の応援スタイルは音響機器を使った非常にうるさいものだったが、これについても古久保は自然に受け入れたという。

「韓国を知っているだけに驚きはなかったですよ。それが台湾の文化なんやろうって。たまにきれいな女性がいるなと思いますが、試合中は気になりません。でも、音は日本以上です。マイクを使っていますからね。試合中、絶対に声は選手に届きません。だからゼスチャーでコミュニケーションをとるように野手には指導しています」

【低反発球採用で台湾の野球に変化】

 一歩引いた目で台湾野球を支えているが、思うところは当然ある。台湾では伝統的に各カテゴリーにおいて国際大会を重視するが、プロ主体のトップチームは近年、芳しい成績を残せていない。夏のU−18ワールドカップでは銀メダルに輝いたが、春のWBCは1次ラウンドで敗退している。そんな台湾野球のトップレベルに対して、古久保はこう語る。

「こっちはアマチュアのトップ選手は、まずアメリカを目指しますので、国内のプロリーグはどうしても層が薄くなります。だから、一軍でもレギュラーと控えの差が大きい。一旦ポジションを獲れば、ライバルがいない状態になるんです。だから、どうしても『それ以上』がなくなってしまいます。なので、彼らがうまくなりたいという気持ちをどこまで持っているか、どこに目標を置くかが大事になってきます。それに向かってどれだけ努力できるか。それを我々がどうサポートするかでしょうね。今後、台湾では球団数が増えます(来年から1球団増)。そうなると選手層は薄まっていく可能性があります。もう二軍の選手をどう鍛えるかでしょうね」

 台湾のプロ野球は、数年前までいわゆる「飛ぶボール」を採用していたせいで、豪快な打撃戦がウリだった。序盤に多少点差をつけられても、逆転が期待できるためファンは大盛り上がりだった。しかし、それも投手力の弱さの裏返しであったし、国際大会での不振は、その打力も「井の中の蛙」でしかなかったことを露呈してしまった。

 そこでリーグ当局は、低反発球に切り替えたが、それによって台湾野球の質にも変化が出てきたと古久保は言う。

「4年前は、右バッターが平気でライト中段までもっていっていましたから。内野を転がる打球も速くて、野手が追いつかない。そりゃ打率は上がりますよね。でもボールが変わって、細かい野球ができるようになってきました。それにピッチャーの質も上がってきました。多少コースが甘くなってもボールが飛ばないから、大胆に攻めるようになってきました」

 自分の息子のような選手たちを相手に過ごす毎日。若者というのは、国は違っても気質は大きく変わらない。SNSが発達した今、日本と同じく「やらかして」しまう選手も少なくない。

「こちらはファンとの距離が近いんですよ。選手なんて、普通に接し、ファンの方と食事に行ったりする。そういう環境だから、スキャンダルもちょくちょくあるみたいですね。でもね、お互い独身だったら問題ないでしょう。社会のルールさえ守っていれば」

 精悍な顔つきは現役時代と変わらないが、短く刈り上げた短髪はすっかり白くなっている。そして来季からは監督としてチームの指揮を執ることになった。どんなチームをつくり上げていくのか、楽しみにしたい。


古久保健二(ふるくぼ・けんじ)/1964年6月23日、大阪府生まれ。大成高から82年のドラフトで近鉄から6位指名を受け入団。山下和彦、光山英和と正捕手争いを繰り広げ、95年には自己最多の113試合に出場。02年に現役を引退し、その後は近鉄、中日、オリックスなどでコーチを歴任。19年に台湾プロ野球の富邦ガーディアンズのコーチに就任。22年から楽天モンキーズのヘッドコーチとなり、24年から監督して指揮を執ることになった

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