読者家注目、青崎有吾も好むシャーロック・ホームズ “世界一有名な探偵”の能力と驚くべき初期の物語

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2024年01月15日 07:01  リアルサウンド

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■19世紀のラノベ主人公


  ホームズの年齢設定だけで思いのほか紙幅を割いてしまったが、シャーロック・ホームズを語るうえでその能力に関する描写にも言及しないわけにはいかないだろう。


  以下、ワトソン先生が『緋色の研究』の中でホームズの能力についてまとめてくれているので、引用する。(※小林司氏、東山あかね氏の翻訳を引用していることをお断りしておく)


・身長は6フィート(およそ180cm)を超えている。非常に痩せているので、実際より背が高く見える。
・肉の薄い鷲鼻。おかげで、彼は俊敏で、決断力のある人間に見える。
・両手はいつもインクで汚れ、化学薬品のしみがついていたが、手先は恐ろしく器用。
・文学、哲学、政治学の知識は皆無。
・コペルニクスの地動説も太陽系の仕組みも知らない。
・毒物一般に精通しているが、園芸のことは知らない。
・一目見ただけでどの場所の土であるか、当てることができる。
・化学の知識――深い
・解剖学の知識――正確だが、系統だったものではない。
・今世紀に起きた凶悪犯罪はすべて、細かいところまで知っている。
・ヴァイオリンを上手に弾く。
・棒術、ボクシング、剣術の達人。
・英国の法律に関する実用的知識は豊か。


  補足するとワトソンの見立ては一部間違っており、ホームズは後に文学にも天文学にも精通していることが描写されている。無知を装ってまだ付き合いの浅いワトソンはからかっていたのかもしれない。


  この能力マシマシな設定からラノベによくみる「俺TUEEE」を想起するのは筆者だけではないだろう。それもそのはずで、シャーロック・ホームズは純文学ではなくあくまで娯楽小説として出発しており、コナン・ドイルが活躍したヴィクトリア朝のイギリスはそのような娯楽小説が競って発表されていたからだ。


  いってみれば19世紀ヨーロッパ版のラノベ、あるいは週刊少年漫画誌が競って創刊されるような状態だった。


  この時代に発表された作品は多くが後の時代に、映画やテレビドラマの題材となっている。『ソロモン王の洞窟』、『ゼンダ城の虜』、『ドラキュラ』、『透明人間』、『宝島』などその代表例である。『ゼンダ城の虜』などに登場するルドルフ・ラッセンディル男爵は武術の達人で五か国語を操る才人。


  『ソロモン王の洞窟』を初めとするシリーズに登場するアラン・クォーターメイン卿はもう少しひねくれているが、切れ者で射撃の達人。これらの属性はホームズとイメージがだいぶ重なる。


  今でも、人気漫画の作者が自分の意志だけで連載を終わらせることは必ずしもできないように、当時の人気作家も一度シリーズが人気になると終わらせるのは簡単でなかったようだ。


  ホームズを書くことにうんざりしていたドイルは『最後の事件』でホームズを物語から退場させたが、ファンから猛反発を受けて結局復活させている。ハガードの生み出したアラン・クォーターメインも当時は大人気で、『洞窟の女王』でクォーターメインは物語から退場したが、読者から抗議を受け、のちの作品に回想の形で再登場している。


  現代でいえば少年誌の読者アンケートで1位を取ったキャラクターが作中で退場し、抗議のメールが編集部に殺到するようなものだろう。当時の大衆作家たちが競い合った時代背景はナイジェル・クロス (著)『大英帝国の三文作家たち』に詳しい。


■コカイン、ストリートチルドレン、ヴィクトリア朝時代の文化とシャーロック・ホームズ


  何やら現代社会とのつながりを感じさせるものがホームズにはあることがおわかりいただけたと思う。が、ホームズが活躍したのは19世紀の終わりから20世紀初頭であり、現代の感覚では驚くような描写もある。


  特にホームズを「健全な少年少女向け作品」と思われている方にはホームズがコカインをやっている描写はあまり直視したくないことだろう。ご存じない方は驚きだと思うが、『四つの署名』で「7%の溶解液」をやっているとはっきり描写されている。(ただし後になってワトソンがやめさせたようだ)


この描写、実は当時としては自然だ。


  19世紀末当時コカインは危険性が十分理解されていなかった。ハロッズ(ロンドンの老舗デパート)ではコカインと注射器がセットで売られていたほどである。さらに恐ろしいことに、イギリスでは1868年に薬事法が制定されるまで、特に何の制約も無く医療従事者以外でも薬物の購入が可能だった。制約なく購入できた薬物にはヒ素やシアン化合物などの劇物も含まれていた。


  コカインと同じく危険な麻薬の代表格であるアヘンは粉末やアヘンチンキ(アルコールにアヘンを溶かしたもの)の形で神経症の薬として広告付きで販売されており、むしろ摂取を推奨されていたほどである。こういった当時の暮らしはルース・グッドマン(著)『ヴィクトリア朝英国人の日常生活』に詳しい。


  現代でもホームレスは存在するが、『ガス灯野良犬探偵団』では主人公として活躍するベイカー街遊撃隊の少年たちがストリートチルドレン(路上生活者の孤児)であることも冷静に考えるとショックである。当時も貧民を救済する発想はあり救貧院が存在したが「貧しいことは怠惰ゆえの自己責任である」というマッチョイムズが主流な考えであり、救貧院はわざと劣悪な環境に整備されていた。貧しいのは自己責任であるため、救貧院では最低賃金以下の過酷な肉体労働が課せられていた。


  そのため「物乞いやどぶさらい(川底からまだ使えそうなものを拾い売りさばく仕事)でもした方がマシ」と救貧院を"脱走"して自らストリートチルドレンになる子供たちが珍しくなかった。ホームズシリーズ劇中で詳細に描写されることは無いが、その暮らしが悲惨だったことは想像に難くない。


 そのあたりの事情は自らも極貧な少年時代を送った当時の文豪チャールズ・ディケンズの作品などに詳しい。ディケンズの代表作である『オリヴァー・ツイスト』がその例である。『ガス灯野良犬探偵団』でもそのあたりはかなり克明に描写されている。


  当時のロンドンは現在とは比較にならないほど貧富の差が激しく、犯罪が多発していた。市民の三分の一はその日のパンに困るほどで、生活苦から多くの女性が売春に走っていた。計算によると少なく見積もっても女性の市民の55人に一人が売春婦だったそうだ。


  犯罪史上稀に見る凶悪事件、「切り裂きジャック」はそういったヴィクトリア朝ロンドンのダークサイドをバックグラウンドにしている。加えて、当時イギリスの警察はまだ未成熟な組織で、市民からの信用度は低かった。『憂国のモリアーティ』のホームズは当時、警察組織の最先端を行っていたフランスを引き合いに出し「この国は遅れている」と批判していたが、この一説は当時の情勢を端的に表現している。


  犯罪多発都市ロンドンにとってシャーロック・ホームズは望んで止まない英雄だったのだ。
(文=ニコ・トスカーニ)


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