監督では二流もGMでは天下無双。今も球界に色濃く残る根本陸夫の教え

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2024年01月29日 10:21  webスポルティーバ

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<西武ライオンズ40周年>を筆頭に、理由はいろいろあるのだろう。今年は野球マスコミ上で、その名を目にする機会が多かった。つい先日も、ドラフト1位候補選手を巡る記事中、西武球団のシニアディレクター渡辺久信の発言が載っていて、そのなかにも名前が出てきた。

 根本陸夫――プロ野球選手としては三流、監督としては二流、といわれたこの野球人は1999年に逝去したが、死後19年が経った今も、その存在は球界で忘れられてはいない。

たとえば、根本の愛弟子として知られる森繁和が中日ドラゴンズの監督を退きフロント入りすることが決まると、「根本陸夫の再来」と言う声も聞こえてきた。いったい、なぜ、それだけの影響力が残っているのだろうか。

 たしかに、監督としての根本はチームを優勝に導いた実績はなく、順位は3位が最高で"凡将"ともいわれる。しかし、その3位になったのが今から50年前の1968年。広島東洋カープの監督に就任して1年目で、カープを球団史上初のAクラスに引き上げたのだった。

 根本は当時からチームの編成面にも携わり、球団オーナーの松田恒次からも大いに信頼されていた。現場の監督としては結果を残せなくても、日本プロ野球界で初めて、実質的なGM(ゼネラルマネージャー)として辣腕を振るう素地が広島でできていた。
 
 1978年、クラウンライターライオンズの監督に就任した根本は、同年オフに球団が西武に身売りされた後もそのまま監督になり、同時に球団管理部長を兼任。実質GMとして活躍し始めたのはこのときからで、球団オーナーにして西武グループ総帥の堤義明からも信頼を得た。

やはり監督としては結果を出せなかったが、自ら「勝てる監督」として広岡達朗を招聘し、80年代後半から90年代前半にかけて、西武が黄金期を迎える土壌がつくられていく。

 その間、根本はいわばGM専任となって、ドラフトでは毎年のように裏技を駆使して、次々と有望選手の獲得に成功。トレードも積極的に行ない、外国人も含めた戦力補強に尽力した。

 さらに1993年からは福岡ダイエーホークスの監督に就任。このときも球団オーナーの中内功から信頼され、同じように実質GMとして編成面にも携わった。

 まして、中内の要望を受けて、監督を務めている最中から、巨人のスーパースターだった王貞治の招聘に動くと、95年から王ダイエーが実現。世間をあっと言わせた大胆なトレードも敢行しつつ、チームがなかなか結果を出せないなかでも根本は王を守り、99年には球団社長に昇り詰めた。

 だが、その年の4月30日、根本は急性心筋梗塞に倒れ、72歳で生涯を閉じる。それでも同年にリーグ優勝、日本一を達成したダイエーはその後、パ・リーグの雄となり、球団がソフトバンクとなった後も王は会長としてホークスを支えている。すなわちジャイアンツの王をホークスの王にした、それがGM根本陸夫の最後の大仕事だった――。

 選手として三流、監督として二流でも、GMとしては天下無双。誰も真似のできない洞察力と日本全国に広がる人脈を武器に、低迷していたカープ、ライオンズ、ホークスに変革をもたらした男。その3球団すべてのオーナーの信頼を得て、球界のみならず政財界にまで顔を利かせ、その巧みな手腕で「球界の寝業師」の異名をとった男。それだけにとどまらず、日本球界の近未来を常に考え、人づくりを生きがいにしていた男。

 それだけ大きな存在である根本陸夫の全貌は難しくとも、生前の根本と接した関係者から証言を得て、親分肌といわれた人間性をはじめ、その言動、行動、仕事ぶりを今に伝えられないか。

 そう考えた筆者は、本ウェブサイトにて2014年より『根本陸夫伝』を連載。王貞治、土井正博、衣笠祥雄、大田卓司、森繁和、石毛宏典、工藤公康、大久保博元、森脇浩司など、監督経験者や根本に薫陶を受けた野球人、さらには経営者やアマチュア野球人までインタビューを続け、2016年に単行本『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』を刊行。2018年には、新たな証言も加えて文庫版を上梓した。より多くの方に、根本陸夫の存在を感じていただきたい。

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