【根本陸夫伝】頑なにダイエーの監督を拒む王貞治をくどき落とした男

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2024年01月29日 10:21  webスポルティーバ

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根本陸夫伝〜証言で綴る「球界の革命児」の真実
連載第68回

証言者・王貞治(3)

 1984年、新たに王貞治が監督に就任した巨人は3位に終わった。戦力は投打ともに充実し、その後も毎年優勝候補に挙げられていたが、ようやく勝ったのは就任4年目の87年。日本シリーズではリーグ3連覇中の西武に2勝4敗で敗れた。すると翌88年、チーム成績を2位としてAクラスを5年間キープしながらも、王は監督を辞任して退団。野球評論家になった王に根本陸夫が声をかけるのは5年後のことだが、それまでにどのような経緯があったのか。王が当時を振り返る。

自らの監督就任直後、次期監督に王貞治を指名

「現役を22年やって、そのあと助監督と監督で8年やって、30年間、僕はユニフォーム着っぱなしだったんです。そういった意味では、現場から離れるっていう新鮮さはあった。少し野球から離れてね、気分転換したいっていう思いもありました。だから、ジャイアンツの監督を辞めて2年目だったか、初めて他のチームから誘われたけど、そういう時に一生懸命に言われたって、すぐにユニフォーム着る気にはなれないしね」

 巨人退団後の王は、企業の顧問や飲食店の取締役などを務めつつ、自ら設立した<世界少年野球推進財団>の専務理事に就任。評論家としてプロ野球界に目を向けつつも、戦いの現場からは遠く離れた世界に関わる時間が増えていた。だから<財団>をスタートさせて間もない時期、日本ハム、横浜(現・DeNA)から監督就任を求められても断った。その後も各球団から誘いを受けたが断り続けた。

「本人が全然その気になってないんだから、それは断りますよ。でも、だんだんだんだん、物足らなくなってくるんだよね。戦いの輪の中にいた者が輪の中から外れちゃうと。最初のうちは、輪の中から外れるのは気分的にはすごく新鮮で、窮屈な思いもしないからいいんだけれど、戦いの輪の中でずーっと生きてきた人間としては、輪の中から外れるのは寂しい、っていう思いもあるんだよね。だから、今、ユニフォーム脱いでいる人たち、どこの誰でもみんな、声かければ『ノー』という人は絶対にいないと思う。野村克也さんなんて今もそうじゃないかな(笑)。それぐらい、戦いの輪の中にいた人は、もし戻れるなら、っていう思いを持ってるんだよね」

 王が「もし戻れるなら」と思い始めた時期、西武球団の取締役編成部長だった根本が、ダイエー(現・ソフトバンク)の監督に就任した。同時に代表取締役専務にして球団本部長を兼任し、現場だけでなくフロントのトップになった。そのフロントのトップとしての最優先事項が王監督招聘だったが、根本自身はまだユニフォームを着ている。ゆえに王は、最初に声をかけられた時、まったく本気にしなかった。93年のことである。

「根本さんは僕にとって野球界の大先輩で、以前から球界の行事なんかで会っていました。でも、あのときは驚いた。なんたってね、根本さんがダイエーホークスの監督1年目の、夏前ですよ。まだ監督としてやり出した2カ月か3カ月のときに、『おい、ワンちゃん。オレのあと、来年から監督やってくれ』って言うわけ。こっちはびっくりしてね、『そんな、始まってすぐになに言ってるんですか? まだ監督になったばっかりじゃないの』って言っちゃいましたよ(笑)」

 冗談としか思えなかった。王自身、再びユニフォームを着たい、という気持ちが芽生えてはいたが、パ・リーグで野球をやることは想像もしていなかった。九州の球団で野球をやる自分も考えられなかった。

 その後、根本は同年のシーズンオフ、東京で行なわれたパーティーの席で王と顔を合わせると、「ワンちゃん、ちょっと話がある」と言った。パーティーを抜け、近くのホテルに連れ出してふたりきりになると、「来年、ダイエーの監督をやってくれ、どうだ」といきなり切り出してきた。これは本気なのかもしれない、と感じた王だったが、「やります」とも「やりません」とも言わなかった。「大先輩に声をかけてもらってありがたい気持ちです」とだけ答えた。

王貞治の気持ちをぐらつかせた根本の言葉

 これは本気だと確信したのは、94年の1月半ば。東京・銀座のフランス料理店で、王と根本、そしてダイエー球団代表の瀬戸山隆三(現・オリックス本部長)と3人で面会した時のこと。初めて監督就任を"公式"に打診された。根本はその席で王にこう言った。

「東京ドームには長嶋茂雄という長男がいる。君は福岡ドームの長男にならんか。補強はいくらでもする」

 長嶋は前年から巨人の監督に復帰していた。そのことを引き合いに出した言葉だった。すなわち、王の巨人復帰はなくなった、という状況を踏まえた言葉でもある。最初に声をかけられたときに聞かされた、日本シリーズでの"ON対決"構想もあらためて披露された。それでも王自身、まだまだ巨人以外のユニフォームを着る自分をイメージできず、「この先、いくらお話をいただいてもお受けできません」と答えた。

 1カ月後の2月半ば、解説者・王がNHKの取材で高知のダイエーキャンプを訪れたときのこと。監督・根本から食事に誘われ、その席でも「どうだ?」と言われ、気持ちが微かに揺れ動いた。

「最初は冗談だと思ってたのが、本気で声をかけてくれているとわかって、根本さんがあきらめずに声をかけてくれたとき、僕はこう考えた。"生涯巨人"の思いを断ち切って心機一転を図るとしたら、当時、東京ドームが本拠地だった日本ハムや在京球団ではやりづらいだろうなって。だったら逆に、東京から遠く離れたパ・リーグの球団ならいいんじゃないかって。そうして、ここでユニフォーム着るのもいいんじゃないか、と思い始めた。ただ、僕の周りの人たちは全員、反対だったけどね」

 そんな心境の変化を感じ取っていた根本は、自身が現場で指揮を執ることもあり、王との入団交渉を代表の瀬戸山に一任。「ノーと言われるまで、毎月会え」と言って、同じ銀座のフランス料理店で月一回、王と面会するよう命じた。当初は頑なに拒否されていた瀬戸山に対し、根本は「絶対、ワンちゃんは最後、受ける。野球人だから受けるんだよ。まあ、ぼちぼちやれ」と言って励ました。5回目の面会で、王は瀬戸山に「監督を引き受けます」と返事をした。

「あのときはなんだろう。今、自分で振り返ってみると、根本さんはあわてないで一歩一歩、周りを固めていくっていうかね......そうやって、本人をその気にさせるっていうことをやっていたんだと思う。機が熟すというか、タイミング的なものもよかったんじゃないかな。それにしても、まさかホークスから声がかかるとは思わなかった。根本さんから声をかけてもらうまで、パ・リーグも、福岡も、まったく頭になかったからね」

 94年10月12日、博多駅前のホテルで王の監督就任が正式に発表された。契約期間は5年と明かされ、球団も根本も、「どんなことがあっても5年は任せる」と決意した。そして、球団オーナーの中内功は「とにかく、優勝できるチームにしてくれ」と王に言った。根本もまた、「とにかく自分の思いどおりにやって、優勝できるチームにしてくれ」と言うだけで、野球のやり方など細かいことは言わなかった。そこは王自身、ずっと巨人で野球をしてきて、5年間の監督経験もあるがゆえの、根本の気遣いと受け止めていた。

(=敬称略)

【人物紹介】
根本陸夫...1926年11月20日、茨城県生まれ。52年に近鉄に入団し、57年に現役を引退。引退後は同球団のスカウト、コーチとして活躍し、68年には広島の監督を務める。監督就任1年目に球団初のAクラス入りを果たすが、72年に成績不振により退団。その後、クラウンライター(のちの西武)、ダイエー(現・ソフトバンク)で監督、そして事実上のGMとしてチームを強化。ドラフトやトレードで辣腕をふるい、「球界の寝業師」の異名をとった。1999年4月30日、心筋梗塞により72歳で死去した。

王貞治...1940年5月20日、東京都生まれ。59年に早稲田実高から巨人に入団。62年に荒川博コーチの指導で一本足打法に取り組み、64年に日本記録(当時)となるシーズン55本塁打を達成。73、74年には2年連続三冠王を達成し、77年には世界記録となる通算756本塁打を放つ。80年に現役を引退。通算成績は2786安打、868本塁打(世界一)、2170打点。引退後は巨人、ソフトバンクで監督と務め、2006年には第1回WBCの日本代表の 監督として世界一に輝いた。現在はソフトバンクホークス会長。

瀬戸山隆三...1953年9月18日、大阪府生まれ。大阪市立大を卒業後、77年にダイエーに入社。ダイエー入社後、福岡ダイエーホークスに出向し、王貞治監督の招聘に尽力。96年より球団本部長、99年には球団代表に就任。下位低迷を続けていた球団を26年ぶりのリーグ優勝、35年ぶりの日本一へと導いた。04年に千葉ロッテマリーンズの球団代表、06年より同球団社長に就任。12年11月より、オリックス・バファローズ執行役員球団本部長補佐に就任。現在はオリックス・バファローズの執行役員球団本部長。

長嶋茂雄...1936年2月20日、千葉県生まれ。佐倉高校から立教大に進み、58年に巨人に入団。1年目から本塁打王、打点王の二冠に輝き、優勝に貢献。 その後も王貞治とともに「ON砲」として巨人V9に貢献し、国民的人気を誇った。74年に現役を引退し、その後75年から80年、93年から01年の計 15年間、巨人軍の監督を務めた。通算成績は2471安打、444本塁打、1522打点。

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