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世界2位の快挙から20年......
今だから語る「黄金世代」の実態
第1回:小野伸二(2)
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1999年ワールドユース(現U−20W杯)・ナイジェリア大会、U−20日本代表はグループリーグを首位通過。決勝トーナメント1回戦で、強豪ポルトガルを破ってベスト8進出を決めた。
準々決勝の相手は、北中米の難敵メキシコだった。
メキシコは大会3連覇を狙っていた"南米の雄"アルゼンチンを4−1で破って勝ち上がり、非常に勢いがあった。しかも、メキシコは決戦の地となるイバダンですでに3試合を消化。亜熱帯気候の蒸し暑さにも慣れていて、メキシコの"ホーム"のような状態になっていた。
一方、日本はポルトガルとPK戦にまで及ぶ死闘を演じて疲労困憊のなか、バスと飛行機で数時間かけて移動してきた。
下馬評では、メキシコが断然優位だった。
それでも、キャプテンの小野伸二をはじめ、日本の選手たちは過去2大会で越えられなかった"ベスト8の壁"を破り、「新しい歴史を作るんだ」という強い気持ちと高いモチベーションを維持していた。
さらにメキシコ戦を前にして、小野は「本音を言えば、アルゼンチンとやりたかった。世界の強豪相手にどれだけやれるのか、自分たちの力を試したかった」と話していた。それは他の選手たちも同様で、日本のチームにはそれだけの精神的な余裕と、それまでに培われた自信が満ちあふれていた。
そして、日本はメキシコに快勝した。開始4分、本山雅志のゴールで先制すると、24分には小野がヘディングでゴールを決めて、2−0とメキシコを振り切った。
小野が大会初ゴールを決めたときは、播戸竜二ら控えのメンバー全員がベンチから飛び出して、お祭り騒ぎのようになった。レギュラー組とサブ組がひとつになっていることを象徴するシーンだった。
「試合に出ていない彼らの存在は、チームにとって本当に大きかったですね」
当時を振り返って、小野はしみじみとそう語った。
ワールドユースのメンバーは総勢18名。そのうち7名がサブメンバーとなる。しかし、サブメンバーとはいえ、一人ひとりは"お山の大将"のような面々であり、若いときから自らが所属するチームではバリバリのレギュラーでプレーしてきたエリートだ。ベンチに座らせられることは、若さもあって、自分のなかで折り合いをつけるのは、決して簡単なことではない。
そのことを理解していた小野は、ポジティブなムード作りのために「練習以外の時間を大事にした」という。
「(大会に臨むにあたって)練習時間以外に、いかにチームをひとつにまとめるか――実は、それがすごく大事だと思っていました。そのために、リラックスルームに集まって、(日本から持ってきた)DVDのドラマとかをみんなで見ていました。"みんなで"という意識が大事で、一緒にいるとその意識が強くなる。それは、大会を通してできていたと思います」
播戸をはじめ、氏家英行、加地亮、稲本潤一らサブメンバーは、頭を丸刈りにするなどして、日頃からチームを盛り上げるために尽力した。試合になれば、両手に冷たいペットボトルやタオルを抱えて、プレーが中断した際には、ピッチ上で戦う選手たちに手渡しして、抜かりないサポートを心がけた。
彼らは彼らで、「自分たちがチームの雰囲気を悪くすることだけではしてはいけない」と心に決め、その一点でまとまり、最後までバラバラになることはなかった。
「控えのみんなは、練習では緊張感を高めてくれて、それ以外ではみんなと一緒にワイワイして、明るい雰囲気を作り出してくれた。試合に出られなくても腐ることなく、常にポジティブな姿勢でいてくれた。試合に出ていない選手があれだけやってくれたので、自分も含めて、試合に出ている選手は大きな責任を背負ってプレーしていたと思います」
小野は、サブとレギュラーがこれほどまでに一体化したチームを経験したのは、初めてだったという。そしてそれ以降、2002年日韓共催W杯、2004年アテネ五輪、2006年ドイツW杯などの世界大会にも出場したが、これほどまとまったチームを経験することはできなかった。
「あれだけ、試合に出ている選手と出ていない選手がひとつになるというのは、なかなかあることではない。今までサッカーをやってきて、このときほど一体感を感じられたことは、"日本代表"という立場ではなかったですね」
一体感の醸成は、トルシエ監督という指揮官の存在もとても大きかった。
トルシエ監督は、今の時代であれば、パワハラで訴えられてもおかしくないほどの、高圧的で、威圧的な言動を繰り返していた。ファイトする姿勢が表立って見えない選手に対しては、胸ぐらをつかみ、罵声を浴びせた。ゆえに、最初は露骨に嫌な表情を見せ、文句を言う選手も絶えなかった。
ただ、時間が経過するにつれて、選手たちもトルシエ監督の対応に慣れ、その対処法をつかんでいった。そのうち、選手と監督との間にも、徐々に"あうんの呼吸"のようなものが出来つつあった。
そんなトルシエ監督から、小野は大きな影響を受けたという。
「トルシエ監督は(試合に向けての)ムード作りがすごくうまかった。練習ではいつもピリピリとした空気のなかでやれていたし、試合直前のスタメン発表まで誰が試合に出るのかわからない雰囲気を作ってくれたので、レギュラー選手でさえも『もしかしたら外されるんじゃないか』という緊張感を、常に保つことができました。
たしかに最初はみんな、トルシエ監督のやり方に対してブーブー言っていましたね(笑)。日本人って、怒られるのが嫌いじゃないですか。でも、トルシエ監督はその怒り方もすごくうまいんですよ。それで、選手がピリッとするし、『何くそ!』って思って、選手みんなが団結していくんですよね。
まあ、トルシエ監督の性格を知れば、愛情を持って自分たちに厳しいことを言ってくれたんだ、というのはわかりますからね。僕は、トルシエ監督があのときの若い自分たちにすごく合っていたと思います。いろいろな監督のもとでやってきましたが、僕にとっては、歴代代表監督の中ではトップですね」
トルシエ監督が、当時の日本の若きタレントたちに示したのは、サッカーだけではない。大会期間中、わざわざ現地の孤児院まで行って、その国の現実などを目の当たりにさせ、選手たちに自らがいる立場や現状について考えさせた。
「トルシエ監督は"世界を知る"という意味で、孤児院にも連れていってくれた。ただサッカーをやるだけじゃない。自分たちがどれほど裕福な環境でサッカーをやっているのか、ということを教えてくれた」
孤児院に到着し、小野ら選手たちは、最初はやや戸惑いを隠せずにいたが、しばらくして慣れてくると、笑顔で子どもたちを抱き上げて、ふれあいの時間を過ごした。そして、選手間で集めたお金を孤児院への支援として寄付した。
選手たちを孤児院に連れていくことで、トルシエ監督は「プロのアスリートは、積極的に社会貢献活動をする模範となるべきだ」という姿勢を示したのだ。
そのトルシエ監督に率いられたチームは、メキシコに勝って一段と一体感が増していた。ついにベスト8の壁を破って、準決勝に進出。ブラジルを破って勝ち上がってきたウルグアイと対戦した。
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フィジカルが強く、若いながらも老練な戦術眼を持つウルグアイは、日本が採用する"フラット3"に揺さぶりをかけるなど、試合巧者ぶりを随所に発揮してゲームをコントロール。高原直泰のゴールで日本が先制するも、すぐに取り返して振り出しに戻した。
その1−1の拮抗した状態を破ったのは、FW永井雄一郎だった。スタメン起用になかなか結果で応えられず、悩みの淵にいたが、初めてのゴールはまさに値千金の一発だった。
後半、日本はウルグアイの猛攻にさらされたが、3バックを4バックに、1ボランチを2ボランチにして対抗。そうした状況のなか、再度3バックに戻すなど多少の混乱は見られたが、そのままウルグアイの攻撃に耐えて、2−1で逃げ切った。
だが、日本は大きな代償を負った。小野がイエローカードをもらって、累積警告による出場停止で決勝戦には出られなくなってしまったのだ。
「決勝に出場できなかったのは、自分の責任です。ただ、自分がいなくても、それほど心配はしていなかったですね。自分たちの目標は『世界一になる』ということ。それを実現させるために、みんながひとつになっていたし、楽しみながらサッカーをやっていましたから。
楽しいときって、自分が持っているものをたくさん出せて、いいサッカーができているんですよ。それはイコール、チームもいい方向に向かっているということ。誰かのためじゃなくて、自分たちが楽しんで、自分たちのためにやることが、結果的に国民を驚かすことにつながる。そういう意味で"楽しむ"ということは、すごく大事だったんです」
小野は20年前も今も変わらず、「サッカーを楽しむ」と言う。
もちろんそれは、幼少の頃からそういう気持ちでサッカーを続けてきたこともあるが、このワールドユースで"楽しんで結果を出すことができた"という経験も大きかった。
個々が楽しくサッカーができなければ、いろいろなことが悪循環になり、チームもうまく機能しなくなる。そのことを小野は、ワールドユースのあとに何度か経験していくことになる。
そしてスペインとの決勝戦、小野が見たものは、自分たち以上にサッカーを楽しむスペインの姿だった。
(つづく)
小野伸二
おの・しんじ/1979年9月27日生まれ。静岡県出身。北海道コンサドーレ札幌所属のMF。日本サッカー界屈指の「天才」プレーヤー。1995年U−17世界選手権、1999年ワールドユース、2004年アテネ五輪に出場。W杯出場は3回(1998年、2002年、2006年)。清水市商高→浦和レッズ→フェイエノールト(オランダ)→浦和→ボーフム(ドイツ)→清水エスパルス→ウエスタン・シドニー・ワンダラーズ(オーストラリア)