連載第10回 イップスの深層〜恐怖のイップスに抗い続けた男たち
証言者・中根仁(2)
(前回の記事・中根仁の1回目はこちら)
それは突然の指令だった。
「中根、サードに入れ!」
プロ2年目となる1990年の秋、西武との消化試合でのことだった。中根仁は試合中に三塁の守備につくことを命じられる。シーズン中は外野の経験しかなく、中根は内心「ここで?」と狼狽(ろうばい)したが、実はキャンプやオープン戦では三塁手としての適性をテストされていた。ショートスローができない送球イップスを抱える中根にとって、サードの守備は未知の世界だった。
「外野と同じように、守っているときからムズムズはするんです。でも、サードって、外野手みたいに大きな動作じゃなくて、捕ったらすぐ投げないと間に合わないじゃないですか。『ああ、内野ってこうやって投げるんだ』と勉強になりましたし、首脳陣も僕に内野を経験させることでスローイングを覚えさせようとしているのかな? と思いましたね」
9回二死。石毛宏典が放った打球は、ボテボテのゴロとなって三塁前に転がった。中根はこの打球を前進してさばくと、すでに観念して全力で走っていない石毛の姿が見えた。あとは一塁に投げるだけだ。
「これはもう、今でもネタとして話すんですけど......。石毛さんが抜いて走っているのが見えたので、イメージとしては一度ふぅ〜っと息を吐いて、ボールをゴシゴシふいて、でもスナップスローのやり方が思い出せないからいつも通り全力で思い切り腕を振って......という感じでした(笑)」
そう述懐する中根の全力送球は、うなりをあげながらマウンドの先で早くもバウンドし、そこからさらにもうひとつバウンドしてファーストを守るジム・トレーバーのミットに辛うじて収まった。
プロのレベルからすれば、何でもないプレーのはずだった。マウンドにいた同年齢の木下文信からは「何しとんねん、中根!」と叱責される。中根は「トレーバーが捕球した瞬間に見せた、あの苦しげな表情が忘れられない」という。
この日以降、中根がサードを守ることはなかった。
だが、外野を守っていてもイップスが改善されるわけではない。むしろその症状は徐々に悪化していった。
本人の記憶ではプロ入り4年目か5年目のある日。遠投をしていた中根は、チームの後輩からこんな指摘を受ける。
「中根さん、テークバックでボールが上を向いたままですよ」
投球動作の際、テークバックと呼ばれる予備動作で、利き腕の手のひらは下を向き、その下にボールがあるのが一般的だ。だが、中根のテークバックは手のひらが上を向き、その上にボールが乗るという、非常にぎこちない形になっていた。
そして何よりショックだったのは、本人にその自覚がまるでなかったことだ。
「『えぇー、なんでこんな形になってるの?』って。自分でも驚きました。でも、たしかに腕を大きく回していると、腕がどこにあるのかわからなくなってくるんです」
そして、印象深いプレーがあったのは、センターを守っていたグリーンスタジアム神戸(現・ほっともっとフィールド神戸)での試合だった。
「右中間寄りのゴロを捕って、ランナーが一塁にいたのでサードに送球しました。そうしたら、そのボールが三塁側ベンチの上まで届いてしまった。よく言う"すっぽ抜け"じゃないんです。ガチっと指にかかったうえでの大暴投でしたから。プロで一番の大遠投だったかもしれませんね(笑)」
筆者はつい最近、人に教えられるまで、中根がイップスだったことは知らなかった。球界に広く知れ渡ることはなかったのかもしれない。だが、本人にしてみれば野球人生にかかわる、重大な弱点だったことは間違いない。
ところが、そんなデリケートなテーマであっても、中根の語り口は軽やかで、表情は晴れやかだった。生来の明るさはあるにしても、現役生活を退いてもう14年が経つだけに、時間の経過が中根の傷を癒したのだろうか。
そんなことを考えていると、中根の口から「近鉄じゃなかったら、もっとひどいイップスになっていたかもしれない」というショッキングな言葉が飛び出した。その真意を問うと、さらに意外な言葉が続いた。
「みんなお酒が好きでしたから(笑)。野球が終われば、みんなで酒を一緒に飲んで騒いでいました。金村(義明)さん、山下(和彦)さん、大石(大二郎)さん、光山(英和)さん、石井(浩郎)さん......。みんなにかわいがってもらって、楽しくワイワイ酒を飲むことで救われていました」
個室でひっそりと飲むのではなく、人目をはばかることなく大衆居酒屋で酒盛りを楽しんでいたという。たとえチーム状況が悪くても、自重するという感覚もない。中根は「週刊誌に追われることもありませんでしたから」と笑いながら振り返る。
かつて中根と同時期に近鉄に所属し、セットアッパーとして活躍した佐野慈紀(当時は重樹)から、こんな逸話を聞いたことがある。関東でのビジターからの帰路、新幹線の車内でバファローズ一行の酒盛りが始まると、新大阪に到着するまでに車両の端から端までビールの空き缶がズラリと並んだという。当時の近鉄にはそれだけの酒豪が集まり、豪快なチームカラーだった。
あらためて中根は言う。
「もし僕が酒を飲めずに、グラウンドレベルだけで先輩たちと付き合っていたら、その人がどんな性格かわかっていなかったと思います。野球しか見ていなかったら、もっと気疲れして、とんでもないイップスになっていたのかもしれません」
親しい仲間にはイップスのことを打ち明け、ミスをすると「またやったな」とネタにすることもできた。中根は「イップスは認めるしかない」と言う。
「カツラをかぶっている人って、みんな気づいてないふりをするだけで、だいたいわかるじゃないですか。イップスもそれと同じですよ(笑)。隠してもバレますから。選手はつらいですけど、『そんなの普通でしょ?』という感覚でいればいいと思いますね」
苦手な中継プレーはカットマンまでの距離を走って縮めてごまかし、酒の力を借りてストレスを発散し、イップスを打ち明ける仲間にも恵まれた。こうして中根はイップスという弱点を深刻に抱え込み過ぎず、近鉄でのキャリアを重ねることができた。故障が多く、年間通してレギュラーに定着した年はなかったが、それでも1994年には103試合に出場して、打率.291、10本塁打と好成績を残している。
そして1997年オフには盛田幸希(のちに幸妃)とのトレードで横浜(現・DeNA)に移籍。その頃にはすでに、イップス克服のための重要なコツをつかんでいたという。
中根のイップス克服法、それは逆転の発想から生まれたものだった。
つづく
(=敬称略)
※「イップス」とは
野球における「イップス」とは、主に投げる動作について使われる言葉。症状は個人差があるが、もともとボールをコントロールできていたプレーヤーが、自分の思うように投げられなくなってしまうことを指す。症状が悪化すると、投球動作そのものが変質してしまうケースもある。もともとはゴルフ競技で使われていた言葉だったが、今やイップスの存在は野球や他スポーツでも市民権を得た感がある。
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