甲子園であわや完全試合、ヤクルト入団拒否、イップス...新谷博が振り返るプロ入りまでの壮絶日々

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2024年02月29日 17:21  webスポルティーバ

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新谷博インタビュー(前編)

 佐賀商のエースとして出場した1982年の夏の甲子園で、あわや完全試合の快投で一躍注目を集めた新谷博氏。同年、ヤクルトから2位で指名を受けるも拒否し、駒澤大へ進学。4年後のプロ入りを目指したが、突如、悲劇が襲った。結局、プロ入りしたのは日本生命5年目の91年。世代屈指の好投手がプロ入りまでの波瀾万丈を語った。

【夏の甲子園であわや完全試合の快投】

── 佐賀県には佐賀学園や龍谷など、強豪校がたくさんありますが、そのなかで県内屈指の伝統校である佐賀商に進まれたのはなぜですか。

新谷 中学の時は強いチームではなく、途中でバスケットボール部に転部したほどでした。高校では強いところでやりたかったので、県内で一番の名門である佐賀商に進みました。

── 高校3年(1982年)の夏の甲子園では、初戦で木造高(青森)に9回二死までパーフェクト。あとひとりのところで死球を与えて完全試合は逃しましたが、ノーヒット・ノーラン。長い高校野球の歴史でセンバツではふたりの完全試合達成者がいますが、夏はいません。

新谷 よく聞かれるのですが、監督に言われたまま、捕手のサインのまま一生懸命投げていたら、達成できたという感じです。だから、夏の甲子園初の完全試合を逃したとか、死球が惜しかったとか、そういう感情は一切ないです。

── その年のドラフトでヤクルトからドラフト2位指名されるも拒否。その理由は、教員免許を取得して、将来は高校野球の指導者になりたかったからだと聞いたことがあります。

新谷 同級生の4番・為永聖一の駒大進学が決まっていたのですが、監督が「新谷も一緒にお願いします」ということで、ドラフト前に進学が決まっていたんです。ただドラフトで強行指名されたので、教員志望というのはお断りの理由でした(笑)。

【大学4年の開幕戦で起きた悲劇】

── 駒澤大では、4年間で40試合に登板して16勝6敗。新谷さんが3年の時は「右の新谷、左の阿波野秀幸(亜細亜大→近鉄)」と呼ばれるほど、戦国・東都大学リーグで屈指の投手でした。

新谷 大学では「ドラフト1位でプロに行くぞ!」と意気揚々でした。そして4年春のリーグ戦で開幕投手に指名。神宮球場のネット裏には多くのスカウトが集結していました。しかし初回、緊張のあまりストレートの四球を3人続けて出してしまい、無死満塁。怖くて投げられなくなって......突如"イップス"になってしまったんです。球がどこにいくかわからない。球速を10キロ落として、130キロくらいでストライクをとるしかないわけです。監督に「おまえ、いい加減にしろ!」と怒鳴られ降板。プロ行きも一瞬にして消え失せました。まだ本物ではなかったんでしょうね。

【覚醒のきっかけはギックリ腰】

── 大学卒業後は社会人の日本生命に進みました。

新谷 相変わらず、入社から3年はイップスに悩まされていました。そして4年目の5月にギックリ腰で10日間練習を休みました。復帰してすぐ打撃投手を命じられたのですが、その1球目に外角で空振りがとれたんです。「あれ、野球ってこんなに簡単だったの?」と。これまでの悩みが一気に消えて、2球目は145キロ。この瞬間「絶対プロに行ける」と確信しました。

── その年の秋の日本選手権でMVPに輝きました。

新谷 その頃の私にとっては当たり前ですよ。日本で一番いい投手だと思っていましたから(笑)。でも、3年間は結果が伴っていなかったので、周囲は信用するわけがない。当時、同僚の木村恵二(90年ダイエードラフト1位)を推す監督と、僕を推すコーチが激論をかわしたそうです。結局、僕が準決勝、決勝を含む4試合に投げ、3勝を挙げて優勝しました。社会人4年目に開花しましたが、会社への恩返しでもう1年残ることにしました。

── ケガの功名じゃないですけど、ギックリ腰になったことが転機だったと。

新谷 ホントです(笑)。野球人生の言わばターニングポイントになりました。自信とは不思議なものですね。

【希望球団はダイエーだったが...】

── 当時、目標とするプロの投手は誰でしたか。

新谷 そもそもプロ野球をあまり見ていなかったので、目標とする投手はいませんでした。昔からプロには行きたかったけど、「いい球を投げていれば、普通にプロに行けるだろう」といかにも投手らしい考えの持ち主でしたね。

── 希望球団はあったのですか。

新谷 ダイエー(現・ソフトバンク)に行きたかったです。その理由は、私が九州出身ということではありません。当時のダイエーは14年連続Bクラスで、投手陣も整備されていませんでした。大学卒業後、社会人で5年、私が高校3年で指名された時から9年が経っていました。28歳の"オールドルーキー"になるわけですから、なるべく早く一軍の主力として投げたかったんです。だからダイエーのスカウト以外、会っていませんでした。

── ドラフトでは、ダイエーとは真逆の「黄金時代」に突入していた西武に2位で指名されました。

新谷 西武のスカウトからあいさつの電話がかかってきたのですが、「勘弁してくださいよ」と文句を言いました。当時の西武投手陣は、郭泰源さん、工藤公康さん、石井丈裕、渡辺智男、渡辺久信ら、錚々たるメンバーでしたから。

── そんななか、1年目は4勝、2年目は8勝、3年目からは3年連続2ケタ勝利と順調に勝ち星を重ねていきました。

新谷 投げさせてもらえれば、そりゃ勝ちますよ。打線の援護が強力なんですから(笑)。言ってみれば、敵は味方の投手だったわけです。「投げさせてもらうこと」が一番大事だとわかったのは、プロ1年目のマウイキャンプ前日の夕食の時でした。私を含めた新人3人は、遅刻しないように時間厳守で夕食会場に入ったところ、次から次と先輩たちが入ってきました。石毛宏典さん、辻発彦さん、秋山幸二さん、清原和博......。その錚々たる顔ぶれを見て「これは野球をやっている場合じゃないぞ!」と。

── どういう意味でしょうか?

新谷 味方に緊張するなんて、野球をやる以前の問題です。必要以上に先輩に臆さないようにしなくてはいけないと考えました。夜、宿舎で伊東勤さんの部屋でトランプゲームに加えていただきました。そこに集まっていた先輩方と意思の疎通を図り、打ち解けたのです。以来、ブルペンでは伊東さんが「おい新谷、球を受けてやるぞ!」と誘ってくれ、バント練習では平野謙さんが「少々ボール気味の球でも当ててやるからな」と言ってくれました。若い投手は得てして「ストライクが入らないなら代われ!」と言われ、腕が縮こまってしまうのですが、僕は打ち解けたおかげで気楽に投げることができました。そういうところは5年間の社会人生活を経験して、野球をする以前に「組織のなかでどうやって生きていくか」ということを学んだ気がします。

後編につづく>>


新谷博(しんたに・ひろし)/1964年7月14日、佐賀県生まれ。佐賀商のエースとして、82年の夏の甲子園でノーヒット・ノーランを達成する。同年ドラフト2位でヤクルトから2位で指名されるも拒否して駒澤大へ進学。その後、日本生命を経て、91年ドラフト2位で西武に入団。94年に最優秀防御率のタイトルを獲得し、この年から3年連続2ケタ勝利を挙げるなど、西武の主力として活躍。2000年に日本ハムに移籍し、01年に現役引退。引退後は日本ハムコーチ、尚美学園大学女子硬式野球部監督、埼玉西武ライオンズ・レディースの監督などを歴任。23年から明治安田生命のヘッドコーチに就任した。

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