江川卓の心身疲労、出場校中最低のチーム打率、仲間との亀裂...大本命・作新学院の大きすぎる不安要素

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2024年03月01日 17:31  webスポルティーバ

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連載 怪物・江川卓伝〜夏の甲子園初戦、延長15回の死闘(前編)

「最後の夏は優勝なんて考えていない。負けないように......と精一杯でした」

 作新学院のエース・江川卓の女房役である亀岡(旧姓・小倉)偉民は、当時を振り返りそう答えた。

 監督の山本理でさえも、「正直、夏は全国制覇を狙える状態ではなかった」と断言している。そして江川もまた、本調子でなかったと語っている。

「最後の夏は、とにかく県大会を勝ち抜かなきゃいけないという思いが強かったですね。県大会は絶好調じゃなかったけど、何とか乗り切れた。でも、甲子園に来たら暑さでバテちゃったんでしょうね」

【出場校中最低のチーム打率】

 甲子園を決めた段階で、すでに江川は心身ともに疲弊していた。さらに深刻だったのは、調子の上がらない打線だった。

 春のセンバツ出場時のチーム打率.333は、出場30校中3位の強力打線だったが、夏はチーム打率.206で、これは出場48校中最低の数字だった。この数字の低下と比例するように、江川とチームメイトとの距離も離れていく。

 甲子園に出場する強豪校の取材をすると、たまに「夏は早く負けようと思って......」とにわかに信じられない言葉を聞くことがある。本気で言ったのではなく、あくまで気持ちを落ち着かせるための言葉だろうと、自分なりに解釈していた。

 だがこの時の作新は、本当に負けたかったのではないかと思うのだ。過熱する報道に嫌気がさし、早くここから抜け出したかったのではないか。江川のことを嫌いになったわけじゃないのに、知らぬまに距離ができてしまう。このまま勝ち続けると、本当に江川のことを嫌いになってしまうのではないか......そんな気持ちがあったとチームメイトはのちに語っている。

 同じ宿舎に泊まっていた箕島(和歌山)が、近くの海岸でチーム一丸となって素振りしている姿を横目で見ながら、作新ナインはどこか冷めていた。春のセンバツと違って「宿舎での取材はお断り」と報道規制を敷いたため、宿舎は閑散としていた。

 1973年の全国高校野球選手権大会の大本命は作新学院であり、注目は江川だった。甲子園に入ってからも、江川の一挙手一投足に注目が集まった。作新学院の初戦は、大会2日目の第3試合、相手は柳川商(福岡)に決まった。

 柳川商の監督である福田精一は抽選会のあと、報道陣の前でこう言い放った。

「代表に決まったあと、"打倒・江川"を目指して練習してきた。キャッチャーが捕れるのに、バットに当てられないはずがないでしょう。絶対にヒット5本を打ってみせます」

 対戦相手の監督が何を言おうが、マスコミは大言壮語だと受けとった。作新との対戦が決まった時に、柳川商の攻撃陣を「からたち打線」と命名したところもあった。柳川にゆかりのある北原白秋の作品に引っかけたもので、空振りするか、手も足も出ずに立ち尽くすかという意味が含まれている。強烈な皮肉である。

 当時の柳川商の主将で、現在は飯塚高(福岡)の監督を務める吉田幸彦が抽選会の時の心境を語る。

「作新が相手に決まった時は、ショックでうなだれました。そしたらほかのナインは盛り上がっていたんです。『作新を引いたぞ』って。その姿を見て、ちょっとホッとしました」

 福田は宿舎に戻っても「これだけ全国的に注目される選手と戦えるんだから、野球人としてこんな喜ばしいことはない」と、選手たちを勇気づけた。

 柳川商OBである社会人野球・松下電器の監督の計らいで、松下電器の2番手ピッチャーを柳川商の練習に行かせ、バッティング投手を務めさせた。江川対策で1メートル前から投げてもらい、その球を打ち返す。「これなら江川の球は打てる」と、選手たちは自信を持って試合に臨んだ。

【バスター打法で江川を撹乱】

 試合開始の整列で、体格的にも負けていない柳川商ナインであったが、テレビで見る江川を目の前にして、「本当に打てるのか......」と不安が増大していくのがわかった。だがプレーボールするや、その不安は一気に解消される。

 1回表、柳川商の攻撃で1番の吉田がカウント2−2から外角低めのボールをバントの構えから引いてスイングすると、痛烈な打球のライトライナーとなった。アウトにはなったが、この一打で「おい、いけるぞ!」と、柳川商ナインの士気が上がった。

 センバツ初戦の北陽との試合では、5番打者までひとりもバットに当てさせなかった江川だったが、いきなりトップバッターがいい当たりのライトライナー。春のセンバツとは違う試合模様を予感させるには、十分な一打だった。

 この試合、柳川商打線はバントの構えからヒッティングに出る、いわゆる"バスター打法"で江川を苦しめる。

 このバスター打法は、大振りにならずコンパクトにバットが出るため、速球派の投手相手に効果的な打法である。福田は、三池工業高の監督であった原貢と懇意にしており、いろいろ野球を教わった。このバスター打法も、原から教えてもらったものだ。

 作新との対戦が決まった日、福田はバスター打法でいくことをナインに告げる。とにかく試合当日までの短期間で、バスター打法をマスターすることに全力を注いだ。

 のちに法政大で一緒にプレーすることになる柳川商の4番・徳永利美は言う。

「私だけバットを少し余らせて普通に打っていました。最初の打席は3球三振。普通のピッチャーより角度があるから、ホップしているように見えました。とくに目の高さのボールは打てそうな感じがするんだけど、まったく当たらない。しかも真っすぐしか狙っていなかったので、カーブが来たら打てません。そのカーブのキレもすごかったです。マウンドでの江川は大きく見えましたね」

 この日、全国の電力消費量は普段より約78万5000kwオーバーの新記録。江川が登板するということで、テレビの消費電力が著しく上がったためと言われている。関西電力は大手企業に節電を協力してもらい、なんとか停電は免れた。

 この試合、序盤はストレートが多かった。5回まで10三振と、数だけみれば普段と変わらない、いつもの江川だ。だが、4回には約9カ月ぶりに連打を許すなど、この日の江川はどこかおかしかった......。

(文中敬称略)

後編につづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

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