「生きてこられたのは運と縁があったから」話芸『かたり』を切り開いた山田雅人が振り返る“芸能人生”

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2024年03月02日 16:00  週刊女性PRIME

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タレント・山田雅人(63)

 スタンドマイク1本とイスが1脚だけのシンプルな舞台。スーツで登場した男は、ゆっくりと腰を下ろし、しばし目を閉じ、自らにゴーサインを出すように一瞬、姿勢を正してから、おもむろに口を開く。

 話芸『かたり』は、そんなふうに始まる。

山田雅人が切り開いてきた『かたり』

 効果音も映像もなく、共演者もいない。照明も動かない。ただあるのは言葉だけ。物語を伝える言葉が強弱と陰影をまとい放たれ、シンプルな舞台狭しと躍動し、映像が立ち上がる。

 芸能生活40周年を迎えた山田雅人が生み出し、切り開いてきた『かたり』。

 長嶋茂雄さんや野村克也さんといったスポーツ選手、美空ひばりさん、島倉千代子さん、高倉健さん、加山雄三さん、爆笑問題の太田光さんら芸能人、松下幸之助さんや本田宗一郎さんなどの経済人が、『かたり』の主役として屹立する。「僕が作った芸です。もがきながら作った芸です」と山田は思い入れを語る。

『かたり』が産声を上げたのは今から15年ほど前、2008年10月のことだった。

「ずっと逃げていたんです、それまで。僕には無理だと。漫談と架空競馬実況中継ネタで持ち時間15分の高座に上がっていた人間です。いきなりひとネタで40分、50分、1時間も語るなんて無理でしょ?」

 妻の山田美恵さん(58)も「若いころから好きなもの、ゴジラやオグリキャップ(競走馬)のことを語る熱量がすごくて、家族に聞かせるより、舞台でやったほうがいい、とは言っていました」と振り返る。

 23歳でデビューした芸能界。48歳でつかんだ『かたり』の世界。その誕生に迫る。

観客を前のめりにする伸縮自在の編集力

 昨年11月、『芸能生活40周年記念 山田雅人かたりの世界大阪公演』が行われ、年明け1月には東京公演が2daysで開かれた。

 山田が初めてキャスティングされたレギュラー番組は、『鶴瓶と花の女子大生』(関西テレビ)。司会を務めていた落語家の笑福亭鶴瓶(72)が、大阪公演にゲストとして駆けつけた。

 山田のネタは『WBC物語』と『藤山寛美とボク』。

「寛美さんのネタは、鶴瓶師匠がいなかったらできていません。『おまえが作れ。俺が何でもしてやる』と松竹新喜劇の人をみんな紹介してくれました」と山田が感謝すると「俺がそんなこと言った? この年になると忘れるんね、大概は」と鶴瓶。

「雅人はほんま、けったいなやつです。付き合い長いですけど。関テレでトイレ入って座って、出ていったら前におるんですよ。どうしておる?と聞いたら、いなかったら失礼かと思って。ずっと待っているほうが熱すぎるん。ほんま変わっている」と明かし、会場を爆笑させた。

 大阪公演の決定を聞き、東京公演のプロデュースを買って出たのは放送作家の高田文夫(75)だった。

「('23年は大好きな)タイガースが優勝して、東京と大阪で公演ができて、こんな華やかな40周年を迎えられて幸せすぎます」と言う山田を支え、東京公演を主催した株式会社ミックスゾーン取締役の橋内慎一氏(59)は、「山田さんのしゃべりに絶妙な編集力を感じます」と指摘する。その真意はこうだ。

「取材素材のどこを強調して使うか。山田流の編集がされている。例えば、阪神の岡田(彰布)監督のことをしゃべる際にも、早稲田入学も推薦じゃなくて勉強して実力で入った、と強調する。取材したネタを編集して語るのが絶妙です。」

 高田も「資料に裏打ちされているから、直したり、つなげたり、短くできたりする」と舌を巻く。「落語でも講談でも漫才でもない『かたり』。うまいところを見つけた」

 東京公演の初日のネタは『WBCからドジャースへ 大谷翔平物語』と『永六輔物語』。橋内氏が指摘する“編集力”が発揮されたのは2日目のこと。

 山田は『阪神タイガース 18年ぶりセ・リーグ制覇物語』と『阪神タイガース 38年ぶりのアレのアレ 日本シリーズ阪神対オリックス物語』を語ったが、その合間に、前日に明らかになった歌手の八代亜紀さんの訃報に触れ急きょ、『八代亜紀物語』を披露したのである。

 通常40分程度の物語を、約10分のダイジェスト版にまとめた。伸縮自在の編集力が、観客を前のめりにさせた。

一生頭が上がらない高田先生との出会い

 運と縁。

「それしかないです。何の実力もない男が芸能界で40年も生きてこられたのは、運と縁があったから」

 山田はそう謙遜し、こう続ける。

「山田洋次監督が『寅さん』に僕を起用して絞ってくれて、石井ふく子さんが『渡る世間は鬼ばかり』のレギュラーに声をかけてくださって全国に顔を売ってくれた。(放送作家でタレントの)永六輔さんが僕と2人会をやって、芸人としての幅を広げてくれた。どうです? 恐ろしいくらいの運と縁でしょう!」

 そんな山田が「特別な存在です」と挙げるのが「恩人筆頭、高田文夫先生です」。
『かたり』の誕生にも大きな影響を及ぼした高田だが、実は、山田の東京進出にも一枚かんでいる。

 大阪生まれ、大阪育ちの山田は、ライブハウスで歌を歌っていたところを松竹芸能に見いだされ、23歳で芸能界デビューを飾った。同じライブハウスには無名時代の河島英五さんや憂歌団も出演し、のちに歌で成功を収めることになる。山田も同じ道を目指していたが、売れる、と見込まれたのは歌ではなく、しゃべり。その見込みは的確で、松竹芸能は山田を関西の人気者に育て上げた。

 '89年、29歳のとき、『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』(フジテレビ系)のサブ司会に抜擢され、週末は上京する生活が始まった。高田との出会いはその少し前、27歳のころ。

「大阪で、掛布雅之、高田文夫、中井美穂と僕が出演するトークショーがありました。それが初対面ですね」と山田が記憶をひもとく。

「そのとき、『おまえ面白いじゃねえか、東京に来たら遊びにこいよ』と言ってもらった。ある日、雪で新幹線が止まって上岡さんが上京できずに、番組が飛んだことがありました。その日、高田先生がやっていた『高田“笑”学校』に、雪の中歩いて行ったたら、『よく来たな』と。そこからですよ」

 34歳のとき、松竹芸能の社長に「おまえ、東京行って、1人でやったらいいよ。役者もやったらいい」と後押しされ、役者担当のマネージャーと共に送り出された。そのときはまだ、大阪と東京を往復する暮らしを山田は思い描いていた。

「高田先生に連絡したら、『東京に住め。飯が食えなかったら食わせてやる。若いころの(ビート)たけしさんも、俺の家でご飯食ってたんだよ』って言ってくださって、車に家財道具を積み込んで、高速道路を走って夫婦と乳飲み子の娘の3人で上京しました」

 生活拠点を東京に構えることで、山田の中で中途半端な気持ちが消えた。「江戸の笑いは、上方の笑いと違うから俺が教えてやる」と、高田に目をかけてもらえたことが強みになった。

「話しっぷりも勢いがあって面白かったけど、何よりも“汚れ”じゃないところがよかった。芸人にはそれが大事だから」と言う高田は山田の身元引受人になり、江戸前の芸を叩き込むことになる。

 立川流家元・立川談志師匠の還暦祝いのパーティーで『架空競馬実況中継』を披露させたところ、家元にすっかり気に入られ、『談志ひとり会』にゲスト出演することになった。

「飯食い行こう」と高田に誘われて、東京・六本木の寿司店に行ったら、店の個室にいたのは、ビートたけしとたけし軍団。「山田が東京で頑張るから頼むよ、とたけしさんを紹介してくれたんです」と山田は、本当に自分を引き受けてくれた高田には、一生頭が上がらない。

大物たちの目に留まり俳優としても活躍

『かたり』を手に入れる前夜の山田は、心の片隅で、高田を慕う春風亭昇太や松村邦洋らに憧れ、漫談以外の芸を模索しつつも、タレント・俳優としての仕事も順調で、「漫談と架空競馬実況中継」という芸域にとどまっていた。

 俳優としての山田は、存在感を増していた。演じ手の原石に目をつけたのは巨匠、山田洋次監督(92)だった。

「松竹のプロデューサーから電話がきて、山田監督が脚本を書いている神楽坂の旅館に来てください、と。何で僕なんだろう、と思って、周りの方に聞いたら、テレビドラマを見た山田監督が『あいつには芝居心がある』と。スタッフ全員が『えええ!』とツッ込んだと聞きました」と言う山田の役は、寅さんの甥・諏訪満男(吉岡秀隆)の先輩。

「演技指導に泣きました。絞られて迷っていたら、渥美清さんが『あんちゃん、画面(=スクリーン)で光るよ』って。それで気分がパーッと晴れて、本番は一発オッケー。ド素人の僕をプロにしてくれたのは山田監督です。芝居の間を学びました。それが『かたり』にもつながっています」

『渡る世間は鬼ばかり』でレギュラー俳優に

 渥美清さんのひと言に救われ、映画『男はつらいよ 拝啓車寅次郎様』('94年)の画面で光った山田を、今度はTBSの名プロデューサー、石井ふく子が見逃さなかった。人気ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』に大抜擢。'97年から'07年まで10年間、山田はレギュラー俳優になった。

 ドラマの撮影現場でも山田は、『かたり』につながるエキスを吸収した。

「俳優の藤岡琢也さんのしゃべりの間、あれは僕の『かたり』の間です。出演した250話の台本をすべて記憶しましたから、脚本の書き方も自然と身についたんだと思います」と山田は種明かしをする。

 ちなみに『渡鬼』の脚本家、橋田壽賀子さんも山田の『かたり』の大ファンで、亡くなる直前、山田は電話をもらっていたという。

「私、あなたの舞台に行きたいけど、足が痛くて行けないの。コロナが終わったら、お家に来てやってちょうだい」

 橋田先生の最後の声が、今も山田の脳裏に響くという。

 俳優業の合間にも高座に出演し続けていた山田だったが、持ち時間は15分程度。

「怖いんですよ、マイク1本で1時間やるのは。15分の漫談で30年やってきた人間ですからね」と躊躇する山田の芸の根っこにまず着火したのは、落語家の立川志の輔(70)だった。

「高田先生がプロデュースする笠間寄席(茨城県笠間市)で、僕の漫談のあとに志の輔師匠が出た。マクラも含めて1時間、新作落語『親の顔』をやったんです。ぶっ飛びました。こんな芸があるのかと。高田先生が見せたかったんだと思います」

 志の輔に刺激を受けた山田を、さらに一押ししたのは高田だった。

「競馬の実況をされても、競馬がわかんないからさ、もっと野球とか相撲とかやったら、と宿題を出されました。稲尾和久が好きだから、3連敗の後に4連勝した西鉄の日本一を作れって」

 高田の指摘でネタは決まった。かくして、山田の奮闘が始まる。

東京で初めての独演会

 幸運にも山田は、稲尾さんと5年間、朝日放送『おはよう朝日です』のスポーツコーナーで共演していた。中学まで野球部に所属していた山田は、稲尾さんと食事をする際などに、野球界のことをあれこれと聞き、ネタを蓄積していた。ただし稲尾さんに釘を刺されていた。「俺のことは、俺が死ぬまでは話すなよ」

 '07年11月、稲尾さんは亡くなった。山田が『かたり』デビュー作となる『稲尾和久物語』を作ったのは'08年秋から暮れにかけて。『かたり』の晴れ舞台のために、高田の命を受け、会場のブッキングに奔走したのは、若き春風亭昇太(64)だった。

 '09年3月、東京・下北沢の劇場で開催された2days。

「『稲尾和久物語』と『江夏の21球』をやりました。2時間。大ウケでした」

 東京での初めての独演会。1人で2時間の長尺。

「終わったら楽屋に高田先生が来て『山田、おまえ、これで食っていける。俺が保証する。前だけ向いて行け。誰かが何か言ってきても、このままでいい。俺がハンコを押したから』。下北沢で泣きに泣きましたね」

 当時、その会場にいた人物がいる。元TBS局員で現在は宮崎放送の会長を務める牧巌氏(64)だ。

 芸の第一印象を「普通の人の芸じゃない」と受け止めた。

「頭の中を開けて、覗いてみたくなりますね、どうやって作っているのか。山田さんの『かたり』は、絵が見える。映像が浮かんでくるんです。落語ともまた違う芸で、もっともっと広まってほしい」とし、山田の芸には「性善説の笑いが横たわっている」と指摘する。

「お笑いはギャップの量で生まれるところがあって、そのギャップを悪口で作る芸が増えている。山田さんは悪口を言わずにギャップを作れるタイプ。ホッとしますよね」

 昨年11月から隔月開催で山田は、東京・四谷の劇場『ブルースクエア四谷』で『かたり』の勉強会を始めた。仕掛け人は牧氏だ。

「言葉で山田さんの芸をみなさんに説明しても、伝わりにくい。映像でもダメ。生で見ないとダメ。だからと思って、お手伝いしています。音もいい会場なので、山田さんに歌わせたかった。『かたり』と歌の会として根付かせたいですね」と、山田の芸の広がりに一肌脱ぐ。

『かたり』を生み出す独特の取材スタイル

 山田のネタ作りは、取材から始まる。『稲尾和久物語』や『永六輔物語』のように、山田が交流があった相手の場合は、記憶を『かたり』に落とし込めばいい。存命の人物なら、本人に会いに行く。物故者なら、周辺の人にアポを取る。取材と同時に、「中途半端な舞台はしませんから」と、上演の許可も願い出る。

「『沢村栄治物語』を作ったときは、娘さんに話を聞きました。三重県の母校に行ったり、恩師を探したり、墓参りに行ったり、ご本人が生きた空間を肌で感じるようにします。松下電器(現パナソニック)の松下幸之助さんの話はお孫さんに、ソニーの盛田昭夫さんは娘さんに、Hondaの本田宗一郎さんは右腕と呼ばれたナンバー2の方に協力していただきました」

 取材スタイルも独特だ。記者のようにICレコーダーを回したり、動画を撮ったりしない。メモだけ。気になったことを箇条書きにするが、基本は頭にインプットする。

 材料集めが済んだら執筆。1席あたりの分量は、400字詰め原稿用紙で30〜40枚。最初にしゃべりたい内容を箇条書きにし、それを肉付けしていく。一切声に出さず、ただ黙々と書く。数か月単位の創作作業だ。

 毎朝6時半に起きる山田は、外出する仕事がなければ、午後3時までを執筆に当てる。原動力は、どんな状況でも必ずとる3食の食事。

「朝7時、昼12時、午後6時。1年365日、決まった時間にきちんとごはんを食べます。不規則になると、僕のために働いてくれている胃腸がかわいそうでしょ。仕事の移動中でもパンを口にします」

 と言う、きまじめなこだわり。睡眠時間も1日6〜7時間は必ず。健康体に裏打ちされ、山田は原稿用紙へ、手書きで向かう。

「完成してから初めて、声に出して覚える作業に入ります。1時間のネタを覚えるのは大変です。覚えるというか、身体に入れる、身体に染み込ませる感じですね。頭の中でしゃべる感じで、声には出しません。声に出したらそれだけで精根尽き果てるので、何度もお稽古できないんです」

 本番の前のリハーサルもしない。マイクチェックだけ。原稿をなぞるのではなく、全部原稿を忘れて、あたかもその場で言葉が生まれている感覚を、聞く者に届ける。リハーサルをしない理由を山田は、「脳が飽きちゃうんです。そうすると、自分で感動しながらしゃべれない。原稿どおりにやろうとすると、1か所でも順番が逆になると飛んじゃうんです。常にぶっつけ本番の心持ちです」

 芸能生活40周年の東京公演を仕切った前出・橋内氏は「前説も自分でやる。照明も明るいままなので、照明さんもやることがない(笑)。イスの位置とかマイクの位置とか、リバーブの反響を確認する程度」と、手のかからない出演者だったと振り返る。
『かたり』に苦労をにじませることを、山田は避ける。そこには立川談志師匠に言われたひと言が生きている。

「暮れに落語の『芝浜』を聞いたことがあるんです。万雷の拍手ですよ。終わったあと、師匠が僕に『楽そうに見えるだろう』って。こっちは返事できないでしょう。ハイとも言えない。戸惑っていたら、師匠が『楽そうに見せるのが仕事なんだよ』。あれはしびれましたね」

長嶋終身名誉監督を1時間質問攻めに

 これまで作った『かたり』は、127本。コロナ禍の前までは、年間80席ほどを全国各地で上演していた。

 一度だけ、たった1人の前で語ったことがある。

 場所は、東京高級住宅地に建つ大邸宅の大リビング。目の前にはあの、長嶋茂雄読売ジャイアンツ終身名誉監督。今は山田の持ちネタになっている「長嶋天覧試合本塁打」をいずれやりたいと、山田は長年考えていた。ホームランを打たれたピッチャー、村山実さん('98年没)とはテレビ番組で共演していた間柄で、話は聞いていた。「あとは長嶋さんだ」。そう考えた山田は、旧知の元巨人軍監督の中畑清に仲介を頼んだ。

「何年も待ちましたが、やっとご自宅に伺うことができて、村山さんから見た『天覧試合』を生で聞いてもらったんです。終わったら、パッと立ち上がってひと言『うん、ベリー・グー!』。本当に英語だったんですよ」

 何でも聞いて、と言う長嶋終身名誉監督のゴーサインで、1時間みっちり質問攻めに。巨人軍の上演許可もその場で取ってくれたという。

「長嶋さんの誕生パーティーに、何度かゲストとして呼んでもらいました。1時間の尺の『長嶋茂雄物語』を30分の短縮バージョンでしゃべりました。持ち時間はその場で言われますので、その場で尺を短くします」

 “編集力”が、こんなときにものをいう。

 ある日、会場で、元大リーガーの松井秀喜氏の姿を見つけた。山田は近寄り「作っていいですか?」と速攻で許可取り。「僕が、ホームランを打てる球だけを待っている、とか話すと自慢話になっちゃうから、山田さん、ぜひしゃべってください」。それが松井氏の二つ返事だったという。

死後初めて語った母親の介護

 大阪公演、東京公演で大成功を収めた『かたりの世界』。その最中、昨年12月16日に山田は、最愛の母を見送った。

「8年間、介護したんです。90歳でした。ずっと認知症でした」

 と、母親の死後初めて、山田が詳細を語り始める。

 それまでも山田は、大阪で仕事があると、必ず母の元に寝泊まりしていた。

「ある日、冷蔵庫を開けたら、同じプリンが20個ぐらい入っていて、当時の僕は何の知識もないので、怒ってしまったんです。でも本人は、買ったことを忘れているんです」

「お母さん、おかしい」と気づいたのは妻の美恵さんだった。

「うちの犬を母に託していたんですけど、大阪に行くたびに痩せていて、ごはんをすごくねだってくる。認知症だとペットにごはんを食べさせたか忘れちゃうんです」

 それから夫婦で、ミニシアターで上映されることが多い介護関連のドキュメンタリー映画を見まくった。

「映像にはどこか笑えるシーンがあるので、介護をしんどく受け止めすぎないために、映画は役立ちました」と、美恵さんは自分たちの取り組みを振り返る。

 ABCラジオ『ドッキリ!ハッキリ!三代澤康司です』(月〜木、朝9時〜12時)の火曜レギュラーを務めていたことも、山田にはプラスに働いた。毎週火曜日に生放送があるため、大阪に行かなければならないからだ。

「月曜日の夕方、大阪に帰ります。夕方5時に施設から帰ってくる母を出迎えて、おむつを替えて、脚が弱らないように散歩に出かけます。で、公園のベンチで、2人で歌うんです」

 母が若いころに好きだった歌や童謡。『リンゴの唄』や『青い山脈』『ふるさと』『赤とんぼ』などをYouTubeに流れる歌詞を見ながら、母と息子は、日が暮れるまで歌った。まるで映画のシーンのような時間を通し、2人は距離を縮める。

楽しい介護を探し奮闘

 山田は施設の人に介護の質問をぶつけたり、介護している人の集まりにも参加し意見交換し、楽しい介護を探し出そうと奮闘努力した。その結果、たどり着いたのは「介護される人は介護する人を選ぶ」ということ。介護前は「おかあちゃん」と呼んでいたが、介護中は「早苗さん」と呼びかけた。数秒に一度「雅人だよ」と呼びかけ記憶を刺激し続けたが、早苗さんは絶妙な間で「うるさい!」。笑いの間も改めて学んだという。

「認知症ですぐ忘れちゃうけど、心は赤ちゃんなんです。子どもと同じ。夜、徘徊させないために、どうやって疲れさせて眠らせたらいいのか、作戦を練るわけです。よく映画館に行きました。手をつないで、おむつを持って電車に乗って。映画館で2時間。その間、僕が眠れるんです。よくトム・クルーズのアクション映画を見ました。セリフがなくても楽しめるでしょう。映画館を出るとき『よく走っているな』と感心していました。トムは偉大ですよ!」

 それから志村けんさんも!と山田は続ける。

「BSで志村けんさんのコントの再放送をやっていたんです。それに笑うんです。伏線があって、それを回収する笑いじゃなくて、その場で笑わせるのが志村さんの笑い。認知症患者に伏線は通じないんです。改めてすごいなと思いました」

 別れのときは毎週水曜日。午前7時半にごはんを食べて、午前9時にデイサービスに送り出してから、山田は東京に戻る。

 8年間の介護について山田は「何の悔いもない。涙もない。やり切った」と満足そうな笑顔を見せる。それまで家事全般は妻・美恵さんに任せっきりだったが、

「洗濯も全部自分でできるようになりました。結婚してから足を運んだことがなかったスーパーにも行って、レタスはいくらか、という値段も気になるようになった。施設の人に『介護は最後の子育て』と言われましたが、まさにそんな感じでした。幸せな8年でした。僕にも母にも」

 母を見送り、山田の大阪滞在時間は減った。今もまだ、大阪の芸人のイメージで見られることが多いが、東京暮らしはすでに32年。芸能生活40周年のほとんどが、東京を拠点とした活動だ。

 俳優もやった。タレントもやった。『かたり』も生み出した山田は「いつ死んでもいいと思っています。1回1回の舞台があれば、それがうれしい」と充実感を明かす。妻の美恵さんも「見送る準備はできています。ハハハ」と明るい。「これだけ好きなことをして、みんなに応援していただいて、山田雅人という人生を楽しんでいると思うので」

 とはいえ、自らがこしらえた話芸『かたり』に関する欲だけはチラリと覗かせる。

「今、『横田慎太郎物語』(夭折した阪神タイガースの選手)を作り直しています。掛布雅之さんに取材もできたので、その情報を加えて、新しい物語にしています。母の介護に関しても、早いうちに『山田早苗物語』として完成させて、親を介護している人たちに、介護の楽しさを伝えたいですね」

 3月26日には、大阪・サンケイホールブリーゼで『山田雅人かたりの世界 開幕戦を前に伝統の一戦 阪神巨人戦を語ります』を開催する。

「僕の語り『天覧試合』とか『江川対掛布物語』に、ゲストは漫才師のオール阪神・巨人師匠です。名勝負の語りと漫才で楽しんでいただけます」

 とアピールした後、ニコッと笑顔でこう付け加えた。

「60代の自分が楽しみです。70歳になったときに『かたり』がどう変貌しているのか。寧久さん(=筆者)も長生きして、見てくださいね」

<取材・文/渡邉寧久>

わたなべ・ねいきゅう 演芸評論家兼エンタメライター。『夕刊フジ』、『東京新聞』等にコラム連載中。文化庁芸術選奨、『浅草芸能大賞』選考委員等歴任。『江戸まち たいとう芸楽祭(名誉顧問ビートたけし)』実行委員長。

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