「重度の障がい者でも稼げる場所を」年商18億円・チョコレート会社の社長が語る“根底”にあった怒り

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2024年03月09日 16:00  週刊女性PRIME

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久遠チョコレート代表・夏目浩次(46)さん 撮影/齋藤周造

 ちょっと変わったタイトルのドキュメンタリー映画がある。2023年に劇場公開された『チョコレートな人々』(東海テレビ製作)。公開以降、感動の輪が広がり、今も全国で自主上映が続いている。

映画に登場する「久遠チョコレート」

 映画に登場する「久遠チョコレート」は'14年に創業し、現在の年商は18億円。北海道から九州まで全国で40店舗(製造のみの拠点を含めると60か所)を構える。看板商品「QUONテリーヌ」のフレーバーはなんと150種類以上! おいしくて、選ぶ楽しさもあり大人気だ。

 同社がユニークなのは約700人の従業員のうち、6割以上の約430人が障害者手帳を所持。子育て中・介護中の女性、ひきこもり経験者、性的少数者なども積極的に雇用していることだ。

 就職先を見つけることさえ困難が多そうな人たちが大ヒット商品を作っている。しかも、みんなとても楽しそうに働いているのが印象的だ。

「チョコレートは失敗しても温めればまた作り直せる」

 こんなナレーションが映画の中で何度も流れる。失敗を許されることが働きやすさにもつながっているのだろう。「人生もやり直せる」と応援されているみたいで、胸が熱くなる。

「すごいですね」

 思わずそんな感想をもらすと、久遠チョコレート代表の夏目浩次さん(46)はやんわり否定する。

「僕は別に社会貢献とか、小難しいことを考えてやっているわけじゃない。ただ、社会が忘れていることを大事にしたいだけなんですよ。下を向いている人がいたら、ちゃんと寄り添っていくとか、困っていたら放っておかないとか。そんな単純なことしか考えていないんですよね」

 映画で描かれるのは夏目さんが26歳で起業後、試行錯誤を繰り返し、やがて久遠チョコレートを設立し、大きくするまでの20年間。何度も失敗して借金まみれになるが、夏目さんは決してあきらめない。その根底にあるのは「怒り」ではないか。そう聞くと夏目さんは少し考えてこう答えた。

「経営者の集まりで『夏目君は素晴らしいことをしてるね』みたいに言われると腹が立ちます。そんな人ごとみたいな感想を言ってないで、自分ごととして考えてくれよって。特定の人だけ極端に働く場所がないとか、経済人として恥ずかしいと思おうぜって。そういう意味では怒りがあるかもしれないですね」

 夏目さんの覚悟がわかるのは、例えば従業員を雇うときだ。面接の40分間、ずっと下を向いたまま、何を聞いてもか細い声で「すみません」としか言わない30代男性がいたが、採用したそうだ。

「履歴書を見るとコンビニを何十店も渡り歩いていたので、たぶん相当いろんな罵倒を受けて、自信がなくなっていたんでしょう。でも、何か自分を変えたくて来ているんだな、うちで働きたいんだなという切々とした思いは、すごく感じたんです。人と本気で向き合うと、伝わるものってあるんですよ。だから、『採用!』って(笑)。やっぱ、放っておけんのですよ」

特別なノウハウがあるわけじゃない

 夏目さんたちの支援を受けて男性が病院を受診すると、発達障害と診断され、障害者手帳も取れた。障がいの特性もありコミュニケーションが苦手だったが、だんだん胸を張って、「いらっしゃいませ!」と大きな声を出せるようになったという。

「うちに何か特別なノウハウがあるわけじゃないですよ。ちゃんとその人の話を聞いて寄り添うくらいで」

 転職を繰り返してきた人もいる。その人は従業員同士でいざこざがあると、たとえ自分は何もしていなくても「自分が悪い」と思い込み、そのたびに辞めていたそうだ。そこで夏目さんは「極端に自己否定しないことが採用の条件」と話し、同僚にその人の状況を伝えた。周囲の理解もあり、3年たった今ではフルタイムで働いている。

「ここだったら働けるんじゃないか」「ここだったらわかってもらえるんじゃないか」

 そんな切実な思いを抱いた人からの問い合わせが引きも切らない。障がいの有無にかかわらず時給は愛知県の最低賃金1027円を保証しており、ハローワークに求人を出すと200人を超える応募がある。

「でも、うちも限界があるので、出会った順になっちゃう。だから会社をもっと大きくしなきゃいけないと思っているんですよ。今は、ようやくスタート地点に立ったかなという感じですね」

ぬれぎぬを着せられてクビを切られた父

 夏目さんは愛知県豊橋市の生まれ。両親と3歳上の兄がいる。父は中学を卒業すると地元選出の国会議員の秘書になり、一家を支えていた。

 夏目さんが3歳のとき、事件が起こる。ある日突然、「事務所のお金を使い込んだ」とぬれぎぬを着せられて、クビを切られたのだ。

「親父は潔白ですよ。でも豊橋は小さい町なんで、うわさはバーッと広まっちゃうし、保育園でも先生たちがいろいろ話しているのが、子どもながらにわかるんですよ。で、僕は毎日保育園で吐いていたんです。ストレス反応だったんでしょうね」

 困窮した一家を助けてくれたのは近所の人たちだった。ご飯やおかずを毎日のように差し入れてくれたのだ。

 その後、父親は市議会議員に立候補する。2回目の挑戦で初当選し、6期24年議員を務め、旭日小綬章を受章した。

 受章の後、普段は寡黙な父親が初めて過去のことを詳しく話してくれた。久遠チョコレートを立ち上げる前だ。

「やっぱり世の中はまず強い者の声を聞く。でも、必ず声なき声はあるし、弱い者の声にちゃんと耳を傾けろって。僕にとっては原体験といえるかもしれないですね」

 子どものころの夏目さんは負けず嫌いな反面、飽きっぽく何をやっても中途半端。せがんで買ってもらった教材なども長続きせず、ずっとコンプレックスだったという。

「だから、自分が20年間、こうやって雇用の場をつくろうと、ひとつのことをやり続けていることに自分が一番びっくりしています(笑)」

障がい者のいじめに加担した過去も

 障がい者のために奔走する今の夏目さんからは意外なのだが、実は過去、いじめに加担したことがある。小学2年生のときクラスにダウン症の男児がいて、帰り道に犬の糞を踏ませたり、からかったりしていたそうだ。

「その子が給食をこぼしたり歩き回ったりすると先生がすごく叱っていたんですね。ダメダメって。だから僕らも彼はダメな子なんだと思って、みんなでいじめていた。それは強烈に後悔しています」

 中学校で野球部に入部。厳しい部活だったので、高校では楽な部活にしようとテニス部を選んだ。

「でも、高校で一番厳しい部活だった(笑)。しごきも体験したけど、やめませんでしたね。そこは負けず嫌いが発動したんじゃないかな」

 大学では都市計画を専攻。バリアフリーに興味を持ち、3年生のとき土木工学に転部。大学卒業後は豊橋の信用金庫に就職した。父親の後を継ごうと、地域密着の仕事を選んだはずだったが、1年もたたずに自ら退職─。

合理的な理由もなく女性行員を怒鳴りつける課長がいて、僕が言い返したんですよ。そうしたら支店長に呼ばれて、上司に向かってなんて口のきき方だと言われたんで、支店長とケンカしちゃって(笑)。父親のこともあったし、理不尽を押しつけられるとすぐ反発しちゃうんですよ。

 それで行き場をなくして大学院に行ったんです。なんか一貫性がなくて、ハチャメチャですね(笑)

 土木コンサルタント会社と一緒に駅のバリアフリー化の研究を進めたが、そこで直面したのは、また別な現実。夏目さんが誰でも使いやすい場所にエレベーターを設置しようと提案すると「コストを優先しろ、“仕方ない”を覚えろ」と怒られた。せめて障がい者目線に立とうと施設での聞き取りを行ったところ、障がい者の多くは、自宅と福祉関連の作業所の往復だけで生活しており、バリアフリーのターミナル駅を利用する機会がほとんどないという事実を知る……。

障がい者雇用の厳しさと悔しいひと言

 モヤモヤした思いを抱えているときに読んだのが『小倉昌男の福祉革命―障害者「月給1万円」からの脱出』という本だ。小倉さんはヤマト運輸の創業者で、引退後に経営の力で障がい者の現状を変えようと、「スワンベーカリー」というパン屋を立ち上げた経緯が書かれている。

 夏目さんが地元の福祉施設を回ってみると月給1万円はいいほうで、3千〜4千円で働く重度の障がい者もいた。

「衝撃でした。障がいという属性がついた途端に職業の選択肢がなくなって、月給が1万円でも仕方ないなんて、単純におかしいですよね」

 夏目さんは大学院を中退して自分で起業しようと、小倉さんに「自分もスワンベーカリーをやりたい」と手紙を何通も送った。

 半年後、熱意にほだされたのか、面会が実現する。名刺交換の直前、小倉さんに「君の母体は何だ?」と聞かれた。

「僕1人です」

 夏目さんがそう答えると、小倉さんは手にした自分の名刺をサッとしまう。

「帰りなさい」

 そう命じられ、面会はわずか数秒で終わった。

「瞬間、すんごい頭が真っ白になりましたよ。でも、それで、絶対やってやるとスイッチが入った。だから小倉さんには感謝してます。商売はそんな甘いもんじゃないって、教えてくれたんだと思うし、もし、あのとき中途半端にやさしい言葉をかけられていたら、途中でやめてたかもしれない。その後、借金まみれになっていくんですけど、絶対やってやると思い続けられたのは、あの『帰りなさい』のおかげじゃないかな」

 すぐに事業計画書を作成。会社四季報に載っている製パン会社や地元の小さなパン屋を回って協力をお願いしたが、苦戦が続いた。

「何でおまえに技術を教えないかんの?」

 冷たくあしらわれ、目の前で計画書を捨てられたことも。

「ここがダメなら、もうあきらめようか」

 約20社から断られ、最後の望みをかけて「Pasco」で知られる敷島製パンの工場を訪ねると突然道が開ける。課長が話を聞いてくれ、なんと使っていない器具や備品を期限付きで貸与。OBを派遣して使い方も教えてくれることになったのだ。

妻に支えられた“借金と荒れた日々”

「花園パン工房ラ・バルカ」を開業したのは'03年、26歳のときだ。信金から800万円借りて3人の知的障害者を含む5人のスタッフを雇用。夢の実現に向けてスタートしたのだが、最初からトラブルが続く─。

「菓子パン、惣菜パン、食パンとか全部作り方が違うからマルチタスクを求められる。そこで誰かがパニックになると、発酵オーバーになったり、パンが焦げちゃったり。失敗すると全部ロスになっちゃうんですよね。しかもパンの売値は1個150〜200円。利益率も低いのに、僕は愛知県の最低賃金を絶対払い続けると決めていたので、経営は大変でした」

 最初の借り入れの返済もできず追加融資は受けられない。貯金も底をつき、ピンチのたびにカードローンで限度額まで借りた。借金はたちまち膨れ上がり、最大7社からトータル1000万円以上に。利息は高く、返しても返しても、借金は減らない。

「先が見えないじゃないですか。不安で不安でたまらんかったですね……。精神的にもかなり追い込まれていたんでしょう。実は、街で暴れて、ちょっとだけ警察にやっかいになったことがあって(笑)。自動販売機の横のゴミ箱をしらふでバンバン蹴っちゃって。で、捕まって、まあ頭冷やしていけって(笑)」

 どん底で、もがく夏目さんを支えてくれたのは、妻の亜矢子さん(46)だ。信金の元同僚で、夏目さんが起業すると信金を辞めてパン屋を手伝うように。毎日深夜3時からパン作りに追われ、結婚式を挙げる余裕もなく婚姻届だけ出したのだが、夏目さんの両親が見かねて結婚指輪を買ってきてくれたという。

 ある日、夏目さんはイラついて翌日の仕込み用に計量してあった小麦粉と砂糖をバーンとひっくり返すと、そのまま帰ってしまった。粉まみれの室内を何も言わずに片づけて、計量し直してくれたのは亜矢子さんだ。

「なんかもう、感謝とかそういうありきたりな言葉ではくくれないですね。彼女がいなかったら、ヤバいな俺、と思っています」

 そのときの様子を亜矢子さんに聞くと、「あんまり覚えていないんですよね(笑)。聞かれるまで忘れてたくらいで」と穏やかに笑う。

 驚いたのは、借金を重ねていく夫に対して、怒ったり、反対したことが一度もないということだ。どうしてそんな対応ができたのかと聞くと、亜矢子さんは「止めようがなかった」とあっさり言う。

「もう自分の中で決めているから、止めても無駄だよなというのはありました。いつも後から報告してきたりで(笑)。だから、『まあ、いっか』って感じで、私もあまり深く考えなかったですね」

 熱い夏目さんと対照的にドライな性格だという亜矢子さん。何が起きても動じず、受け止めてくれた妻の存在なくして、今の夏目さんはなかったに違いない。

 ゆっくりとではあるが皆が成長して、パンもうまく焼けるようになってきたとき、メロンパンが売れ出す。夏目さんは再び借金をして、ボロボロのハイエースを買い、移動販売車を自ら作った。

「メロンパンはよく売れましたね。大きく経営が変わったわけじゃないけど、ダーッと垂れ流していた赤字がグッと止まって、なんとか次の展開ができたんですね」

 その後、社会福祉法人を設立して、とんかつ屋など飲食店とコラボしたり、カフェを始めるなど新しいビジネスに次々取り組んだ。だが、うまく回るところまでは、なかなかたどり着かない。

偶然の出会い、その後も山あり谷ありの日々

 チョコレートとの出合いは偶然だった。夏目さんは突破口を探して異業種交流会にたびたび出席。そこで知人から紹介されたのが、トップショコラティエの野口和男さん(69)だ。

「すんごいチャラそうな人でした(笑)。野口さんがチョコレートは科学でできる。正しい材料を正しく使えば、誰でもうまいチョコを作れるぞとチャラそうに言うから、絶対、嘘だと思った(笑)。ただ、なんか惹きつけられて、彼の車の助手席に無理やり乗り込んで、自分がやってきたことを熱弁したんですね」

 野口さんはもともとチョコレート製造の機械を作っていたエンジニア。40代半ばから独学でチョコレート作りを学んだという異色のショコラティエだ。野口さんは夏目さんとの出会いをこう振り返る。

「俺、人相が悪いでしょ。よく言われるの、上から圧をガンガンかける威圧系だって(笑)。しかも当時乗ってた『ロータス』ってスポーツカーは棺桶みたいな車なんだよ。乗り降りするのも大変だから、彼にしたら車に乗るのも覚悟がいったと思うけどさ。

 夏目さんはあの屈託のない子どもみたいな笑顔で延々と言ったんだ。障がい者のために役に立ちたいって。志が純粋だよね。それで苦節10年だよ。俺もチョコレートに対して真剣に生きてきたから、嘘がない人間同士ってのは共鳴できるんだよ」(野口さん)

 野口さんの厨房を訪ねると近隣の日本語学校に通う外国人が大勢、アルバイトで働いていた。国籍も言語も違う人々が手作業でさまざまな国のカカオを溶かして固めていく。その様子を見た瞬間、夏目さんは「これだ!」と確信する。

「単純な、溶かして固める手作業の繰り返しだし、失敗したらまたやり直してるし。それで利益率は高いし、保存もきく。すぐにいろんな人が働く姿が想像できたんですね」

 '14年に「久遠チョコレート」を設立。野口さんの指導のもと、看板商品の「QUONテリーヌ」が生まれた。こだわったのはカカオバター以外の油脂を加えないこと。純度の高いピュアチョコレートに茶葉のパウダーや刻んだドライフルーツ、ナッツなどを混ぜ込んである。風味が落ちるのを防ぐためチョコを温め直すのは2回までと決めた。

 作業工程はそれぞれの特性に合わせて振り分けた。黙々とやることが好きな人はすべてを1人でこなし、2人でペアになって効率よく作業する人もいれば、手先が器用で最後の飾りつけを担当する人もいる。

「障がい者だけじゃなくて、そもそも人は誰もが凸凹や個人差があるので、それをどうやったら生かせるか。パズルを組み合わせるように考えています」

 ある日、売り上げ約1000万円の大口の注文が入る。だが、納品まで10日を切った時点で、残りいくつ作ればいいか誰も把握していないことがわかった。生産管理を担う人がいなかったことが原因だ。販売スタッフも工場に駆けつけ夜を徹して作業を続けたが、梱包が間に合わず外部の会社に依頼。結果、1000万円の赤字に……。

 百貨店のバレンタイン催事に出店したときは、1か月近く陳列棚が空っぽになる大失態も犯した。想像以上に売れ行きがよくて製造が追いつかなかったのだ。

「ほんとに毎回毎回、そんな繰り返しですから、へこみますよ。ストレスで口内炎はすぐできるし、起きたくない朝はいっぱいあるし。でも、年取るのって早くないですか? 僕、今年で47歳ですよ。ついこの間、高校を出たと思ったのに。やっぱ一生は短いんだなと思って、頭を切り替えるようにしています」

重度の障がい者も雇用できる体制を

 創業から7年が過ぎた'21年に新たな工場が完成した。きっかけはSNSなどで寄せられた批判の声だ。

《久遠チョコレート、軽度な人しか働いてない》

 それで夏目さんの闘争心に火がつく。重度の障がい者でも稼げる場所をと考えてつくったのが「パウダーラボ」だ。

「みんな最初はじっとしていることすらできなくて、あちこち自由に行っちゃう。重い知的障がいで言葉をほとんど話せない人もいます。どうしたら彼らと一緒に働いていけるかと逆転の発想で考えて、チョコレートに混ぜる素材を粉砕する作業をやってもらったら、バチッとハマって。何時間でもやり続けてくれたんですね。たぶん自分が必要とされていると、感じてくれたんだと思います」

 それまで粉砕は2000万円かけて外部に依頼していたのだが、小ロットでは機械を回してくれないのが悩みだった。手作業なら、どんな素材でも少量ずつ粉砕できる。しかも石臼でひいた茶葉は香りが損なわれず、商品の幅が一気に増えた。

 ところが、思わぬところでつまずく。作業中にチック症の発作が出て床をドンドン踏み鳴らしてしまう男性がいて、階下の住人から苦情が来たのだ。夏目さんは男性がどんなに音を立ててもいいように、1階の物件を借りて2軒目のラボをつくった。

「彼に辞めてもらう選択肢はまったくなかったですね。経費が800万円かかってビビりましたけど(笑)、外注率は下がったので、結果的に会社は強くなりました」

 ラボで働く人の時給は500円前後。1日5時間働くと月給は約5万円だ。それまで福祉作業所で月給3千〜4千円で働いていた人が多いので、「十分すごい」と称賛されるが、夏目さんは「あと500円、努力が足りない」と満足していない。

 久遠チョコレートがユニークな点は他にもある。全国にある店舗のほとんどはフランチャイズ店で、直営店である豊橋本店ができたのは5店舗目だ。店で販売する商品の6割を各店舗で製造し、4割は本社工場から送る仕組みになっている。

 全国の福祉法人や企業などから出店したいという申し出は月に何十件も来るが、出店までこぎつけるのは年に5〜8店。1年間かけてとことん話し合い、共鳴できた相手とだけ組むからだ。

「チョコレートを通じて何をしたいのか。そこに明確で、かつ太い使命があるかを大事にしています」

目標は名実ともに一流になること

 例えば、名古屋にある店舗では2階に医療的ケア児を預かるデイサービスをつくり、その子どもたちの母親が店で働いている。

 阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた神戸市長田区にも店ができた。お年寄りや働く母親を支援する会社の「シャッター街になった街を元気にしたい」という思いに応えたのだ。

 大阪の高級歓楽街である北新地には子どもの貧困を支援する団体が店を構えている。

「北新地の店には座って2万、3万円の世界がある。そっちでたくさんチョコを売って、車で15分のところにある母子家庭の多いエリアに利益を流したいと言われて(笑)。利益は大事ですよ。利益がなかったら継続しないから」

 久遠チョコレートの名前が知られるにつれ、夏目さんもメディアに取り上げられる機会が増えてきた。今年の1月には『カンブリア宮殿』(テレビ東京系)に出演。2月には失敗続きの半生をつづった初の著書『温めれば、何度だってやり直せる チョコレートが変える「働く」と「稼ぐ」の未来』(講談社)が出版された。

 今後の目標は名実ともに一流になることだ。

「“150ブランドが集まるチョコの祭典で1位になる”とか言うと、まだ鼻で笑われますが(笑)。でも、僕が50歳になる4年後には上場したいと本気で思っています。別にお金とか名誉が欲しいわけじゃないですよ。うちが上場したら、僕たちが目指していることが、わかりやすく伝わるんじゃないかなと」

 夏目さんの師匠である野口さんは、それも実現可能だと言い切る。

「久遠は応援してくれる人がいっぱいいるし、作っている人の顔が見れるんだもん。久遠がダメになるようなら日本は終わるよ」

 久遠チョコレートの「久遠」は日本古来の言葉で「脈々と続く」という意味がある。ずっと長く続いていくブランドであってほしいという願いを込めて夏目さんが命名した。

「過去を振り返ったとき、障がいがあるというだけで働き場所が全然ない、アホみたいな時代があったねと言えるようになるといいなと思って」

 久遠チョコレートの後に続く会社が次々現れて、夏目さんが願う未来が実現したら─、誰もが生きやすくなるに違いない。

<取材・文/萩原絹代>

はぎわら・きぬよ 大学卒業後、週刊誌記者を経て、フリーライターに。社会問題などをテーマに雑誌に寄稿。集英社オンラインにてルポ「ひきこもりからの脱出」を掲載中。著書に『死ぬまで一人』(講談社)がある。

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