前任校では「結果を出せていない」と解任、新任高では部員5人からのスタート...別海高校のコンビニ副店長監督が果たした甲子園出場

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2024年03月17日 17:41  webスポルティーバ

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別海高校〜甲子園初出場までの軌跡(1)

 島影隆啓はいつもと変わらず朝3時に起床して素早く身支度を整え、自宅から数百メートルの場所にあるコンビニエンスストアへ向かった。父親がオーナーの店舗では副店長を務め、4時過ぎからホットスナックの準備やおにぎりの仕込みに取りかかる。

 ただ、1月26日は上の空だった。

「おにぎりの具材を間違えると大変なことになりますからね。仕事は集中しましたよ」

【酪農の町から初の甲子園】

 島影の地元、北海道東部に位置する別海町は固唾を飲んで吉報を待っていた。別海高校野球部の監督でもある島影は、今年のセンバツで21世紀枠候補に選ばれている同校の行く末を前日までは「選ばれなくても、今回は縁がなかっただけ」と、冷静に受け止める腹づもりでいた。それが当日の朝になると、急に緊張が襲ってきたのだと苦笑する。

「もう、今まで感じたことのないドキドキ感というか、ずっとソワソワしていました」

 8時前にコンビニでの業務に一区切りをつけて帰宅すると、自宅で商品の発注や子どもの世話をしたのち少しの休憩をはさんで、15時過ぎに学校へと向かう。本当ならば16人の選手と3人のマネージャー、そして生徒や教員ら学校関係者たちと体育館でセンバツ出場校の発表を待つはずだったが、「これまで苦労をかけたから」と自家用車内で家族と運命の瞬間を祈った。

「ほっ----」

 センバツの選考委員が「北海道」と言い切る前に、島影の体は反射的に歓喜に溢れる。同時に涙腺が緩み出し、今にも泣きだしそうではあったが、妻が「これから記者会見があるんだから泣いちゃだめだよ」とたしなめてくれ、平静を取り戻すことができた。

 車から降り、野球部員たちが待つ体育館へゆっくりと歩を進める。その途中で馴染みの顔があった。つき合いの長いスポーツ用品店の店長が、顔をくしゃくしゃにしながら島影を待っていてくれていたのである。

 もう、ダメだった。店長と熱い抱擁を交わしながら、島影は大粒の涙を流していた。

「妻から言われていたのに結局、泣いて。駐車場で大号泣でした」

 その頃、体育館も喜びに満ちていた。

 人口約1万4000人の8倍もの乳牛を育てる、「生乳生産量日本一」の酪農の町。それまで陽の目を浴びることのなかった地元高校の野球部が、春夏通じて初めての甲子園出場を決めたのである。それは、島影にとっても、高校野球の監督として"三度目の正直"での悲願達成でもあった。

【「もう二度と、野球に携わらない」】

 島影が指導者としてのキャリアをスタートさせたのは、母校の武修館からだった。恩師の種市裕友に誘われ2007年にコーチとなり、翌年から監督となった。それまでのバントや盗塁といった小技を中心とした野球から、エンドランや強攻と果敢な野球を取り入れるなどチームに変革をもたらし、08年と10年にセンバツの21世紀枠候補に選ばれたチームは、着実に力を高めていく。

 だが、甲子園まではあと一歩届かなかった。

 10年の夏に北北海道大会準優勝のチームでセカンドのレギュラーだった大友孝仁が、申し訳なさそうに嘆く。

「あそこで自分たちが甲子園に行っていれば、監督はまだ武修館にいたかもしれないって気持ちがあって......。きっかけをつくってしまった代なんだって思っていますから」

 14年3月、島影は学校から「結果を出せていない」と、一方的に監督を退任させられたのである。奇しくも同年夏、島影が下地を築いたチームは初の甲子園を決めた。翌日、自分が勤務するコンビニに<武修館 甲子園初出場>の見出しが躍るスポーツ紙を並べていると、虚しさと悲しさがこみ上げてきた。

「もう二度と、野球に携わらない」

 一度はそう決めていたが、自身が野球少年時代から知る地元の知り合いから、半ば強引に誘われる形で少年野球チームを教えることとなった。これが、のちに別海の監督となるきっかけとなったのだという。

「このチームが2年目に全道大会に初めて出て、町役場に訪問したんです。そこで教育長から『別海高校で監督をやる気はありませんか?』と言われて。わからないもんですね。あの時、少年野球の指導者を断っていたら監督のお話はなかったわけですから」

【部員5人からのスタート】

 別海の監督就任を打診された15年、野球部は危機的状況にあった。

 選手は秋の時点で2年生2人と1年生2人の計4人。単独で公式戦に出場できず、5校による連合チームで戦った。新チームでキャプテンとなった白鳥雄治は、別海野球部の存続の危うさを感じとっていた。

「『来年、どうなるんだ?』って。だから、部員の勧誘を必死でやりましたよ。『未経験でもいいから』って知っている中学生に手あたり次第、声をかけましたね」

 まだ1年生が入部する前とはいえ、マネージャーを含め、部員はたった5人。春先から別海で指導することとなった島影は愕然とした。

 野球部の専用グラウンドの土は荒れ、室内練習場として使用しているビニールハウスも穴が開き、雑草が生えている。島影が胸の内で嘆いていたのは、選手の意識の低さではなく、野球部としての効率の悪さだった。

「あの時の部員は頑張っていましたよ。だって、野球が好きじゃなかったら辞めてるわけじゃないですか。でも、グラウンド整備の道具も足りないとか、周りのサポートがほとんどなかったんです。だから、『野球ができる環境を整えよう』ということで、父母会とかにお願いして道具を揃えて。そういうところからのスタートでした」

 先行きの見えないチームにおいて、新監督は現実と逆行するような所信表明を打ち出す。

「3年で全道大会出場」と「5年で全道初勝利」。そして、「10年で甲子園」である。

 島影は意識的に退路を断ったのだ。

「覚悟です。外部監督として雇われている身として、『10年以内で甲子園に行けなかったら、責任をとって辞めます』と」

 それは、「結果が出ていない」とクビを言い渡された、前任校へのリベンジでもあった。

 4月になると、白鳥たちの勧誘の成果もあって6人の1年生が野球部に入部した。だからといって、すぐに島影が武修館時代に構築させた野球がチームに浸透したわけではなく、1年目の夏は釧根支部予選で初戦敗退だった。

「白鳥たちには申し訳なかったんですけど、基本を叩き込んで夏までに仕上げるには、まだまだ時間が足りませんでした」

 島影は悔やむが、選手の思いは違う。

 白鳥は「不完全燃焼で終わらなくてよかった」と、監督に頭を下げるように言った。

「島影さんが来てくれなかったら、野球を楽しくできたかわからなかったんで。別海として試合ができる喜びのほうが大きかったです」

 白鳥たちの夏の終わりを告げた時、島影は彼らに約束した。

「おまえたちが残してくれたこの野球部を、俺が必ず強くするから」

つづく>>

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