澤登正朗の「ドーハの悲劇」後日譚。大騒ぎになった記事の真相を明かす

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2024年03月18日 12:31  webスポルティーバ

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私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第23回
「ドーハの悲劇」をベンチから見ていた若き司令塔の回顧録〜澤登正朗(3)

(1)澤登正朗はドーハ入りし「W杯に行ける」と確信していたが...>>

(2)「ドーハの悲劇」をベンチから見た澤登正朗「自分が呼ばれると思ったら...」>>

 アメリカW杯アジア最終予選、日本は最終戦のイラクに引き分けて、2勝2分1敗の勝ち点6。勝ち点では韓国と並んでいたものの、得失点差で3位となり、W杯初出場の夢は潰えてしまった。

 最終予選の代表メンバー入りを果たした澤登正朗は、全5試合をベンチから見守っていた。いつ出番がきてもいいように準備は整えていたが、結局その機会は訪れず、ピッチに立つことはできなかった。

「力のなさを痛感しましたね」

 澤登は淡々とそう語った。

「スタメンをどれだけ強く望んでいたのか。『出たい』と思っていただけで、本気で(ポジションを)取りにいったのか。そこを突き詰められなかった弱さがあったと思います。

 スタメンになるには何が足りなかったのかというと、"キャプテンシー"ですね。ラモス(瑠偉)さんは人に対して厳しいですし、いろいろと言うけれど、あそこまで熱意を持って言えるかというと、僕はまだまだ至らないと思っていました。技術的にもラモスさんという偉大なゲームメーカーの背中を見るにつけ、ぜんぜん足りなかった。

 国際試合ではフィジカルも足りないと思いましたね。当時、自分は筋トレよりも技術だと思っていたんですが、スペイン遠征や最終予選での激しい当たりを見て、フィジカルの強さが必要だと痛感しました」

 ドーハからの帰りの飛行機では、ラモスから「次の(日本代表の)10番はノボリだぞ」と言われた。澤登にとって「10番」は憧れの背番号だった。

「やっぱり"10番"はエースナンバーですし、"10番"をつけて代表でも活躍したいとずっと思っていたので、そう言われたことはすごくうれしかったですね。僕はラモスさんと同じことはできないですけど、自分のよさを出せるようにもっと力をつけないといけないと思いました」

 アメリカW杯への出場が断たれた翌年の5月、パウロ・ロベルト・ファルカンを新たな指揮官に迎え、新生・日本代表が1998年フランスW杯に向けてスタートした。澤登はドーハの経験者として、新たなチームの先頭に立っていくことを期待された。

「フランスW杯は『自分が』って、思っていました」

 しかし、澤登は最初のキリンカップこそ招集されたが、負傷などの影響もあり、その後は代表に呼ばれることはなかった。10月になって、広島で開催されたアジア大会で再び招集されたものの、背番号は"10番"ではなく"16番"だった。

「(新しい日本代表が始動して)最初に"10番"をつけて、次に外された時は『なんで(自分を)呼ばないんだろう』って思っていました。自分では、決して(Jリーグでの)パフォーマンスが悪いとは思っていなかったので。

 メンバー選考には監督の基準があるわけだから、その基準に『入っていないんだな』と理解するしかなかった。だったら、(Jリーグで)結果を出して『(自分を)呼ばざるを得ない状況を作るしかない』と思っていましたね」

 地元開催のアジア大会、日本はグループリーグで首位通過を果たしたが、準々決勝で宿敵・韓国に2−3で敗れた。頂点を争う結果を期待されていたこともあり、指揮官のファルカンは解任された。

 その後、大会中の澤登の発言が世間の注目を集めることになる。澤登が「(協会関係者から)選手のやる気を削ぐような言動があったので、代表をやめる」と言ったと、あるメディアが報じたのだ。

「自分はそんなことを言っていないのに、記事になって大騒ぎ。あれには参りました......。僕が言ったのは、代表の活動に際して、ケガなどの保証をしてほしいということだったんです。

 だって、ドーハの時、僕らの手当は日当3000円ですから。それじゃ、ケガの保証にもならないので、自分のチームに戻った時に困る、という話をしたんです。『代表に行かない』なんてひと言も言っていないですし、代表選手の待遇を少しでもよくしたかっただけなんですが......」

 当時の代表は、まさしく"手弁当"で戦う状況にあった。それでも、選手たちが戦うことをやめなかったのは「W杯に出たい」という気持ちが(協会などからの)手当てや保証などを凌駕するほど強かったからである。

 だが、プロリーグが発足。そうした状況は少しでも改善していくべきだと、多くの選手が思っていた。澤登もそのひとりで、よかれと思った発言が意図しない方向で伝えられてしまった。

 そんな騒動の最中、日本代表はファルカンの後任に加茂周が就任。加茂ジャパンになって以降、澤登は代表から遠のき、いわゆる"ドーハ組"も徐々に姿を消していった。

 その一方で、頭角を現してきたのは、28年ぶりのオリンピック出場を決めた"アトランタ世代"だった。中田英寿や城彰二、川口能活らが急成長し、1998年フランスW杯アジア最終予選でも奮闘。"ジョホールバルの歓喜"によって、W杯への扉を開いた。

「Jリーグが始まり、選手の質も上がってきたところで、1996年アトランタ五輪に出場したチームにいい選手が集まった。ヒデ(中田英寿)はまさにその世代で、代表でも中心になっていった。

 彼らの活躍を、僕は一選手として客観的に見ていました。とはいえ、(代表から)離れていてもいつか呼ばれるかもしれないので、その準備だけは怠らないようにしていました。やっぱりW杯に行きたかったので」

 しかし、澤登はフランスW杯アジア最終予選の壮行試合(1997年JOMO杯)に呼ばれただけで、最終予選には呼ばれず、本大会のメンバーにもその名はなかった。それでも、「個人の悔しさはありましたけど、日本代表がW杯に行ってくれたことは最高にうれしかった」と、その快挙を素直に喜んだ。

 フランスW杯が終わると、日本代表は地元開催となる2002年日韓W杯に向けて再スタートをきった。フィリップ・トルシエが新たな指揮官となり、清水エスパルスの中心選手として活躍していた澤登も代表に復帰。2000年のアジアカップ予選では、ブルネイ戦でゴールを決めた。そして、このアジアカップ予選を最後に代表に呼ばれることはなくなった。

 それから5年後、2005年シーズンを最後に現役から退く決断をした。ドーハの悲劇から12年間、W杯に出場する夢を抱き続けたが、実現できなかった。

「W杯に出られなかった悔しさは、ドーハのメンバーで(W杯に)実際に出場した人以外はみんな、抱えていたと思います。でもそういう気持ちは、選手でいる間はずっと持っていないといけないものだと思いますね。僕は最終的にW杯に出られなかったですが、諦めたことは一度もなかったです」

 澤登が"ドーハの悲劇"から学んだものは、いったい何だったのか。

「勝ちにこだわり、常にファイティングポーズをとる。最後まで諦めない。最後の笛が鳴るまで、一瞬たりとも気を抜かない――そういうことの大切さを、僕はドーハで痛感させられた。そうした経験をさせてもらったという意味では、一生モノになりましたし、それが指導者になった今も生かされています」

 フランチャイズプレーヤーとして引退した澤登は今、清水のユース監督として日々奔走している。現役の時から「選手として得た経験を(後進に)伝えていく」と指導者として生きていくことを決意し、引退後にライセンスを取得。今ではドーハで一緒に戦った仲間や、同世代、下の世代とともに、日本サッカー界を背負って立っていく人材育成に力を注いでいる。

「今は(東海大一高の後輩)松原良香がJ3(いわてグルージャ盛岡)でがんばっているし、いろんな仲間がそれぞれ監督として、結果を残そうとがんばっている。特に"ドーハ組"のポイチ(森保一)は代表監督になって、結果を残してすごいなと思いますね。

 代表の試合が終わったあとのインタビューでは疲れた感じに見えますが、相当なプレッシャーのなかで戦っているので、自然とそうなりますよ。でも、そうしたなかでもやれるのは、ポイチだからできること。選手に対しての気配りはすばらしいし、優しいし、強さもある。僕はあの人だから代表監督ができるんだと思っていますし、本当にすばらしい監督だと思っています」

 澤登もいずれは「トップチームで」という思いを持っており、その上の代表で指揮を執る野心も秘めている。

「まずは、クラブ(のトップチーム)でやりたいですね。クラブだと、自分がやりたいサッカーを日々落とし込んでいける。そうして、チームを作り上げていく面白さがあるんです。

 だけど、今はまず自分が置かれている立場で、自分の指導力を上げていくことが大事ですね。現在はユースの指導をしていますが、その子たちがトップに上がり、一緒にJリーグで戦えたらいいですよね。そこで結果を出して、いずれは代表でも(監督を)できればと思っています」

 選手としてW杯に出場することはできなかったが、2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会、2018年ロシア大会と3つのW杯を視察して回った。選手時代と同じく、海外で『君が代』を聞くと心が震え、戦う覚悟が生まれた。

 森保監督も「国歌を聞くと、こみ上げてくるものがある」という。いつか、澤登も同じ立場になった時、きっと同じ気持ちで選手たちとともに日の丸を見ているに違いない。

(おわり/文中敬称略)

澤登正朗(さわのぼり・まさあき)
1970年1月12日生まれ。静岡県出身。東海大一高(現・東海大翔洋高)、東海大を経て、1992年に清水エスパルス入り。以来、2005年までエスパルス一筋でプレー。「ミスター・エスパルス」と称され、チームの顔として活躍した。Jリーグ初代新人王。1999年にはベストイレブンに選出される。日本代表ではハンス・オフト、パウロ・ロベルト・ファルカンが指揮官を務める時代に奮闘。その後、代表からは遠ざかるも、フィリップ・トルシエ率いる代表で一時復帰を果たした。国際Aマッチ出場16試合、3得点。2013年から常葉大学サッカー部の監督を9年間務め、現在はエスパルスユースで指揮を執っている。

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