楢崎智亜「精神的にもきつくて...」東京五輪で4位と惜敗 「自分は本当に強いのか」と悩み苦しんだ

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2024年03月18日 17:31  webスポルティーバ

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楢崎智亜インタビュー 前編

 楢崎智亜は、日本男子スポーツクライマーとして第一人者と言えるだろう。

 高校卒業後、プロ・クライマーの道に進むと、2年目の2016年に頭角を現した。同年の世界選手権では、ボルダリング種目で優勝。2019年の世界選手権では複合、ボルダリングで優勝。名実ともに、世界のトップ・クライマーとなった。

 突出しているのは、成績だけではない。

 自由闊達でダイナミックなクライミングは、楢崎の代名詞になった。全身を使った俊敏性と跳躍は、「ニンジャ」と世界中の称賛を浴び、スペクタクルになっている。細胞のひとつひとつが爆発を起こし、ホールドを弾いて駆け上がる"攻撃的様式"だ。

 2021年の東京五輪では、「金メダル確実」と言われながらも4位に終わり、メダルを逃すことになった。しかし捲土重来、今年のパリ五輪出場権を獲得した。スポーツクライミングの先駆者としての矜持とは――。

 楢崎のトレーニング施設でのインタビューで、パリに向け新たな戦いに挑む「楢崎智亜の今」に迫った。

【器械体操に明け暮れた少年時代】

―まずは、クライマーとしての原点を聞かせてください。

「10歳の時に、家の近くのジムで、兄についていって始めました。スポーツは全般好きだったんですが、クライミングは最初そんなにうまくできなかった印象があって。同世代で始めている子たちがすごく上手で、自分よりもすいすい簡単に登っているのを見て、すごいなと」

楽しさの原点は、負けず嫌い?

「負けず嫌いっていう感じではなくて、初めは自由で楽しいなって。ジャングルジムに近いというか。課題を達成するのが気持ち良かったですね。難易度に合わせた課題があるんですが、初めはできなかったものがクリアできるようになる。今では、(壁の中で)"自由"って感覚が強まって、登れるようになればなるほど、壁の中で人よりも自由に動けたり、同じ課題でもいろんな登り方ができたり、それが楽しさですかね」

―苦労した課題は覚えていますか?

「グレードが10級から分かれているのですが、5級に苦戦したのを覚えています。技術がないなかで力任せに登ってしまっていて。でも、成長を感じられるのが面白くて、さっき取れなかった一手が急に取れることもあるんです。次の課題を登れる、そこの成長が明確でわかりやすい」

―幼稚園から器械体操をされていて、ある日、突然怖くなったそうですが...。

「床が迫ってくる感覚になっちゃって...。体操が大好きだったので、それこそ、週のうち6、7日通うこともあったんですが、急に回るのが怖くなっちゃったんです。小さかったのですぐには恐怖を克服できず、一旦休みにして、体操から離れて違うスポーツというところでボルダリングをはじめた感じですね」

―ある意味、クライミングと出会う運命ですね?

「たしかに。母親が言うには、『そのタイミングで身体のバネの強さが上がって、感覚が変わって怖かったのかも』って。自分は覚えていないんですけどね」

【「金メダル確実」とまで言われた東京五輪】

―高校卒業と同時に、プロの道を選びました。実家が病院で医学部への進学など選択肢もあった中、リスクもある道を決断したきっかけは?

「クライミングをやっているほとんどの選手がそうですけど、すべてのスポーツや遊びの中で"一番楽しい"と思ってやっているんですよ。だから単純に、"自分がこのスポーツで食べていけるようになったら絶対に楽しい、それで頑張っていきたい"って。あとは日本でも平山ユージさん、安間佐千さん、と僕より上の世代で活躍されていた方々もいたので、先輩方に触発されたのはあります。佐千さんは同じ栃木県(出身)で、たまに一緒に登らせてもらったりしていたのですが、異次元でした。人間、これだけ強くなれるんだなって」

―プロに転向し、「世界」を感じられるようになったのはいつですか?

「世界のトップレベルで戦えると思えたのは、2016年に世界選手権で優勝したときでした。その前までは予選落ちしていましたから。練習では"負けていない"と思っていたのですが、大会になるとダメで...。そんな中、2015年にヨーロッパでトップ選手の合同合宿があって、そこに参加させてもらった時に"自分も結構強い"って思えて、あとは大会で自分の力を100%出せるかどうかだって、その時に感じましたね」

―クライミングはメンタルスポーツ?

「どのスポーツも、トップとそれ以外の選手で一番違うのはメンタルだなって思います。いかに本番で発揮力を上げられるか。どれだけフィジカルがあってもそれだけではダメで」

―世界王者として挑むことになった東京五輪では、「金メダル確実」の重圧を感じたはずです。

「自分でも、絶対に(金メダルを)取れる自信はありました。それだけの練習もしていましたから。でも、大会が近づけば近づくほど"失敗しちゃいけない"って怖い気持ちも出てきて。1年間、五輪の開催が伸びたことで、新たなトレーニングじゃないですけど、自分の弱点ともっと向き合えたことで、逆にいろいろな練習ができてしまって。それで戦い方がまとまらなかったのはありますね」

―金メダルのスペイン人、アルベルト・ヒネスは伏兵で、勢いでかっさらった感もありました。

「もともとは、僕とアダム・オンドラ(チェコ)が金メダルを争うって感じだったんです。2019年も切磋琢磨していましたから。でも、お互いにオリンピックは全然ダメで(苦笑)。金メダルやライバルを意識しすぎたのは感じました。自分も10代のころは、"登りたい、どこまで行けるか試したい"っていうだけだったので...」

「パリ、きついかも」から気持ちで押し切った世界選手権】

―東京五輪後は、どのように過ごしましたか?

「終わった直後は落ち込みました。周りがどうこうよりも、"自分が自分の期待に応えられなかった"というのが精神的にもきつくて。ずっと金メダルを取りたいと思って、トレーニングでも追い込んでいましたし...。でも、複合が(ボルダリング&リードの)2種目になって、ルールも面子も変わったり、周りの環境も変化したので、これは集中してやるだけって切り替えました」

―昨年の世界選手権で3位に入り、みごとパリ五輪出場権を獲得しましたが、直前の大会では苦しんでいたように見えました。

「どこかで"自分は本当に強いのか"って疑ったのか、去年は世界選手権前まできつかったです。前半の4、5月に優勝はしていたんですけど、調子自体は悪く、その後のヨーロッパ3連戦は全然うまくいかなくて。初めて"パリ、きついかも"って。ただ、すぐに世界選手権だったので、"これから強くなるのは無理だから、自分の理解度を上げていこう"って、最後は気持ちで押し切った感じです」

―女子クライマーの第一人者である野口啓代夫人からは、葛藤の中、どんな言葉を?

「厳しかったですよ(笑)。優しい言葉をもらうことはあんまりなくて、『やめたきゃやめれば』っていうスタイルで、『気にせず、目の前のことに集中しなさい』って。おかげで、世界選手権では切り替えられた部分もありました。啓代は、自分よりも歴戦の猛者なので(笑)。彼女が(現役時代に)強かったのは、彼女自身がいつも言っている"自分に負けない"ってところで。彼女は優しい言葉をかけてくれるというより、僕のことを気にして考えてくれているな、と感じます。僕が受けているトレーナーの先生のところにケアの方法を教わりに行ってくれたり、コロナ中は料理を習いに行って、グルテンフリーでおいしいパスタを作ってくれたりしました。そしてたまに練習を見に来て、お尻を叩いてくれます(笑)」

―東京五輪の時と比べると、娘さんも生まれて、家族が増えました。

「娘は0歳ですが、日々成長していて、家に帰るのが楽しいですね。昨日ジムに連れてきて、懸垂棒につかまらせたんですけど、まだ無理でした(笑)」

>>インタビュー後編「パリ五輪金メダルは『セッティング次第ですが、可能』」に続く

【Profile】楢崎智亜(ならざき・ともあ)
1996年6月22日生まれ、栃木県出身。10歳からクライミングをはじめ、2015年の高校卒業と同時にプロ・クライマーに。ボルダリング種目を得意としており、2016年にボルダリング種目で世界選手権初優勝。2019年の世界選手権ではボルダリング種目と複合種目で優勝。金メダルを期待された東京五輪では惜しくも4位。2024年パリ五輪で悲願のメダルを狙う。妻は女子クライミングの第一人者として知られる野口啓代さん。

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