ドーハの夜。オフトが綴った「二文字」が日本の未来を開いた

0

2024年03月23日 22:51  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真

悲劇の舞台裏で起きた
知られざる「真実」――山本昌邦編

「ドーハの悲劇」が起こった1993年10月28日。そこが、日本サッカー界のまさに分岐点だった。以降、日本サッカーは急速な進化を遂げていったが、その過程を間近で見てきた人間がいる。現サッカー解説者の山本昌邦である。当時、対戦相手のスカウティング担当をしていた彼は、その後、U−20代表のコーチ、監督、五輪代表のコーチ、監督、日本代表のコーチを歴任し、日本が世界の扉を次々に開いていく瞬間を目の当たりにしてきた。そして今、山本は言う。「すべては『ドーハの悲劇』が教訓になった」と――。

機関銃を突きつけられた偵察部隊
敵の練習を見るのも命がけだった

 誤解を恐れずに言うならば、山本昌邦にとっての「ドーハの悲劇」は必ずしも「悲劇」ではない。

 そんなことを思わせるのは、山本という指導者が「ドーハの悲劇」以後、日本サッカーの歴史が塗り替わる瞬間にことごとく立ち会ってきたからだ。1993年10月28日を境に、指導者・山本昌邦の人生は大きく変わったとさえ言えるかもしれない。

 日本サッカーが異常なまでの熱を帯びていた時代に起きた"歴史的事件"を振り返り、山本はこう語る。

「1992年のダイナスティカップ(現東アジアカップの前身の大会)で優勝し、同じ年のアジアカップ(広島開催)でも優勝して、(常に大きな壁だった)韓国にも勝てるっていう兆しが出てきた。翌年にはJリーグも始まって、だからこそ(最終予選の前には)W杯にも行けるんじゃないかっていう雰囲気になっていて......。実際に(出場権を)つかみかけただけに、その(ロスタイムで出場権を逃した)落差は大きかった」

 山本は当時、ナショナルコーチングスタッフのひとりとして日本代表に帯同し、現地ドーハに入っていた。

 主な仕事は対戦相手の情報を手に入れ、分析すること。のちに、1996年アトランタ五輪で監督とコーチという関係になる西野朗(五輪後はガンバ大阪などJクラブの監督として活躍)とともに、いわゆる「偵察部隊」を担当していた。山本は当時を「一生懸命スカウティングをして、その場にいられること自体がうれしかった」と振り返る。

「ラモス瑠偉以下、カズ(三浦知良)、ゴン(中山雅史)といった一流の選手と一緒に毎日生活して、チームが成長していく過程をずっと見られた。最終的には成功体験にはならなかったけれども、『ここまで来たんだ』っていう充実感があったし、あと『こうすれば(W杯に)行けるんじゃないか』っていうのも認識することができました。あの場にいられたっていうのは、自分にとってすごくエネルギーになりました」

 とはいえ、ドーハに入ってからというもの、山本に与えられた任務は過酷だった。対戦相手の練習を偵察に行くとは言っても、そのほとんどが非公開。現在のように、非公開練習であっても、冒頭15分間だけは公開しなくてはいけないという規定もない時代である。

 練習場となるスタジアムにバスが到着し、選手が中に入ってしまえば、あとはシャットアウト。"正攻法"では練習を見ることなどできなかった。分析うんぬんの前に、まずは「いかに練習を見るか」の戦いだった。ドーハについて最初の1週間は、そのための時間を費やし、スタジアムの周辺をくまなく調べた。そして、ちょっとした警備の隙、わずかな壁の隙間などを見つけて偵察した。ときには警察に通報されることも覚悟のうえで、スタジアムに隣接したビルに潜入し、洗濯物の間から練習を見たこともあったという。

「ある意味で、命がけだったかもしれないですね。(スタジアム周りの)警備員の人数と、どういう動きで警備をしているかを確認し、スタジアムの土手をダッシュして駆け上がったり、匍匐(ほふく)前進して登ったりして、(警備に捕まるかどうか)ギリギリのところで練習を見ていました。それを、西野さんとふた手に分かれてこなした。ふたり一緒にいて捕まったりしちゃうと、情報がゼロになっちゃう危険性があるから。第一、ふたり一緒にいて『ここはこうですね』なんて話をしながら見ている余裕はない。バラバラに動いて、最後にすり合わせをしていました」

 当然、危険な目に遭うことも珍しくない。物陰に隠れて巡回する警備員をやり過ごしたつもりが、突然Uターン。あえなく見つかり、機関銃を突きつけられたこともあった。

「正直、撃たれると思いましたけど、『●●●のジャーナリストだ』とか言って、他国の人間のふりをしたりして、どうにか許してもらった。結局、警備員はカタールの人間ですから、予選に絡んでいるわけではないので多少の甘さがあったんでしょうね。でも、その姿を日本のテレビ局のクルーに撮られていて、日本で放送されたみたいなんですよ。それを見ていた人から『いったいどんな仕事をしているのか』と心配して、日本から連絡がありました(笑)」

 しかも、オフトの要求する情報は細部に渡っており、事細かに「これとこれを見てこい」と指示が出る。当然、「(練習や試合を)見られませんでした」では済まされない。

「ある程度情報がそろっていても、オフトには毎日『行け』と言われた。昨日練習していなかった選手が今日はいるかもしれないし、急に戦術が変わっていたり、FWだった選手がDFをやっていたりするかもしれない。そうしたチームの日々の変化が大事な情報だったんです。そのうえで、スカウティングの項目がたくさんあるんですが、その辺は(1992年の)アジアカップの頃から叩き込まれてきましたからね、黙々とこなしていました」

 山本は、当時を懐かしむようにそう語る。

 例えば、試合を見るときのスカウティング項目はこんな具合だ。DFラインがどこに設定されているか。前線のプレスはどこから始まるか。奪ったボールはまずどこへ展開されるのか。セットプレイは誰が蹴って、誰がターゲットになるのか。さらには、残り15分の時点でDFラインはどうなっているのか。どんな選手交代が行なわれているのか。

「今では普通のことなんですけど、そういうことのひとつひとつが勉強になって、自分が監督になったときに、それが生きるわけです。少ない人数で回していましたから、ひとりひとりの仕事の量は本当に多かったですけど、その分、勉強になったと思っています」

 こうして日本代表の一員としてドーハでの戦いに臨んでいた山本。だが、肝心のイラク戦だけは、その場に立ち会うことができなかったという。

 当時はまだ、最終戦をすべて同時刻に開始するという規定がなかった。そのため、当初の予定ではそれまでの試合と同様、同じ日にカリファスタジアム1か所で、サウジアラビアvsイラン、韓国vs北朝鮮、日本vsイラクという3試合を行なうことになっていた。

 ところが、熾烈なW杯の出場権争いは、日本、サウジ、韓国の間で勝ち点はおろか、得失点差の争いにまでもつれこもうとしていた。そのため、急遽、最後の3試合だけはそれぞれ別の会場に分け、同時刻にキックオフされることが決まったのだ。

 慌てたのは、放送関係者である。まさかの3試合同時進行に、解説者の人手が足りなくなった。「そこで、協会関係者に『テレビの中継で解説が足りないらしいから、おまえ、行ってくれないか』と頼まれて、韓国vs北朝鮮の解説をすることになったんです」と山本。すべてのスカウティングを終え、分析資料を提出し、任務を完遂した山本は、日本のW杯初出場を信じて、実況席に座ることになったのである。

 日本がイラクとの運命の一戦を迎えていたのと同じとき、山本が目にしていたのは韓国の低調な試合だった。韓国にしてみれば、この試合を勝ったところで、日本とサウジがそろって勝ってしまえば出場権は手にできない。それでは気持ちが入らないのも無理はなかった。

「韓国は前半、酷いサッカーで0−0。でも、さすがに喝を入れられたんでしょうね。後半に3点を取って勝ったんですが、彼らは日本とサウジが勝っている状況なのを知っている。だから、全然"勝ったっていう空気"じゃなかったんです」

 その試合結果にさしたる関心がないという点では、山本も同じだった。試合中から日本が2−1でリードしているという情報は入っていた。正直なところ、試合終盤は放送どころではなかった。早く解説の仕事を終わらせて、自分も祝勝会に参加したい。そんな気持ちで試合後のピッチの様子を眺めていた。

 ところが、である。韓国選手がサポーター席に向かってとぼとぼと歩きはじめたとき、突如、韓国代表スタッフのひとりが何かを叫びながらベンチを飛び出した。ピッチ中央には、たちまち歓喜の赤い輪ができていた。

 最初、山本には何が起きたのか理解できなかった。「サウジが逆転されたのかな。じゃあ、日本と韓国がW杯に出るのか」。そんなことを考えていた。

 すると、傍(かたわ)らにいたディレクターが茫然とした様子で小さく口を開いた。

「山本さん、2−2です」

 それが、山本の体験した「ドーハの悲劇」だった。

「ドーハの悲劇」があったから
僕らは新たな歴史を作ることができた

 山本には「ドーハの悲劇」というより、あのW杯最終予選を振り返ったとき、ひとつの忘れられない出来事があるという。

 初戦でサウジと引き分け(0−0)、第2戦でイランに敗れ(1−2)、日本は勝ち点1でまさかの6カ国中最下位。選手たちの間に少なからず落胆ムードが漂う中で行なわれた、ミーティングでのことだった。

「当時の日本は、もうW杯に行けるっていう感じになっていて、それは本当にすごい注目度だったと思います。日本代表も初めてチャーター機を使ったり、シェフを帯同したりと、そうしたひとつひとつがいいことである反面、注目度が上がることは、選手たちにとって目に見えないストレスにもなっていた。そんなときに、いきなり2試合で最下位に沈んだ。当然、焦りますよね。もう夢は消えたっていう雰囲気で、食事会場はお通夜みたいでした」

 すると、オフトはすくっと立ち上がり、翌日のスケジュールなどを記入するために貼られていた模造紙の前まで歩いていった。

「何か言うのかなと思ったら、ちょっと沈黙があって、オフトは微笑んだんです。といっても、それは僕の印象なので、本当は笑ってはいなかったのかもしれません。でも、すごく柔らかい表情になったのを覚えています」

 次の瞬間、オフトはおもむろに手にしたペンで、白い紙に大きな文字でこう書いた。

『3 win』

「オフトは自信を失っている選手に、『3つ勝てばW杯に行ける。なのに、なぜお前らはそんなに落ち込んでいるんだ』っていう話をしたんです。その瞬間、みんなが『諦めちゃいけないんだ』っていう感じで、フッとひとつになったのを感じました。僕自身、その瞬間、鳥肌が立ちましたからね」

 その後、日本は北朝鮮、韓国に連勝し、急回復。最後のイラク戦は首位で迎えることになったのはご存知のことだろう。

 オフトが土壇場で駆使した「負けたら終わりだけど、勝てばいくらでもチャンスはあるんだというポジティブなマネージメント」は、「自分が監督として同じような場面を経験する中で、活用させてもらっている」と山本は言う。

 それだけではない。その後、U−23代表やU−20代表の監督、コーチとして、世界の舞台を経験することになる山本にとっては、「ドーハの悲劇」を体験したこと自体が大きな財産となっている。

「僕らは、選手たちに常々『オレたちが歴史を変えるぞ。新しい歴史を作ろう』と言い続け、1995年には(初めてアジア予選を突破して)ワールドユースに行けたし、1996年にはアトランタ五輪にも行けた。ドーハの悲劇があったからこそ、歴史を変えるっていう言葉が選手たちにもストンと落ちたんですよね」

 山本は「ドーハの悲劇」を振り返り、改めて「そこにいられてよかった」と言う。

「ある意味、僕らは気が楽ですよね、監督じゃないから。だからこそ、そこでいろんなことを客観的に見られたし、オフトは素晴らしい仕事をしていたとも思う。それは間違いなく僕らの財産になったし、ワールドユースや五輪で新たな歴史を作っていくという形で、あの経験を生かすこともできたと思っています。

 例えば、ドーハのときの最後のイラク戦では、ハーフタイムで選手たちが興奮状態だったらしいんです。いちばん冷静にならなければいけないときなのに。そこでエネルギーを使ってしまって、選手たちはオフトの話を十分に聞けていなかった。それがあって、ここを勝てば五輪切符が手にできるという、アトランタ五輪予選のサウジアラビア戦では、監督の西野さんがハーフタイムに『選手たちが何か言ってきても、リフレッシュに集中させる』という指示を現場スタッフ全員に出した。選手の興奮状態を抑えるためです。結果、後半の指示が行き渡って、選手たちも浮き足立つことなく、後半に臨むことができたと思います。

 あと、イラク戦のあとに、オフト監督はスタッフを集めてこう言ったんです。『5秒で世界が消えた』と。確かに、ちょっとしたことで時間を稼いでいれば、イラクのCKはなかったかもしれない。ただし、ドーハの頃はまだ、ボールをキープして時間を稼ぐとか、すぐにゴールキックを蹴らないとか、そういうことが徹底されていなかった。結局、最後まで何が起こるかわからないという怖さを改めて痛感させられたのと同時に、最後の時間の使い方、その重要さや大切さを知ったのも『ドーハの悲劇』があったから。僕らはそういうことも選手に教えていって、世界の舞台に立つことができたんです」

 そして最後に山本は、感慨深げにこんな言葉を口にした。

「改めて感謝するのは、川淵(三郎)さん(現協会最高顧問)が『おまえたちがナショナルコーチをやれ』って言ってくれたこと。そのおかげで、日本が右肩上がりで成長していった時代にスカウティング担当からコーチ、監督という異なる立場で、すごい経験をさせてもらったんですからね」

 日本サッカーが新たな歴史を次々に作り出していくストーリー。そのプロローグこそが、「ドーハの悲劇」だったのである。(文中敬称略)

山本昌邦(やまもと・まさくに)
1958年4月4日生まれ。静岡県出身。国士舘大学卒業後、JSLのヤマハ発動機(ジュビロ磐田の前身)入り。DFとして奮闘した。29歳の若さで現役を引退。指導者の道に進んだ。とりわけ、協会のナショナルコーチングスタッフとして手腕を発揮。U−20代表のコーチ(1995年、1999年U−20W杯※当時ワールドユース)、監督(1997年U−20W杯)、五輪代表のコーチ(1996年アトランタ五輪、2000年シドニー五輪)、監督(2004年アテネ五輪)、A代表のコーチ(2002年W杯)を歴任。すべての世界大会に出場という、輝かしい成績を残した。現在は解説者として活躍。

■勝矢寿延編>93年のドーハ。DF勝矢寿延を奮い立たせた「ふたり」とは?

■うじきつよし編>ドーハを去る夜、うじきつよしがラモスに熱唱した「替え歌」

■ラモス瑠偉編>ラモス瑠偉「あのドーハのメンバーを 忘れてほしくない」

■北澤豪編>「ドーハの悲劇」イラク戦で 出場できなかった北澤豪の本音

■福田正博編>福田正博「20年前のドーハは 『悲劇』じゃない」

■都並敏史編>都並敏史が語るドーハの悲劇。「オフトは僕とだけ握手をしなかった」

■サッカー代表記事一覧>>

    ランキングスポーツ

    前日のランキングへ

    ニュース設定