「僕はちょっと変わったアスペルガー医師」生きづらさを克服した、元KY少年の精神科医

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2024年04月14日 16:00  週刊女性PRIME

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精神科医、ハタイクリニック院長・西脇俊二

 その人は約束の取材場所に、ダンディーな黒シャツ姿でやってきた。無造作にポニーテールに結んだ髪の長さは、腰に届かんばかり。「精神科のお医者さんです」と言われるよりも、「徹夜明けで、ちょっと不機嫌なミュージシャンです」と言われたほうがよっぽどしっくりとくる。

精神科医としての顔

 実際、この3月には横浜でバンドの演奏会を開催した。担当はギター。リンパドレナージュのセラピストで、バンド仲間でもある大村かすみさんによると、

「先生、完璧主義者でメンバー4人での練習はもちろん、演奏の合わせどころはぴったりと合わせたいと、2人で練習したことも。ライブ中のMCも面白いんですよ」

 そんな精神科医が、カメラマンからの「着ていただけますか?」の声で白衣を身にまとうと、表情が一気に和らぎ、悩める患者と真摯に向き合う医師のそれになった。

 自らも物心ついてから研修医になるまでの20年間、アスペルガー症候群独特の「空気が読めない」「言葉の裏が読めない」「計画性ゼロ」「自分の気持ちばかりを優先してしまう」などなどからくる生きづらさに苦しめられ、30代半ばでそれを克服。

 以来、この発達障がいの、よき医師兼理解者として多くの患者さんに向き合ってきた。

 西脇医師を含め、日本ではまだ3人の医師しか行っていないという免疫置換療法に対しても、全国から自己免疫性疾患に苦しむ人々が相談にやってくる。潰瘍性大腸炎や難病指定されているシェーグレン症候群さえも治すという治療法だ。

 そんな頼れる医師でありながら、「女性に憑依した犬神を1週間のヒーリングで祓った」と真顔で言い、超能力者・秋山眞人氏と河口湖でUFOを召還し、さらには、

「スプーン曲げ? 曲げたことはあるんですけど、あんまりうまくないんです。やわらかいと完全にイメージできれば曲げられますが、今はちょっと無理かなあ」(西脇医師)

 ブラウザの検索窓で『西脇俊二』とググってみよう。“待ってました”とばかりにサジェストに登場するのは、『西脇俊二 トンデモ本』。

 登場した著書をクリックし、何冊かのカスタマーレビューを覗いてみると、《トンデモ本にみえてやっぱりトンデモ本》と冷ややかに語る現役医師から、それについて《代替治療を批判するならホントに治った患者の声を聞いてからにしろ!》と怒りの声を上げる人、《素晴らしい精神科医なのにこんな本出したら誤解される》と心配する患者さんらしき人まで、賛否両論かしましい。

昔だったら導師とかシャーマン

 妻でパーカッション奏者の和嘉子さんが笑いながら、

「お医者さんって、昔だったら導師とかシャーマンとかいわれていたような人。だから医学はどこか不思議な力とつながっているようにも思えます。スピリチュアル全開でやりすぎると確かに怪しく見えるので(笑)、振り幅に気をつけてとは思うけど、私はあまり気にしていませんね」

 当の本人は、そんな書評を一向に意に介さない。誰が何を言おうと信じるところを突き進み、訴えたいことを本にする。この医師も抱えるアスペルガー症候群の特徴のひとつが、「周りの目を気にすることなく行動する」だからだろうか。

 今ではあのアインシュタインやスティーブ・ジョブズ、織田信長もアスペルガーだったといわれている。思えば時代をガラッと変える改革者は、いつもこうした「空気を読まない人たち」だ。

 西脇医師がこう言う。

「アスペルガーがいなければ、世界は今でも石器時代のままなはず。“木と木をこすり合わせたら燃え出すかも”“この金属とこの金属を混ぜ合わせたらもっと強い金属になるかも”と、空気を読まず突っ走れた者たちがいればこそ、世界はここまで進化できた。だからわれわれアスペルガーの発達障がいを持つものは、自信を持って“少し変わったデキる人”を目指すべき」と─。

 北海道の岩見沢市で姉2人、兄1人の4人きょうだいの末っ子として生まれた西脇医師は、子どものころから“表情の硬い、ちょっと変わった子”だったという。

「小さいころから人に頭を触られるのが嫌で、理髪店に行かず長い髪をしていました。ピンクの服が好きで、その色ばかり着ていたから、いつも女の子と間違えられていました。幼稚園は先生や教室の雰囲気が嫌で頑として行かず、登園拒否をしています」(西脇医師、以下同)

 酒、タバコから食料まで何でも商う、今でいうコンビニのような店を営んでいた両親は、精神医療の専門家である西脇医師いわく“母親は典型的なADHD(注意欠如・多動性障がい)で、父親も典型的なアスペルガー障がい”。

 思ったことをなんでも口にしてしまう母と、そんな母に何ひとつ言い返すこともなく、黙々とわが道を行く父。

「僕は毎朝、母親の怒鳴り声で目を覚ましていました」

 小学校に上がる前には、頓着なく本音が出てしまう母親から唐突に“本当は、おまえは堕ろすはずだった”と告げられたという。

「“なのに、なんで産んだの?”と尋ねたら、“占いで見てもらったら、私(母親)のことを助けるようになるから産んだほうがいいと言われた”と。まぁ、でも生まれることができたわけだから、私はツイてましたよね(笑)」

 出生にもどこか死の影が付きまとう。62年前、当時の北海道では自宅で助産師に取り上げられることが少なくなかった。西脇医師を身ごもっていた母親が産気づいたちょうどその日、きょうだいたちは、近所に来ていたサーカスに連れていってもらえることになっていた。祖母からの“それじゃあ子どもたちは私がサーカスに連れていく”との提案で、母親は1人産院に行くことに。

「それで僕は助かったんです。臍帯が絡まった仮死状態で、それも帝王切開で生まれたから。もし自宅での出産だったらアウトでした」

 生まれた直後も看護師さんの手違いで窒息死寸前になり、小学校4年のときには車に轢かれて九死に一生を得た。

 おそらく医学界一スピリチュアルな西脇医師の考え方の背景には、何度も死に神の鎌に触れては身を翻して帰ってきた、こんな数々の経験があるのかもしれない。

「結婚するわけでもないのに何で付き合うの?」

 一度こだわると頑として聞かない幼稚園児は、小学校でもその後進んだ岩見沢市立光陵中学でも、成績優秀で通した。だが「計画性」はゼロで、宿題を片づけるのはいつも朝。試験は一夜漬けが常だった。

「映画『レインマン』で、一度見たものを映像として覚える写真記憶術が描かれていましたけど、僕にもわりとその力があって。大学1年ぐらいまでは、それで覚えてました。その後、お酒を飲みすぎて脳が破壊され、どんどんできなくなっていきましたけど」

 前出の妻・和嘉子さんが子ども時代のこんなエピソードを語る。

「高校生のころだったか、足が速くて、バスに乗っていた友達よりも目的地に早く着き、“超人”と呼ばれていたそうですよ(笑)」

 足の速い一夜漬け名人は、小学校高学年から中学までラジコン模型にのめり込んだ。

「それもエンジンまでついている、子どもじゃ買えない約10万円の大型セット。実はオヤジが好きだったんだけど、自分で買うと母親に怒られるから僕が買ったことにして。

 夜、僕を連れてスナックとかに配達に行った後に模型屋さんで買って、トラックの後ろに隠して持って帰る。母親に見つかったら怒鳴られるから隠し持って、そしてサーッと部屋に入るんです(笑)」

 そうして手に入れた複雑なラジコン模型を、徹夜を重ね、3か月かけて作り込む。嫌いなことは一夜漬けでも、好きなことに対しては徹底的にのめり込んだ。

 ここまでだったら“優秀な小学生の武勇伝”で終わるだろう。だが、大人の手前、中学ではそれでは済まされなくなっていく。成長するにしたがって周囲から、学校という“社会”に適応することを求められるようになるからだ。

友人といえる者がいない

 ある年のバレンタインデーの前日のことだった。とある女子が、成績優秀で足も速ければ部活のバスケもうまい西脇少年にチョコを渡すことを決意した。女の子が頬をほんのりと赤らめながら「西脇クン、明日の朝、ちょっと早めに来てくれる?」と言うと。

「僕はいつもギリギリに登校していたから、“なんで俺がそんな早くに呼びつけられなきゃいけないんだ!?”と。

 当日、呼び出されたことを忘れて普通に登校したら、呼び出した女の子が泣いている。ほかの女の子からも“西脇クン、ひどい!”って。でも、“なんで勝手に泣いてるんだよ”“なんで俺が怒られるんだ?”と理解できなかったんです」

 そういえば小さなころから目立つ子で、小学校では児童会長を、中学でも学級委員を務めていた。だが、同級生やら大勢に囲まれてはいたものの、友人といえる者がいない。しみじみと語り合えるような親友や、一緒にいたずらをして笑い合うような友人は皆無だった。

 さらにはこの年頃にはつきものの、異性の話にもついていけない。同級生の“あのコがかわいい”“誰と誰が付き合っている”という種類の雑談に興味が湧かず、昼休みはそんな話に花を咲かせる同級生を尻目に机の上で突っ伏している。そしてそんな状態に、なんの不満も覚えない。

 “もしかして自分はほかの人と違うのかも……”幼いころからうすうす感じていた疑問が、確信へと変わり始めてきていた─。

大学入試は途中退出、予備校も2日で退学

 “ちょっと付き合いづらいけど、成績抜群の西脇クン”はその後、有数の進学校、北海道岩見沢東高校に進学する。

 当時抱いていた将来の夢は、自衛隊機のパイロットか建築家だ。

 とはいえ航空自衛隊に入隊しても地上勤務になる可能性はあるし、建築家になったとしても、建てたい建物が自由に建てられるものでもない。

「ところが医者だったら、若い時分から自分で治療方針を決めることができる。だったら医者になろうって」

 それなのに願書を出したのはなぜか北海道大学の理一(工学部)。それも親には翌年、医学部を再受験すると宣言、許可を得て受験した。

「(北大理一は)ちゃんと受ければ受かったと思います。でも受かってしまったら、もう受験勉強をする気がなくなっちゃう。だから試験中に会場を出て、一緒に入試をやめた4〜5人とススキノに飲みに行っちゃった(笑)」

 入試を辞退後、30万円を支払って入学した札幌予備校医学部進学コースもまた、わずか1日登校しただけで行かなくなってしまう。

「登校1日目、現代国語を教えていた名物おじいちゃん先生がいて、“皆さん、(浪人してしまって)残念でした。でも1年かけて頑張ればきっと大丈夫! 1年間長生きすればいいだけです”。

 それを聞いていたら“あ、そのとおりだ”と気が楽になって。それで2日目から行かなくなっちゃった」

 それ以降は、札幌に確保した下宿で仲間と遊んでばかりで、部屋は悪友たちがたむろするアジトのような状態に。生活費は、道路建設の現場で働いて調達した。

「朝4時に弁当作って6時までに事務所に行って現場へ行って。帰ってきたらお風呂に入ってホルモンを食って寝る。そんな毎日になっちゃった」

 だがここでも死に神の鎌に触れることになる。地下鉄工事現場でバイト中の北大生と作業員が亡くなった。トルエン中毒事故が発生したのだ。

「僕が働いていたのも、ちょうどその現場だったんです。トルエン中毒が起きたときには作業が終わって帰ってきていた。もしもずっといたとしたら、僕も死んでた」

 10月、そんな生活からの転機がやってきた。

 地下鉄の工事現場で働いていると、共に医学部を目指していた友人の母親が通りかかった。友人とは子どものころからの付き合い。だからその母親も自分の顔をよく知っている。それなのに、一向に気がつかない。

「“俺、ヤバい方向に進んでいるな”と気がついて。それで親に電話して“下宿を出たいからアパート借りて!”。そうしたら即、借りてくれて、その翌日には仲間に何も告げずに引っ越した。知らせたら酒盛りが始まっちゃって、勉強ができなくなるから」

 これが10月だから、共通一次試験まで残された時間はわずか3か月。だが、以降はアスペルガーの本領発揮。すさまじいばかりの集中力で受験勉強に勤しんだ。

 目指すは弘前大学医学部合格。目標をここに決めたのは、受験に詳しい同級生をつかまえて“二次試験での受験科目が少ない医学部”を尋ねたところ、筑波大、金沢大、弘前大の各医学部との返答。なかでも弘前大学の入学試験は、英語と数学、面接のみとわかったからだったという。

「それで3か月90日分の勉強の予定を立てて。それ以降は寝る・風呂以外がずっと勉強。口を開く機会といえば、コンビニのお姉さんの“お弁当、温めますか?”に“お願いします”と答えるぐらい」

 そこまでやった試験本番、にもかかわらず、ここではアスペルガー特有の「忘れ物が多い」「他のことに気を取られるとそちらのほうに気がいく」のが出てしまったのか、大ボケをかましてしまう。

「二次試験で弘前まで行って、バスに乗って試験会場に出かけたら、下見したときと風景がちょっと違う。運転手さんに尋ねたら“全然違う! 医学部の受験会場はあっちだ!”

 焦って降りたら、もう1人同じようなのが出てきて2人で走った(笑)」

 試験に15分遅刻したものの、どうにか受験させてもらうことができ、無事合格。どうにかこうにか、念願の、医大生としての生活が始まった。

「君はネクタイが趣味なのかね─?」

 かつて浪人生だったころの下宿部屋はアジト状態。医大生となってからも、それは変わらず、仲間と酒を酌み交わせば、あっという間にウイスキー2本が空になる。

 自堕落であっても楽しい、若者の特権のような毎日。そんな生活を送りながらも、心は常にどこかしっくりときていない。

「楽しいけど、時折人と会うのが嫌になってずっと部屋にこもってしまう。その状態が定期的にくるんです。人に疲れるというか、人間関係がしっくりこないというか」

 “なぜ自分には仲間はいても友人と呼べる者がいないのか?”小学生のころからずっとそう感じていたと西脇医師。

 とはいえ、医学部ではそれに苦しむことはなかった。

「医学部って、僕と同じ感じの人が多いんです。記憶力がよくて入ってくる人が多いから。今から思うと、アスペルガーっぽい人が多い」

 ところが研修医として社会の一線に立つようになると、どうしても「空気が読めない」行動が目立ち始めてしまう。

 東京の某病院で精神科の研修医として研鑽を積んでいたある日のこと、先輩のベテラン医師からこう言われた。

「君はネクタイが趣味なのかね?」

 某病院では男性医師は白衣の下にはネクタイをするのが決まり。だが“趣味=サーフィン”だった西脇医師、ネクタイといえばド派手なハイビスカス柄しか持っていない。先輩医師は“もっと無難な色柄のネクタイにしなさい”という意味を込め、そのようにやんわりと注意したのだが。

「それなのに僕は、“いいえ、違います”と、真正直に。先輩の言葉に含まれた嫌みや忠告に気づけなかった」

 アスペルガー特有の「言葉の裏が読めない」が出てしまったのだ。

「計画性ゼロ」

 忘年会の幹事を務めた際には、楽しんでもらいたい一心で2次会まで豪華な料理をフルラインナップ。病院スタッフがプールしたお金をすべて使い果たした。ここでも「計画性ゼロ」が出てしまった。

 さすがにどうにかせねばと、2週間の休みをとって「内観」という自己洞察法も試し、催眠療法も試した。だが“自分はどこか他の人とは違っている”という、小学生以来の違和感解消までには至らない。

 そんな西脇医師が自分の障がいに気づいたのは、発達障がい児の施設である国立秩父学園に勤務、自閉症児と向き合ったのがきっかけだった。

「自閉症児と接したことで、友達ができないのも違和感も、アスペルガーという自閉症だったからだとわかりました。わかったとたん、ふっと心が軽くなったんです」

 原因がわかれば、対処はできる。性格でなく脳機能の偏りからのものとわかれば、その偏りを正すことだってできるだろう。

 西脇医師は人の話は最後まで聞くように心がけ、しゃべりたくなる衝動が10回起きたら1回だけはしゃべるようにするようにした。すると不思議なことに、言葉の裏にあるものが徐々にわかるようになってきた。

 計画立てなど、苦手な行動は人に助けてもらうようにした。するとここでもミスがなくなり、さらには助けを求めた相手の自己重要感が高まって人間関係が改善された。

 さらには笑顔をつくるべく鏡の前で練習したら、相手も笑顔を返してくれることが増えてきた。

 子どものころから感じていた周囲との違和感が薄れていき、周囲の人々に、笑顔を見ることが多くなっていった。人間関係が改善され、以前のような生きづらさを感じることが、少しずつ、少しずつ、少なくなっていった。妻の和嘉子さんが現在の西脇医師を評してこう言っている。

「私が仕事で帰りが遅くなると夕食の準備をしてくれていたり、疲れて起きられないときにはゴミ出しをしてくれたり。そのへんの距離感の取り方がとても心地いい。いい夫ですよ」

 前出・大村さんも、

「先生って、コミュ力がすごい。セミナーにご一緒させていただくことも多いのですが、“もう何回もいらしているんですか?”と聞くと“まだ2回目”。ホントにアスペルガーなの?と思うほどです」

 アスペルガーによる生きづらさは克服できる。そのよき見本こそが、この人なのだ。

「それでも今でも結構アスペやらかしますよ」

 自閉症施設での衝撃的な自覚から30余年。アスペルガー症候群の生きづらさを克服した当事者が書くアスペルガー関連本はこの病気に悩む人たちから絶大な信頼を受け、関連書籍は10冊を超えた。著書は合計30冊、売上総数40万部を超えている。コミックエッセイ『アスペルガー症候群との上手なつきあい方入門』も好調で、テレビドラマでの監修依頼は引きも切らない。有名なところでは『ATARU』『グッド・ドクター』『ドラゴン桜』などが西脇医師の監修によるものだ。

 精神医療では、まぎれもなく大家。それなのに、超能力者・秋山眞人氏との共著で『波動を上げる生き方』を上梓し《ラッキーバイブス(よい波動)は存在し、そこに波動を合わせることができれば運命も開かれる》と主張。世の常識ある人々の目を白黒させてしまった。

 自分の信じるところを追究し、とことんのめり込むアスペルガーの素晴らしい特性は、今も決して失われてはいない。もちろん“ちょっと不思議”な部分も健在だ。

「“ああ言えばこう言う”というところは今もありますね。(西脇医師は)疲れるとソファで寝ちゃうことが多くて。“ソファだとまっすぐ寝れないから身体に良くないよ”と言うと“昔の埋葬は屈葬だったんだよ”だって(笑)」(前出・和嘉子さん)

 自分を縛る枠から抜け出したいと、自己啓発セミナーに参加したことも。

 このときには1年360万円の特別なセミナーにも参加。卒業試験では2泊3日で東京の茅場町から大阪のリッツ・カールトンホテルまで、スマホもお金も持たずの手ぶら状態で行き着くという経験をした。

「東京駅でエルメスの赤シャツ姿で募金活動をしてみたけど、これはダメ。駅員に交渉してどうにか静岡まで行き、富士宮のスナックでトラック運転手さんをつかまえて高速まで連れて行ってもらい、高速の入り口で大阪行きのトラックをつかまえました。財布も持てなかったから、富士宮ではマックの裏口で残飯の提供をお願いしたら、おばちゃん店員が内緒でマックシェイクまでつけてくれた(笑)」

 自分を変えたいという、おそらくアスペルガーであったからこその苦悩からきている衝動が、この医師をさまざまなことに挑戦させている。そしてその衝動がまた、偏見に臆することなく新たな治療法へと向かわせる。

 あの免疫置換療法も学会からは冷たく無視されたものの、難病に苦しむ人たちからは、熱狂的に歓迎されることとなった。超高濃度ビタミンC点滴と断糖を組み合わせたがん治療は、当初の“トンデモ本”との批判をよそに、今では“良識ある医者”の間でさえ流行しつつある。

「学会でいいと聞くと、まず自分を実験台にして試す。その実験で得たいいところだけを患者さんにフィードバックする。だから信頼できるんですよね」(大村さん)

 思えば、天然痘を予防する種痘を発明したジェンナーも、当時の学会、良識ある人たちからは“トンデモ説”として厳しく非難されたのだ。

「もしかしたら先生が医学の常識をひっくり返し、数年後には先生の治療法や考え方が常識になっているかもしれませんね」

 そう伝えると、西脇医師が半分本気、半分冗談のようにこう呟いた。

「そうならざるを得ないでしょう。だって患者さんが治ってしまって治療に来なくていい状態になっているんですから。実は僕って、スゴい医者なんですよ─」

<取材・文/千羽ひとみ>

せんば・ひとみ フリーライター。神奈川県横浜市生まれ。人物ドキュメントから料理、ビジネス、児童書まで幅広い分野を手がける。近著の『キャラ絵で学ぶ!源氏物語図鑑』ほか、著書多数。

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  • 精神科医は、患者に感情移入するとだめなので、「アスペルガー」は有利。あと、精神医療は、テクニックなので、共感は必要とされない。たぶん、克服はしてないと思う。
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