“バズる大使”レジャバさん『ドラゴンボール』に『ドンキーコング』など、日本文化で感性を育んだ少年時代

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2024年05月12日 06:10  web女性自身

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《JR東海ありがとうございます》



新幹線でなくした財布が戻ってきたという投稿も、ニュースとして報じられるようになった駐日ジョージア大使のティムラズ・レジャバさん(36)。いまや日本でいちばん有名な外国の大使だが、日本の醤油メーカーの“ダメ社員”はどのようにしてジョージアの“バズる大使”となったのか。レジャバさん本人がその半生を語った――。



「どうぞー、よくいらっしゃいました」



流ちょうな日本語で、ティムラズ・レジャバさんが、東京都内の閑静な住宅街にある邸宅に招き入れてくれた。



リビングルームの大きなテレビにはスーパーファミコンが接続されており、そばには、なつかしのゲームソフトが積まれている。テレビ脇の棚に飾られているのは、多数の『ドラゴンボール』のフィギュア。ややオタク感も漂うこの家は、まぎれもなくジョージアの駐日大使の公邸だ。



北はロシア、南はトルコ、アルメニアなどと国境を接し、そして西は黒海に面した北海道よりやや小さな国土を持つジョージア(旧名グルジア)は日本人にはなじみが薄い国だった。



ところが、’19年、レジャバさんが臨時代理大使(当時)として「即位礼正殿の儀」に民族衣装で参列したことが評判に。その後は自らもX(旧Twitter)に積極的に写真やコメントでの発信を続け、5月3日時点でのXのフォロワー数は約33万8千人!



ニュースでもたびたび話題になり、日本におけるジョージアの認知度を爆上がりさせたのだ。フォロワーたちを喜ばせているのは、レジャバさんの日本への深い愛情に満ちた投稿。



「これ、おいしいんですよ」



公邸内の和室でレジャバさんは黒塗りに金箔が施された小さな重箱を広げ、あられや茎わかめなど、日本のお菓子を本誌記者に勧めながら、ジョージア産のミネラルウオーターをコップに注いでくれた。



「ジョージア人が、日本のお菓子を日本人に紹介したり、勧めたりするのも面白いですよね」



そう笑うと、慣れた手つきでスマホをいじり、さっそくXに『女性自身』が取材に来たことを投稿したのだった。



「ジョージアを身近に感じてほしくて、日常的なことをつぶやいています。ジョージアにいる親戚の子が日本に遊びに来たときは、彼が納豆や焼きそば、日本そばを食べている写真を投稿したり、ティッシュが世界最高品質であることを発信したりしています」



この“親戚の子”シリーズはいまや人気企画だという。



「各企業が『ぜひ、自社商品を親戚の子に』と、ふりかけやらせんべいやら、納豆やらを、山のように届けてくれるんです」



3月には『ジョージア大使のつぶや記』(教育評論社)という著書も出版したばかり。そんな“バズる大使”レジャバさんが、自身の半生をつぶやきはじめる。





■「日本には子どもの感性を育むものがたくさんあるんですね」



ティムラズ・レジャバさんは、ジョージアの首都・トビリシで’88年に生まれた。



「父のアレキサンダーは発酵を専門とする生物学の研究者で、母のリカとともに、私を愛情深く育ててくれました」



とはいうものの、幼いころのジョージアの記憶はほとんどない。記憶を掘り起こせるのは、父が知人を頼りに広島大学に博士課程の研究者として入学することになり、来日した3歳のときから。だからレジャバさんは“日本で人生が始まった”と言う。



「日本語は理解していたのに、友達とはしゃべれない子でした。幼いながら、見た目がみんなと違うことで、うまく溶け込めなかったんでしょうね。



保育園でおもちゃを使って遊ぶとき、友達に『どっちにする?』と聞かれても、答えられないんです。『どっちか言って、ねえ、どっち?』と何度も繰り返されるうちに、休み時間が終わるという感じでした」



心配した母は、レジャバ家に日本人の来客があるときは「いろいろ質問されるから、しっかり答えないと鬼が来るよ」と脅かした。



「それが怖くて。たまたま電車が通ったとき『あれ、何?』と聞かれて、満を持して『でんしゃ』って答えたんです。それで“ああ、ちゃんとしゃべれる”と自信がついて、ふつうにコミュニケーションが取れるようになりました」



一般的な日本人の子どものように、アニメや漫画に囲まれて育った。



「アニメの『ドラゴンボール』が好きだったし、スーパーファミコンの『ドンキーコング』でよく遊んでいました。カードゲームも好きで、レアカードやシークレットカードを当てたときの喜びは忘れられません。日本には子どもの感性を育むものがたくさんあるんですね」



すくすくと育ったレジャバ少年は、小2でジョージア、小4でアメリカに移住し、小6で再来日。中・高と日本の学校で勉強やスポーツに打ち込む生活を送っていた。



「ただ高校に入るころから“自分って何者だろう”って考えるようになって。人間、誰しも思春期に考えてしまうものですが、私の場合、日本では珍しいジョージア人だったから、なおさら、考える機会が多かったんだと思います」



そこで自分のルーツを確かめるために、高校の1年間を利用して、ジョージアに帰国したという。



「母国の文学や歴史を学び、料理やダンスにふれたり、チョハという民族衣装を積極的に着たりして、ようやく“これが自分の国の文化だ”と言えるものに出合ったんですね」



足場がしっかり固まったことで、日本文化に思い切り飛び込むことができたのかもしれない。



「ジョージアで通っていたアメリカンスクールでは欧米の大学に進学するのがポピュラーでしたが、私は迷わず日本に戻りました」



早稲田大学に入学し、レジャバさんは大好きな作家である村上春樹も住んでいた「和敬塾」という学生寮で生活を始めた。



だがコンプライアンス的にはかなり“不適切”だったとか。



「もっとも驚いたのは、吐く練習をすること。『お酒はコミュニケーションを取るのに大事なものだから、吐くことに抵抗を持ってはならない』という理屈で、先輩が、何リットルもの水を飲んで、目の前で吐いてみせる。いま考えてみても、ちょっと行きすぎた慣習ですね(笑)。でも、寮生活では上下関係も学び、より深く、日本人のメンタリティを知ることができました」





■「大統領を接待するときにも、キッコーマンでの経験が役立っているんです」



大学生活はつつがなく送ったが、就職活動でつまずいてしまった。



「何社か連続で落ちたことが、ものすごくストレスで、自分のすべてが否定されている気分に。心にダメージを負いました……」



そんなとき、たまたま「キッコーマン」が外国人を募集しており「なんとか拾ってくれた」そうだが、レジャバさんは社会に出るのが怖くて、明るい未来を描くことができなかった。



営業部門に配属されるも、当然のことながら、新入社員に大事な仕事は任されない。



「任されないのだから、やる意味を感じられなかったんです」



仕事はさっぱりだったが、レジャバさんに自身の強みを見いだすきっかけが訪れた。



「春闘の待機時間に新人が余興をするのが習わしで、私が台本を作って、衣装も用意して劇をやったんですね。それがウケたことで自分は社内の余興ではアピールできる存在だと思ったんです」



日本ならではの商習慣や接待文化を学ぶのも楽しかった。



「エレベーターに乗るときの順番、車では誰がどこの座席に座るのか、お祝いをいただいたら半返しをする、どのタイミングでお礼状を書くのかなどを学びました。接待のときは相手に失礼がないよう、何度もお店に足を運んで打ち合わせをするんです」



こうした日本の“おもてなし”が、思わぬ武器になった。



「退職される人の送別会を仕切ったとき、その人は仕事では一度も褒めてくれなかったのに、『本当にありがとう!』って驚くほど喜んでくれたんです。



いま大使となって大統領や首相を接待するときにも、キッコーマンでの経験がものすごく役立っているんです」



宴会では大活躍だったが、仕事ではなかなか将来像を描けず、入社3年で退職を決意した。当時、経済成長が始まったジョージアで再起を図るために帰国。その直後、たまたま訪れたレストランで、のちに結婚するアナさんに出会った。



「高校時代にジョージアに帰国したときに通っていたアメリカンスクールのクラスメートだったんです。第一印象ですか? まあ、別にあまりなかったんですが、あちらは私に気があったみたいで(笑)、ときどき連絡を取り合っていたんです」



レジャバさんとアナさんが、ジョージアでは初めてとなるスーパーマーケットのオンラインデリバリーサービス事業を始めたころから、交際も始まった。



「結婚を意識する年齢でしたし、母ががんを患って体調を悪くしていたので、“家庭を築く姿を見てもらいたい”という思いもあって結婚しました。いちばん上の子が生まれるまで母は頑張ってくれました。孫の顔を見ても、話すことはできませんでしたが、心の中ではすごく喜んでくれたと思います」



ちょうどその前のことだったが、レジャバさんのもとにジョージアの外務大臣から連絡が入った。



「何だろうと緊張したんですが、大使就任の打診でした。ジョージアは日本やアジアとの関係強化を図っていて、日本との関わりが深い人材を探していたんです」



当然、迷いもあった。妻との事業の業績は伸びていたし、子どもも生まれたばかりで、母国での生活は楽しかったから。



「そのとき、たまたま元首相と会う機会があって『あなたは得意分野を伸ばしていくべき。日本との関係が深いのだから、それを強みにしたらいいじゃないか』というアドバイスを受けたんです。妻も『ジョージアに残るにしても、日本に行くにしても、あなたが好きなようにしなさい』と後押ししてくれたんですね」



’19年8月、駐日特命全権公使兼臨時代理大使という大役を背負い、レジャバさんは、また日本の地を踏む決心をしたのだった。



【後編】“バズる大使”レジャバさん「皇室の方々とお会いして感じるのは奥ゆかしさと品格」“日本文化大好き”の理由を明かしたへ続く



(取材・文:小野建史)

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