「心理学修士」を目指す刑事弁護人、法律から「削ぎ落とされた」部分を補完する「リスキリング」の旅

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2024年05月14日 10:30  弁護士ドットコム

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この20年で犯罪は激減した。ピーク時の2002年から約4分の1になり、近年は再犯防止の重要性が指摘される。こうした中、注目されはじめたのが「治療的司法」という分野だ。


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刑事司法を「刑罰を与えるプロセス」ではなく、医療や福祉と連携して「当事者が抱える問題を解決するプロセス」と捉えるもので、結果としての再犯防止も期待できる。依存症がらみの薬物や窃盗事件などが代表的な事例だ。



菅原直美弁護士(東京弁護士会)は、その治療的司法のトップランナーの一人。現在さらなるスキルアップのため、大学院で臨床心理士の資格取得もめざしている。



「(主に経済的に困っている人が利用する)国選弁護を好んでやってきたのですが、弁護士会の補助がわずかにあるくらいで、立証のための費用がどこからも出ないんです。弁護側にとって、臨床心理士との連携ハードルが下がるよう、自分が鑑定したり、仲間をみつけられたりできたらと考えています」



困難を抱えた人の弁護は負担が大きく、金銭面では割に合わないとされる。なぜそこまで打ち込めるのだろうか。



●師匠からの金言「刑事手続は『生き直しの場』」

刑事にのめり込むきっかけは、奈良での司法修習時代に「更生に資する弁護」で知られる故・高野嘉雄弁護士の薫陶を受けたことだった。



刑事弁護といえば、無罪を争う「否認事件」を思い浮かべる人が多いかもしれない。しかし、実際の刑事事件の大多数は「認め事件(公訴事実に争いのない事件)」だ。



弁護人の活動の多くは「情状弁護」といって、犯罪にいたる事情などを考慮した適切な量刑を目指すことになる。第三者からすると、必ずしも同情できないような被疑者・被告人もいるが、深く向き合うからこそ、当事者の抱える問題もみえてくる。



「高野先生は、少年事件が終わってからも担当した少年に勉強を教え続けるような先生。『弁護士は最後の情状証人だ』とよくおっしゃっていました」



数多くの金言を浴びたが、特に印象深かったのが「刑事手続は被疑者・被告人にとっての『生き直しの場』である」というもの。



2010年に弁護士登録すると、1年目の事件で『季刊刑事弁護』の新人賞(優秀賞)を受賞。窃盗の被疑者を福祉につなぐ活動をつづった論文タイトルは「『生き直しの場』を模索すること」にした。





●「弁護人の人間力」に依拠しない情状弁護を

もっと「更生に資する弁護」を実践したいと、2年目に地元の北海道から修習地の奈良に移籍。すでに高野弁護士は亡くなっていたが、刑事事件を千本ノックのように担当した。一方で「レジェンド」を間近で知っていたからこその限界も感じるように。



「高野先生はいろんな人から『よくそこまでできるね』と言われるような弁護士。個性や情熱がすごすぎて、とてもマネできない。でもマネができなかったら、あとに続けないですよね」



罪を犯してしまった人が語る「反省している」や「もうやらない」の言葉を、弁護人の圧倒的な「人間力」ではなく、誰もが実践できる「技術」で客観的に裏付けられないか――。



そんなときに出会ったのが、アメリカを中心に発展していた「治療的司法(therapeutic justice)」だった。



「人対人の関係だから、思い込みや情熱はある程度ないとダメだと思う。でも、相手と同化してしまっては、専門家の意味がなくなってしまう。治療的司法は、一歩引いて本人が何を望んでるのか、何がそれを阻害していて、事件になってしまった原因は何なのかを分析し、エビデンスとして示すことで必要な弁護活動を提供するものです」



具体的には、医療や福祉などにつなぐことで、依存症や生活環境など、犯罪のおおもとを分析し、必要な支援やケアを提供する。



「これまでの手法が間違っていたわけじゃなく、延長線にあるもの。医療や福祉、心理などの学問の発展により、弁護人が提示できる証拠が増えたということかなと思います」



●変わる刑事弁護、裁判官にも変化の兆し

そのため、「治療的司法」は特別なものではなく、「やるべきことを果たす中で自然に実践されている刑事弁護人が多い」と菅原弁護士。実際、この10年ほどで刑事弁護の立証方法はかなり変わってきたという。



法律面では、2016年に再犯防止推進法が成立。弁護側の主張を聞く裁判官の中にも、少しずつケアの視点がみられるようになったという。



たとえば、担当した薬物事件では、執行猶予中の再犯にもかかわらず「再度の執行猶予」という珍しい判決を獲得したことがある。



依存症は、回復途上で再発を繰り返すことが珍しくない。再犯したからといって、ただちに社会から隔離すれば、元に戻ってしまうかもしれない。当事者の状況を勘案し、社会の中で回復をめざしたほうが良いと、裁判官が認識してくれた結果だった。



弁護活動の結果、本人の回復や人生が好転することは何よりの喜びだ。



「今も連絡をとっている元依頼者が何人かいるんですが、再犯せずに社会の中で元気に暮らしています。刑事弁護人になると決めたとき、私が弁護人で良かったと思ってくれる人が一人でもいればと考えました。その人たちはきっとそう思ってくれていると思えるので、私も助けられています」



しかし、成功ばかりではない。困難を抱える当事者が多いため、コミュニケーションがうまくいかず、メンタルにくることも多々ある。



「依頼者と合わないことはありますし、悩みは尽きません。ただ、良かれと思ってしたことが、思い込みにすぎなかったということもありますよね。自分の侵襲性を意識し、関わりかたには注意を払い続けたいです」



情熱的でいながら、どこか冷静。引いたり、寄ったりと視点の位置が変わるのは子どものころからなのだという。



●ドキュメンタリー作家に憧れた学生時代

菅原弁護士が生まれたのは北海道猿払村。ホタテで有名な日本最北の村だが、公務員の政治活動をめぐる憲法判例「猿払事件」の舞台でもある。



数年して札幌市に転居。子どものころは、「誰とでもそれなりに仲が良いけど、仲良しグループに属することもない」タイプだったという。教師からの信頼は厚く、学級委員を任されがち。いつしか集団を俯瞰的に観察する癖がついていた。



決して「好き」なわけではないそうだが、人間という生き物への興味がつのり、ドキュメンタリー作家への憧れが大きくなっていったという。



転機が訪れたのは、マスコミへの就職をめざし、地元の報道機関でアルバイトをしていた北海道大学時代。ちょうど司法試験の合格者を増やすことが検討されていた頃だった。



「司法制度改革について取材していた記者さんが突然、『菅原さん、弁護士に向いているんじゃない』と言い出して。法学部だったけど、一度も考えたことがなかった。でも、なんかピンときたんですよね。今思うと、記者さんたちは、ひどい災害の取材をしても伝えることしかできない。直接手を差し伸べたり、解決したりできないから、まだ学生だった私に自分たちの希望を投影していただけなのかなって思うんですけど…」



●暗黒の司法浪人時代、父親の「かわいそう」に落ち込む

記者の言葉を「間に受けてしまった」ことで、マスコミ就職に向けて順調だった進路は、急に茨だらけに。在学中から旧司法試験を受け始め、択一は早くにクリアしたものの、論文がなかなか受からなかった。



「自分は予備校のような決まったフォーマットで答案が書けるタイプでも、基本書を極めて学者のようなハイレベルな答案を書けるタイプでもなかったんですよね」



一緒に勉強していた同級生や後輩が次々に受かり、また一から受験仲間をつくる。そうこうしているうちに、ベテラン受験生として人に教えることが多くなり…。



大学院に籍を置きながら、毎朝9時には自習室に向かい、夜10時20分の終バスで帰る生活が5〜6年続いた。



「受からない方向でがむしゃらに努力して、深みにはまっていました。最後に落ちたとき、亡くなった父から『こんなに勉強しているのにかわいそう』って言われたんです。親のスネをかじって仕事もせずに勉強しているのに、しみじみと『かわいそう』って。本当に落ち込みました」



受験期間が長すぎて、正確な数はわからないそうだが、「7〜8回は落ちた」という。すでにロースクール制度が始まり数年が経過していた。もう勉強はうんざり。しかし、20代後半の文系修士に就職先はみつからなかった。ローへの入学は「やむを得ず」だったという。



●ローの実務家教員との出会いが転機に

ところが、実際に入学してみると「本当に良かった」という。



まずは、2年間勉強すれば、そのあと3回以内の受験で合否が決まるという点。「旧試は終わりがみえない持久走みたい」だったと振り返る。



同じ「1年生」になったことで、少し歳の離れた「同級生」ともフラットな関係を築けた。一緒に夏フェスに行ったり、学内のスポーツイベントに参加したりと、旧試受験中にはなかった息抜きも。



「私はヘトヘトだったから、おかげで英気を養えた。みんなが私をフレッシュな人に戻してくれました。旧試のときは暗黒時代。今思うと、ローで『生き直し』をさせてもらったのかもしれませんね」



何より大きかったというのが、実務家教員と出会えたことだという。



「私は身近に弁護士がいなかったし、旧試時代は実務家像が全然みえていなかった。実務家教員の講義を聞いて、今まで勉強していたことが実社会とこういうふうにつながっていたのかと、ピースがはまっていく感覚がありました」



その中で、仕事をしているイメージが一番湧きやすかったのが刑事弁護だった。「ここまで人生をかけて勉強したのだから、好きなことやりたい」と一歩を踏み出した。



「法律の勉強って本当に面白くなかった。でも、刑事弁護人になってから、自分は今ある法律や裁判例に盲目的に従うような法律の勉強には向いていなかったのだと思うようになりました」



今では旧司に落ち続けて良かったと思えるという。「実務家教員に出会わなかったら刑事をやっていなかったかもしれないですし」。ただし、「生まれ変われても、もう司法試験は受けません(笑)」。



●「法律から削ぎ落とされているからこそ」心理学の価値

雌伏の期間は長かったが、具体的な「イメージ」をみつけてからの開花は早かった。弁護士1年目から前述の「新人賞」をとった。情状弁護や治療的司法の分野では、一目を置かれる存在になった。奈良から東京に移籍し、活動もさらに広がった。



一方で、やればやるほど司法や制度の限界も感じるようになった。その結果、臨床心理学への関心が生まれてきた。「もう二度と勉強したくないと思っていた私が、なんでまた大学院に通っているんだろう」と笑う。



「心理学って、法律からあえて削ぎ落されてきた部分だと感じます。人間は刑法で想定されているほど合理的でも単純でもないけど、そこに目をつぶることでルール化し、法律にしてきた。だからこそ、心理学を勉強すると自分の弁護活動の反省点や制度に欠けてる部分もみえてきます」



刑事弁護をやりながら、4年かけて心理系の大学の科目を一通り履修。さらに学びを進めようと、2023年4月から大学院に通う。



「刑事弁護ばかりをやっていた私に、たまたま企業法務で数年間の定期収入の見込みができたので、今がチャンスと入学することにしました」



「刑法や弁護士的な考え方がこびりついていると、頭に入ってこない知見がある」として、現在は新規の案件はやらず、刑事弁護人の発想から離れるため、弁護士会などの研修もできるだけ参加を控えているという。



●「法廷の中で真摯に人と向き合う専門職でありたい」

大学院の授業では、さまざまな経歴を持った学友たちと議論を交わす。司法修習時代の「いずみ寮」を思い出すといい、「第二の青春」を楽しんでいる。



ただし、臨床心理士の資格を得るには、大学院を修了しただけでは足りない。1年以上の実務経験がいるという。



「最近、自分は『法律家としての弁護士』には向いていないんじゃないかと思うようになって。いったんは臨床心理士にシフトして、やったうえで融合ができるのなら弁護士を復活させるかもしれない。どちらがメインになるかわかりませんが、ずっと法廷の中で真摯に人と向き合う専門職でありたいなと思います」



世の中や自分をみつめる「カメラ」を増やし続ける菅原弁護士。「死ぬときの走馬灯が『私の人生そのものがドキュメンタリーじゃん』ってなるかもしれないですね(笑)」。






【取材協力弁護士】
菅原 直美(すがわら・なおみ)弁護士
2010年12月弁護士登録。刑事弁護(薬物やギャンブルなどの依存症者の弁護、治療や支援の必要な弁護活動)に力を入れている。成城大学「治療的司法研究センター」客員研究員。
事務所名:吉祥寺リネン法律事務所


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