「両親がやっていた店の復活」「ふるさとを盛り上げたい」。人との「縁」に誠実に向き合ってきた若大将が巣鴨に居酒屋を立ち上げるまで【店主の休日】

0

2024年05月19日 08:50  週プレNEWS

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

週プレNEWS

東京・巣鴨にある「八戸酒肴処居酒屋 はら匠」の店主、原辰徳さん(右)と筆者

連載【店主の休日】第5回 「八戸酒肴処居酒屋 はら匠」原辰徳さん

客たちの心を癒す天国のような飲食店。そんな名店を切り盛りする大将、女将、もとい店主たちは、どんな店で自分たちを癒しているのか? 店主たちが愛する店はきっと旨いだけの店じゃない。

コの字酒場探検家、ポテサラ探求家などの肩書きで知られ、酒と料理をこよなく愛する文筆家の加藤ジャンプ氏が、名店の店主たち行きつけの店で、店主たちと酒を酌み交わしながらライフヒストリーを聞く連載「店主の休日」。

そこには、知られざる店主たちの半生記と、誰しもが聞きたかった人生のヒントがある......。

* * *

【写真】臭みなんて一切ないハツ刺しとレバ刺し

■待ち合わせの相手は、ハラタツノリさん

その日、私は原辰徳さんと東京・練馬区にある西武池袋線富士見台駅前で待ち合わせた 。

もう一度言うが、待ち合わせの相手は、ハラタツノリさんである。

「もう、年中いじられてますよ」

と、いつも原辰徳さんは、頭をかく。原辰徳さんは、トゲ抜き地蔵で有名な豊島区巣鴨にある居酒屋「はら匠」の若大将だ。店は父親とふたりで営んでいる。そういうところも、東海大相模時代の原辰徳感がある。

2019年に開業した「はら匠」にはじめて寄ったのは、たぶん開業から間もない頃だ。

「本日のわんつか盛り」という一見なんだかよくわからないメニューに心惹かれて注文したところ、小鉢がたくさんやってきた。サバの燻製にしたのや、ササゲという野菜の炒めもの(これがおそろしく後を引く)、長芋のなにか(薄れているが、旨かった記憶だけははっきりしている)......。何品だったか忘却してしまったが、ひとつひとつ丁寧にこしられられたのがよくわかる、素朴なのに繊細な味わいで、旨くて、当然ながら、腕利きの酒泥棒ばかりなのであった。聞けば、八戸の、普通の家で食べる料理をイメージしてセットにしているというではないか。

なぜ八戸?

実は、お店の名前は正しくは「八戸酒肴処居酒屋 はら匠」という。つまり、原さんの店は、全面的に八戸主義の店なのである。当然のように、原辰徳さんは青森県八戸市の出身で、父親とふたりでこの店を切り盛りしている。開業から半年もたたずにコロナ禍に飲み込まれたが、しっかり生き抜いて、今や連日大盛況である。

肉、肴、野菜、なんでも揃っているが、そのどれもが、ちょっとほかの店とは違う旨い一品にしあげてある。そうした料理のベースには青森の郷土料理があるのはいうまでもないのだが、それとは、また違う、ちょっと洒落たエッセンスが随所に見られる。刺し盛りひとつとってみても、鮮度の良さはいつも感心してしまうし、盛り付けも、飲兵衛の心をつかむ。一切れの刺身が「いちばん酒に合いそうに見える角度」で盛られている。そういう抜かりない心配りが、すべての料理に行き届いている店だ。

旨い料理にくわえて原さん父子のホスピタリティが店全体を覆っている。そして店内は、青森の郷土玩具やサッカーJ3で奮闘するヴァンラーレ八戸のポスターがでかでかと貼られていたりして、てらうことなく「青森推し」だ。この店に行って飲み食いしたら、いきなり青森にフォーリンラブ。そんな居酒屋である。

私も青森とは特別には縁のない人生をおくってきたが、「はら匠」に行ってから、折に触れて気持ちは青森観光大使である。なにしろ旨い。そして、店を営む原さんと父親の人柄が爽やかで、店が圧倒的に心地良い。だから、ここで一杯やると、急に青森が故郷みたいに思えてくるのである。

料理も接客も、素朴さと繊細さが同居し、味も居心地も酒場に必要ななにかが揃っている。それも、すべて控え目に。よほど居酒屋に縁のある人生なのだろうと推測したが、実は、そうでもなくて、そもそも原さんが料理の修業をしたのは、新宿の京王プラザホテルで、それもフレンチだった、というのだ......。店で原さんのルーツをちょこちょこと聞いているうちに、もう好奇心がおさえきれなくなった。

ちょっと、原さんの行きつけで一杯どうですか......

「まだ今年開いたばかりなんですが、いい店があるので、そこで」

と、あいなり向かった先が、富士見台駅近くにある「やきとん炭治郎」というコの字酒場なのであった。

原さん、いきなり、私と呑むのに、コの字酒場を指定する。心憎い人なのである。

「ジャンプさーん」

駅前に現れた辰徳さんのことが、最初誰だかわからなかった。店にいるときはユニフォームの黒いTシャツ姿の原さんが、その日は、黒いトレーナーに黒いキャップをかぶっている。休日の原元監督というか、FANCLのCMで見かけるような原元監督スタイルではなく、なんというか、オフの役者さんみたいな雰囲気が漂っていて、まったく、いつもの原さんとは違うのであった。オンオフの切り替えがはっきりしているのだ。これまでいろんな「プロ」と会ってきたが、経験上はっきり言えるのは、オンとオフの切り替えが上手い人ほど、いい仕事をすることだ。原さん、こりゃあ、いい仕事をするわけだ。

<「やきとん炭治郎」までは駅から歩いてだいたい5分。富士見台駅は線路にそってなかなか味のある商店街伸びていて、「炭治郎」もその並びにある。今年開いたという店なのに、どういうわけか、街にしっくりとけこんでいる。午後4時の口開けから、界隈の、かなり強者と見受けられる飲兵衛たちが、どんどんやって来るのである。気がつけばコの字カウンターが、往年の立石の名コの字酒場「江戸ッ子」のようにベテラン勢で賑やかになっている。街のベテラン飲兵衛に愛される店は間違いない。原さんと私は、そろって生ビールを注文した。すっきりと旨い。サーバーの手入れが行き届いているのは云うまでもない>

■寿司は旨いけど、どうして高いんだろう

原さんは1982年の生まれだ。両親ともに青森の人で、原さんも高校を卒業するまでずっと八戸に暮らしてきた。原さんの家は、当時としてはちょっと変則的なスタイルだったようだ。

「母がスナックを営んでいて、父はサラリーマンだったんです。夕食は、仕事から帰ってきた父がつくって食べて、母はお店。だから、私にとっての家庭料理は、父のつくる、八戸の料理だったんですよ」

原さんのお父さんは、いま「はら匠」で「親父のおすすめの一品」というカテゴリーの肴を担当している。だが、当時は飲食とはまったく無関係な仕事をするサラリーマンだった。といっても......

「父は、大学入試の願書を提出するといって家を出て、そのまま寿司屋さんに住み込みで弟子入りしてしまったんです。祖父母は父に、岩手大に行ってもらいたかったらしいのですが、父は違った。でも相談すればいいのに、そういう大胆なことを黙ってやるんですよね(笑)」

寿司屋修業を終え、両親は結婚。辰徳さんが生まれ、熱狂的なジャイアンツファンだった原さんの父親は迷うことなく、原さんを「辰徳」と名づけた。

「父は、生まれる前から、男の子が生まれたら辰徳にすると決めていたそうです」

と原さんは言っていたが、私も直接お父上から聞いているので間違いない。

両親は、一時小料理屋「原」という店を開いた。だが、お父さんの料理人生活はほどなくして終わる。母がスナック経営(一時は3店舗を同時に営んでいた)に乗り出し、父は料理とは関係のないサラリーマン生活にはいったのだ。そして原少年は毎日、父の郷土料理を食べてすくすく育った。そんな原さんが将来酒場をやろうと思ったのは、

「小学校の頃、寿司は旨いけど、どうして高いんだろう、って疑問がふっとわいたんですよ。将来、私だったら安く握って出すのに、って。でも、寿司屋じゃ寿司だけだなあ、って。いろいろ美味しいものがあるし、だったら居酒屋になったら、なんでも出せるな、将来やりたいなって、自然と思っていました」

だが、高校を出て原さんが選んだ進路は飲食店でも和食の専門学校でもなく、池袋にある調理師学校の洋食のコースだった。

「割烹の、まずは10年皿洗って修業みたいな世界が、ほんとうに嫌だったんですよ(笑)。あとは暴力も(笑)。とすると、洋食だよなあ、って」

その気持ち、よくわかる。20年くらい前、新宿区内の、しっとりした雰囲気のある盛り場の裏通りで、割烹着の若者が、同じく割烹着の若者に蹴られる光景を見たことがある。あれを見て私も「板前、ムリ」と思ったものだ。

<ビールを飲み干すとハツ刺しとレバ刺し、それにポテトサラダが来た。刺しといってももちろん生のままではない。ほどよく火を通してある。ハツはコリっという歯触りがリズミカルで、しっかりした繊維質がほぐれると隙間から旨い汁気があふれる。レバは臭みなんて一切なく、コク深さが酒を誘う。たまらず一合ボトルの日本酒を頼んで流しこむ。ポテトサラダは香り豊かでいて後味は爽快。これは丼でいける......>

■心底旨かった下積み時代のキンキ

専門学校で洋食の勉強を終えた原さんは、新宿にある京王プラザホテルの洋食部門に就職した。京王プラザホテルは1971年開業で、開業当時は世界一の高層ホテルとしても知られたホテルだ。ちなみに1976年の「格闘技世界一決定戦」、いわゆる"猪木アリ状態"の語源となったアントニオ猪木対モハメド・アリの記者会見の会場でもあった。そんな名門ホテルの厨房は、きっとキラキラと輝く場所、だと原さんは思っていた。しかし...。

「なんてところに来てしまったんだと思いました。割烹の板前さんの怖い世界から逃れて、華やかな洋食の世界に入ったつもりだったんですが、初日にそれが音をたてて崩れまして。新人として厨房で紹介されるとき、スタッフがぞろりと並んで迎えてくれるんですが、その人たちが、全員おじさん。しかも怖そうなおじさんで、喋ると声が枯れてて。あれ、これ板前の世界と同じじゃん......って」

原さんの言葉を聞いていて、私の脳裏には浅田次郎さんの『プリズンホテル』がよぎったが、もちろん、かの名門ホテルがそんな怖い場所なわけもなく、原さんの第一印象は杞憂におわる。

「みんな優しかったし、面倒見のいい人ばかりでした。トップの人が立派で、下積みの間にも、グリャーダン(グリル部門)やフリチュリエ(揚げ物)など、いろんな部門をまわらせてくれたんです。ほんとうになかなかないことですけど、まだまだ下っ端のうちに肉・魚のメインしかやらない部門に連れていかれて、やってみろ、と経験させてくれたり。ソースを作らせてもらうことまであって。恵まれてました」

原さんには、持って生まれた愛されキャラが備わっているような気がする。「はら匠」での原さんは、ペラペラと口数が多いほうではない。ただ、要所要所で面白い一言をさしこむし、料理を持って来るタイミングも絶妙。一皿を持ってきての一言も、くすぐるコメントだったりする。たぶん無自覚のことだろうし、これこそ彼のキャラクターなのだろう。そのキャラクターもとい原さんの持つ間合いが、酒を進めるし心地良さを醸し出す。そういう人柄が、おそらく最初の職場でも効果を発揮したのではないだろうか。

順調にキャリアをかさねていた原さんだったが、3年目に転機をむかえた。

別部署への異動だった。まだ洋食の道に入って3年......。悩んだ末、原さんはホテルを辞めた。それからしばらくは、ほぼ「プータロー」。時々知人の店の手伝いをするような日々が続いた。ある日、アパートの部屋でふと気づいたという。

「アパートの部屋で(焼酎の)ビックマンの何リットルも入っているボトルを膝下に置いて、水道水でそれを割って呑んでたら、急に思ったんですよ。おれ、何しに東京に出て来たんだっけ、って」

そんな原さんの心の叫びが届いたかのように、その頃、同郷の友人から連絡があった。六本木にある割烹が人を求めているという話をもってきたのだ。悩む余地はなかった。あれほど、嫌だった、鉄拳制裁の割烹の世界に、原さんは飛び込んだのだ。

「居酒屋をやるには割烹も知っておかないと、ってその時はなぜか思ったんですよ。実際に入ってみたら、やっぱりちゃんと怖かった(笑)。あとは無茶苦茶に働かなくてはいけなくて、入って早々に『タイムカードは切らなくていいから』と言われました(笑)」

だが、そこで我武者羅に働いた原さんは、半年で焼き場を担当するまでになった。異例のことだった。語弊はあるが、これは野球で言えば、新人でクリンナップに抜擢されるようなものである。それだけ仕事熱心だから、やはり食に対する探究心は並々ならぬものがった。ある日、

「あまりに美しくて旨そうなキンキが入荷したんです」

どうしても、それを食べたい。原さんはおさえきれない気持ちを抱え、一計を案じた。

「わざと一尾を床に落とそうと思ったんです。落としたら、その一尾はもうお客さんには出せない。でも、洗えばきっと食べられる、って考えてしまって。そう思ったら、自然とキンキをポロリと落としていました。するとすぐさま、ふたつ上の厨房の兄さんに蹴られました」

――キックだけ? 殴られなかったですか?

「グーのあと、平手打ちされました」

だが、その後、意外な展開が待っていた。

「私を殴った先輩がやってきて、『さっきは蹴って申し訳なかった。どうする、そのキンキ』って言うんです。即座に『焼き直します』って言いました。そしたら先輩が『ごめん、食え』って」

――ということは......

「作戦どおりです」

原さん、食に関しては、したたかなのであった。ちなみに、そのキンキは、心底旨かったらしい。

■親子でやらないといけなかった

割烹で順調にキャリアを重ねていた原さんだったが、ここでも組織の改変の波に巻き込まれることになってしまった。勤めていた割烹のオーナーが、同じ地域に焼き鳥屋を出店することになり、割烹は閉店しスタッフは解散するということになってしまったのだ。だが、

「他の人は辞めてもらうが、君には焼き鳥屋のほうで頑張ってほしい、引き抜きたいと言われたんです。ただ、やっぱり焼き鳥屋には興味がなくて、結局、私も辞めますって言っていました。それで、ほかの人は会社都合で辞めたということで閉店後も給料が出たらしいんですが、私は引き抜きを断ったんで自己都合ということになり、いきなり無収入というオチがつきました」

27歳にして、ふたたび原さんの進路は宙ぶらりんになってしまった。そんなとき、またしても青森の仲間に誘われた。笹塚にある、八戸をフィーチャーした炉端焼き店に飲みに行ったのだ。

「八戸のものをつかって郷土料理を出す店なんですが、ぱっと、頭のなかがはっきりして。これがやりたかったことだよ、って。18で東京に出てきて、ちょうど10年目に、それを明確に思い出したんです」

<「炭治郎」の焼き物は、嫌味がないが、個性はしっかりある。大きめの粒をしっかりと焼いているが、汁気と柔らかな仕上がりは流石。タン、ハツ、ハラミ、シロ......。どんどん食べてしまう。濃いめのタレはこれからどんどん育っていくのだろうが、すでに、深みのある味わいである。こういうしっかりした味をしばらく堪能すると、人は贅沢だからちょっとさっぱりしたのが恋しくなる。それでガツのネギポン酢を追加した。千六本にしたことで、さらにコリコリ感が増したガツと、ちょっと刺激的なネギとが、ポン酢でもって一纏(まと)めになって、口中に充実感と爽快感を呼び込む傑作になっていた......>

地元の縁もあって、件の炉端焼き店で働くことになった原さん。またしても、あっという間に、その場所に不可欠な人としてはまった。当時、その店は食のプロがいない状態で営まれていたそうで、そこに、足りなかった「プロ」というピースとして原さんは、すんなりとフィットした、ということらしい。

それから10年ほどの間に料理長にまでなった原さんは、東京にいる青森県人、八戸の仲間とどんどん交流を深めていった。東京で開かれる八戸市観光イベントや青梅マラソンのような催しに参加して料理をふるまったり、調理実習の講師をしたり、ネットワークをどんどん広げていった。

昔、思っていた「将来、居酒屋をやろう」という目標に「ふるさとを盛りあげたい」という思いがあいまって、原さんの勢いは増していき、いよいよ独立開業のために具体的に動きだした。八戸のせんべい汁の普及活動をしている同じ高校の先輩にも協力してもらって店探しをはじめたところ、巣鴨に物件を見つける。

「ちょうどいいと思ったんですが、すでに地元の別の方が打診しているという話で。こりゃあ駄目だろうと思いつつも、大家さんに向けてプレゼン資料を作ったんです。どこ生まれ、どこの学校を出てというところから、どんな店をやりたいか、と、細々書き込んだんですが、まさか、ということがあって」

ここで原さんは、ぐいっとビールをあおったと思ったら、突然、

「ご無沙汰してます!」

と、炭治郎のコの字カウンターの向かいに座ったお客さんに声をかけた。以前、炭治郎に来たとき居合わせた常連さんなのだそうだ。それにしても、原さんの、その人懐っこい笑顔。これは、誰もが胸襟を開く。ひとしきり、件の常連さんと挨拶の言葉をかわした後、原さんがつづけた。

「で、そのプレゼン資料を読んだ大家さんから連絡があって。これは、断りの電話だろうと思って出たところ、『あなた、私の高校の後輩なんじゃないの』って」

――すごい!

「怖っ!と思いました(笑)。どこまで人の縁にめぐまれているんだって」

こうして件の物件を借りることになり、開業準備をすすめるなか、

「自分のなかで、親子でやらないといけなかったんです。両親がやっていた『小料理 原』を復活させる、という気持ちだったので、両親を呼び寄せました。なんとか5年目を迎えられて、ホッとしてます」

そして店のメニューには、 3つのカテゴリーを設けた。「親父のおすすめの一品」「息子のおすすめの一品」そして「親子のタッグメニュー」だ。そのすべてに青森の、八戸のエッセンスが注ぎ込まれている。当初は母も一緒に厨房にいた。だが、一度帰郷した直後に、コロナによる行動制限がしかれ、そのまま八戸にいるという。

コロナ禍で、店は大変だった。それでも旨い弁当などが評判をよび、店は難局をきりぬけ、今では、連日にぎわっている。コロナ明けの昨年末などは、予約で電話がパンクしかけたらしい。これから先、巣鴨の名店と呼ばれる日もそう遠くはあるまい。

原さんの半生、本人が言うように地元の縁に恵まれてきたのは事実だろう。ただ、巡り合った縁に、毎回誠実に向き合ってきたのは間違いなく本人の力だ。そして、紆余曲折あったものの、実は全然ブレることなく料理と店の修業をかさねた結果、故郷の味を提供する酒場を開くにいたっている。こういう人の店は良い。

ちなみに「はら匠」の壁には何人かのサイン色紙が飾られている。そのなかに、原辰徳さんのものもあるのだが、よく見たらモノマネ芸人さんのサインだった。まだ御本人は来たことがないらしい。

文/加藤ジャンプ

    前日のランキングへ

    ニュース設定