世界が称賛する分厚いタマゴサンド『喫茶アメリカン』の店主が語る「俺の生きがい」

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2024年05月26日 17:00  週刊女性PRIME

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東銀座『喫茶アメリカン』店主・原口誠さん(72)撮影/渡邉智裕

「うわ!」「ヤバい、これ」「すご〜い」「どうしよう!」

 目の前に置かれたサンドイッチに歓声が上がる。それもそのはず、皿の上のタマゴサンドは、分厚い食パンの上に具のタマゴサラダが山盛り。パンの間に挟まれた具の2倍ほどもあるタマゴサラダは、皿からこぼれ落ちそうなほどのボリュームだ。

『喫茶アメリカン』の日本一のタマゴサンド

 初めての客は、どうやって食べていいのかわからず、ひとしきり写真を撮ったのちにしばし皿の上の巨大サンドイッチと対峙する。いや、何回か来店したことのある客さえも「前よりタマゴ増えてない?」と困惑しながらも、なんだかうれしそうにしている。

 そんな幸福な光景が見られるのが東京・東銀座に店を構え、今年41周年を迎える『喫茶アメリカン』だ。誰が呼んだか“日本一のタマゴサンドを出す店”である。1日に使う卵は約600個、食パンおよそ240斤。恐ろしい量だ。平日は朝5時から仕込みを始める。それでも時間が足りず、店休日の日曜日も8時間近く仕込みを行う。

 1食分のタマゴサンドで、厚切り食パンは約1斤、卵は8個分程度を使っている。

「最初はこんなふうじゃなかったよ。パンも薄かったし、野菜の入った普通のタマゴサンドでさ。だけど“もう面倒くさいな”と思ってこうしちゃった。トマトとレタスだと水っぽくなるしね。卵って、昔はすごく原価が安かったじゃない。だからほかのメニューと同じ金額なのは悪いと思って、どんどん山盛りになっちゃってさ」

 笑いながら話すのは、マスターの原口誠さん。陽気な笑顔、口を開けば止まらない軽口。サービス精神旺盛な人柄は言わずもがなだ。厨房に立つ原口さんを見ていると、豪快にタマゴサラダをひとすくい、もうひとすくい、おまけにもうひとすくい……と、気前よくパンにのせていく。客席から手元まで見えることはないものの、その姿はまるでエンターテイナーのようだ。

「うん。子どものころからやっぱり目立ちたいとか、人を喜ばせたいとか驚かせたいとか、基本的にはそういう性格なのは変わらないかな」

 サービス精神に加え、こだわりも半端ではない。8時半と11時半からの2部制で営業する店には、開店前に2回パンの配達がある。焼きたてのパンを食べてほしいという思いゆえだ。特注の食パンは、赤羽橋にある『新橋ベーカリー三田店』から毎日届く。

「最近、高級食パンとかあるけどさ、本当においしいのは焼きたてだ。冷めたら高級だってうまくないだろ。やれ高級でございなんて言いながら、冷めて乾いたパン売ってたらしょうがないよな。ご飯だって炊きたてがうまいんだ。ホラ、持ってみな」

 そう言って渡されたのは、配達されたばかりの3斤分の食パン1本。その熱さと重たさ、しっとりを超えた、ムッチムチの触り心地に驚く。

「触れないくらい熱いだろ? 普通は焼きたてっていっても、棚で冷ましてから配達するんだよ。でもうちは特別。焼きたてをすぐ袋に入れて配達してもらってるの」

 言葉どおり、パンの袋が湯気で曇っている。ちぎった食パンを食べさせてもらうと、優しい甘さがふんわりと口中に広がる。そして想像をはるかに超えるもっちりとした食感が舌を喜ばせる。香ばしいパンの匂いに満たされた店内に入ろうと、目の前の通りにはすでに開店を待つ人の列ができている。平日のみの営業のため、有休を取って食べに来る人も稀ではない。

母から借りた2000万円で店探し

 歌舞伎座の裏手、東銀座駅から徒歩2分の路地に喫茶アメリカンはある。目印は緑色のテント。「SANDWICH AMERICAN」と懐かしい感じのロゴで書かれている。店内に足を踏み入れると、24席のこぢんまりした空間。家族写真や手書きの標語、芸能人の色紙、ペナント、ポスターなどで壁から天井まで埋め尽くされている。

 厨房のそばに貼られた原口さん手書きのステッカーには、《1983年 アメリカン開店 東京ディズニーランドopen 安全地帯『ワインレッドの心』ヒット》と書かれている。開店は、1983年5月17日火曜日。当時のモーニングセットは380円、開店祝いにはオリジナルの“テレフォン手帳”を配ったという。

「この店を開いたのは、俺が31歳のときだね。あのぐらいの年って怖いものなしなんだよ。いざとなったら肉体労働でも何でもやってやるって。今はもうおじいちゃんになって弱っちゃったけどさ」

 原口さんは佐賀県出身。大学の商学部に在学中から、後に妻となる京子さんと交際をスタート。数々のアルバイトを経験し、卒業後は外資系の会社で働いていたが、社風が合わずに退社。その後、大手食肉加工メーカーのエリート営業マンとして30歳まで勤めた。しかし、“やっぱり会社勤めが性に合わない”と実感し、独立を決意した。

「あのころはさ、いい会社に入って定年まで勤め上げるのが当たり前って時代でしょ。でも、自分にとっては会社ってのがどうしても窮屈で合わなかった。だから1人で何かやってみようと思ったんだ。先輩で喫茶店をやっている人がいたのと、食肉加工の会社員時代には仕事柄、サンドイッチを作ったりもしていたから喫茶店をやろうかなってさ」

 会社を退職した当時、原口さんはすでに結婚しており、2人の幼い娘も生まれていた。マンションは買ったばかり。当然、店の開業資金はない。頼ったのは、故郷・佐賀にいる母親だった。

「“絶対返すけん。東京で店を開けるには、2000万円ぐらい必要だから、貸してくれ”と頼んだ」

 小学校の教師だった母親は、手つかずの地方公務員の退職金を全額、信用金庫から下ろして息子に貸し与えた。余計な説教も詮索もなし。

「しょうがなかね」

 と、ひと言だけだった。

 母親から借りた2000万円を元手に、原口さんは物件探しをスタートさせた。

「携帯がない時代だから、物件探しも大変だよ。毎日、各駅停車で不動産会社を一軒一軒回る。最初は漠然と、オフィス街でやりたいと思ってた。だから新橋とか神田とか渋谷らへんとか、オフィス街を回ってた。でも見つからないんで諦めて、昨日は京王線、今日は小田急線、明日は東横線……と、もう各駅停車の旅だよ。半年間、失業保険をもらいながら何百軒も回った」

 だが、不動産業者からの電話は1本もなかった。

「会社を辞めた人間っていうのは、名刺もないから何者でもない。信用も何もない。途中でちょっとめげて、パチンコ屋で遊んでたよ。こりゃもうダメだなと思って」

こだわったのは1階の店舗

 原口さんが店舗探しでこだわったのは、1階の店舗であること。上階では客が呼べないからだ。

「でもさ、路面店の空き店舗が見つかっても、不動産情報が出たときはとっくに決まってる。必死に探しても見つからないんだよ。諦めきれなくて、店舗物件を扱わない新橋の不動産会社に行ってみた。店舗用物件ありませんか、と」

 そこで紹介されたのが、銀座の不動産会社だった。渡された地図を頼りに、昭和通りに面した雑居ビルの5階に行くと強面の男性が待っていた。

「怪しいオヤジでさ。いきなり“店やりたいの? 金あるの?”と聞いてきた」

「金はあります」と答えた原口さんに、その男性が紹介したのは、まだ営業中の喫茶店だった。インベーダーのテーブルゲームが置かれた、ひっそりとした雰囲気の喫茶店で、男性客が1人、ゲームをしていたのを覚えているという。原口さんは、1日、2日待ってください、とその不動産業者に頭を下げた。

「銀座で店をやるなんて思ってないから、右も左もわからない。でも今思えば、そのころの最高の場所だったんだよな。すぐそこに電通の本社、日産自動車の本社があってさ。そして歌舞伎座。マガジンハウスもそこでしょ。当時のマガジンハウスは全盛期で、ボーナスの札束が立ったらしいよ」

 ここでやるしかない。原口さんは覚悟を決めた。しかし、保証金800万円、造作費用300万円……どんどん資金が消えていく。母親に用立ててもらった2000万円では足りなかった。

「しょうがねえと、持ってたマンションを売ったよ」

 実はこのマンションを買うにも、佐賀の母の助けがあったのだ。

「母ちゃんに相談して“家を買うから300万円貸してくれ”って。したら“東京ば、300万で家ば買えるとね”と。ローンなんて言葉のない時代だから“月賦や、月賦”って説明した。東京出てきてすぐのとき、丸井で何か買ったらすごい怒られたんだよね。“丸井って、それ、月賦の会社じゃろ。騙されとっとよ。現金で買わんとね!”ってさ。がばい(すごい)母ちゃんで、太っ腹。結局、稼げばよかよか、って」

 こうして1983年5月、喫茶アメリカンは開店した。その時、原口さんは決意したという。

「母親が生きている間は絶対に店を続ける」

やんちゃな跡取り息子としっかり者の妻

 原口さんは出身地である佐賀県を愛している。喫茶アメリカンの店内を見回すと、2007年に母校・佐賀北高校が甲子園で優勝したときの横断幕や、佐賀県の観光ポスター、地元スポーツチームのグッズを目にすることができる。サンドイッチを提供する皿も有田焼だ。時にはJリーグ・サガン鳥栖のユニフォームTシャツで店に立つことだってある。

 原口さんの両親は共に地方公務員で、姉と弟がいる。

「家族の話をしだしたら、いろいろ面倒くさいんだよな。俺の姉御も腹違いやし……。2年ぐらい前に死んだいとこなんかさ、いとこだと思ってたら、実は俺の腹違いの兄貴だったんだって。そんなの死んでから聞いてさ……。俺の家族はいろいろあるんだよ」

 饒舌な原口さんが、急に訥弁になる。

 両親は共に再婚。原口さんの本当の名字は、江頭だという。佐賀県出身のタレント、江頭2:50と同じ。江頭は佐賀県に多い名字で、県内には約4000人の江頭姓がいるといわれる。

「親父は養子に入って名前が変わったけど、本当だったら俺は江頭誠だった。原口家に子どもがいなくて、親父が養子に入ることになった。ややこしいのは、おふくろも養子に入ってるんだよね。70年前って、そういうことを普通にやってたんだよな」

 原口さんが生まれたとき、一族は喜びに沸き立ったという。ようやく生まれた跡取り息子として、それは大事に育てられた。

「うちのおふくろが言ってた。おまえが生まれたときは、親戚中が集まって毎日飲み会で大騒ぎやったよ、と」

小さいころは何をやっても三日坊主

 幼い日の原口さんが写るスナップが店内に飾られている。当時、とても高価であっただろう乳母車に三輪車、そして鯉のぼりと共に写る坊ちゃん然とした原口さん。その鯉のぼりの大きさが、原口家の喜びと期待を表している。

 天真爛漫に育った原口さんは“小さいころは何をやっても三日坊主だった”と笑う。そんな原口さんが生涯の妻、京子さんに出会ったのは、今から60年ほど前、中学生のころであった。

「嫌なんだよなあ、その話するの!(笑) あいつとは地元の中学で同じクラスだった。12歳ぐらいからお互いに知ってるんだよな。あいつは言うならば高嶺の花。勉強はクラスでいつも上位だったよ。俺が10番目ぐらいをウロウロしてるときにさ。いつだって俺のほうが下なんだよね」

 原口少年は優等生の京子さんに淡い恋心を抱いていた。

「あいつは勉強ができるから、佐賀でいちばん頭のいい高校に行った。俺はやっぱりかなわないから2番目の高校に行って、ずっとケンカに明け暮れてたね(笑)。あいつはすごいよな。一緒に東京に出てきてからも、大学の独文学科なんかに進んで、いい勤め先に内定しちゃってさ」

 やんちゃな原口さんとしっかり者の京子さん。その結婚には反対の声もあったというが、押し切った。長い付き合いである糟糠の妻に、原口さんは頭が上がらない。

他の男とも付き合ってた

「でもさ、かあちゃんは大学時代、他の男とも付き合ってたんだよ。部屋で鉢合わせしたこともある。あの人はなんかモテたから、そういうのはいくらでもあるよ。まあ、ちっちゃいことだけどな。黙ってようと思ってたけど、俺もいつ死ぬかわからないし」

 “気にしてないけどな”と何度も繰り返す原口さん。

「あいつはすごいんだよな。マンション売って団地で暮らしていたとき、うちに保険のセールスレディーが来たわけ。そうしたら、かあちゃんのほうが全然知識があって、相手をやり込めちゃったんだ。相手もびっくりだよ。それで“すごくよくご存じですね。よかったら一緒にやりませんか”なんて誘われてさ」

 それをきっかけに、京子さんは保険のセールスの仕事を始める。最初は子育てと両立させるために週2〜3日のパート勤務だったが、その優秀さをすぐに認められ、本社の正社員として働き始めた。

「俺が店をやってて食えないと思ったから、保険会社で働いてくれたんだよ。こんな親父のもとで、子ども2人も育てきれないと思ったんだろうな。本当に食えなくて生活保護の申請を考えたこともあったよ。まぁ、かあちゃんと娘が稼いでたから、ダメって断られるのはわかってたけどね」

 開店当初からバブルの崩壊を経て現在まで、不安定な客商売を支えたのは京子さんの固定収入だった。それだけではない。店の経理を担当してきたのも京子さんだ。会計ソフトもない時代から、そろばんをはじき大学ノートに数字を記す、昔ながらの経理で店を支えた。税務調査に訪れた税務署員から“ものすごくきちんとした帳簿です。申告漏れは一切ありませんでした”と褒めたたえられたことも。

 数字の苦手な原口さんは“俺は今も原価計算ができないけどな〜”と舌を出す。経営も夫婦関係も、順風満帆で来たわけではない。離婚届も何回書いたかわからない。

「今はさ“もう、おまえにいい人いたらどこか行っていいよ”なんて言ってるんだよ。俺は勉強もできない、金もないしさ。まぁそれでも昔は違う魅力がいっぱいあったんじゃないの? 若いころの俺はなかなかカッコよかったしさ」

 佐賀一の進学校に進んだ優等生は、原口さんのやんちゃな脱線人生を見て嘆息し、あきれながらも、決して別れなかった。その理由は何か?

「私って優しいから、見捨てられないのよ(笑)。それにまじめだから“最後までやらないと”って思っちゃうタイプなの。第一、この人、お金ないじゃない? 私が放り出したら生きていけないでしょ。この人の妻なんて、私だから務まるんだと思うわよ」

 と、京子さんは笑う。素直な言葉は出なくとも、お互い惚れ合い、温かく支え合って生きてきた60年間が透けて見えるようだ。

 大企業を辞め、喫茶店をやりたいという夫に対しても、京子さんは何も言わなかった。“本人がやりたいって言うんだから”と応援した。次女がアメリカ留学したいと言ったときも賛成し、1人で学費を工面したのは京子さんだ。次女が大学時代にアメリカで過ごした学費や生活費の総額は2000万円を超えたという。

「“お金、大丈夫?”なんて娘が言うから、“昔から日本には、金は天下の回りものっていう言葉があるんだから、どっかでお金が回るのよ”と答えたわ。今じゃ次女がすごい働いて、何倍にもして返してくれてるのよ」

 そう語る母の横で、長女の真実さんはつぶやく。

「お母さん、頑張ったよね」

 “私ももうゆっくりしたいわよ”と、笑いながら語る京子さんだが、保険会社を定年退職した今では毎日、真実さんと共に店を手伝っている。もちろん素直になれない夫婦2人のこと、口ゲンカは日常茶飯事だ。

「常連のお客さんにも心配されるほどなんですよ(笑)」

 と真実さんが打ち明ける。

「でも父ちゃんが、お客さんに“一緒に写真を撮ってください”なんて言われているのを見ると、やっぱりすごいなって思います。うれしいね、頑張ってきてよかったねって。母もきっと同じ思いで今お店を手伝っているんだろうな。父にはこれからも、身体に気をつけて長くお店を続けてほしいですね」(真実さん)

 店内には、原口さんと京子さんの若いころの写真が張られている。どこで撮ったのかと尋ねると2人から同時に“佐賀”と答えが返ってきた。

「若かったよね。22歳ぐらいかな」

 遠くを見つめる京子さんに原口さんもうなずいた。

アメリカに憧れ、伝説の店を目指して

 1951年生まれの原口さんは“アメリカへの憧れが強かった世代”だと語る。

「だから店名はアメリカン。何も考えてないんだよ。取材では必ずその話をするんだ。俺らの世代はさ、車、オートバイ、ファッション、音楽、全部がアメリカかぶれだった。俺はいまだにジーンズしか持ってないぐらいだよ」

 開店当時は店の内装も、すべてアメリカンな感じにしていた、と振り返る。今は緑色のテントが目印だが、開店当時は白地に赤とブルー。店内には星条旗も飾られていた。

「サンドイッチの名前も、全部アメリカかぶれでさ。ハワイサンド、アイダホサンド、ケンタッキーサンドとかね。ちなみに中の具は、ケンタッキーサンドはチキンで、アイダホサンドはポテト。そんな感じだったな」

 当時はケーキも出していて、近所の女性会社員にも評判だった。時はまさにバブル。しかし、開店当初は順調だった店の営業も、バブル崩壊と共に危機に瀕するはめに。

「暇すぎてふてくされちゃってさ、パチンコ屋に入りびたったこともあるよ」

 営業の危機を乗り越えるべく、父親が県庁を退職するタイミングで、原口さんはまた借金を申し込んだ。

「1000万、借りたな」

 2000万円借りた母親にも、結局は返しきれなかったと原口さんは話す。

「でも俺がテレビに出たりするようになって、老人会とか近所の人に“息子さん、テレビに出とんしゃったね”って言われるたびにニコニコして喜んでくれてたらしいんだよね。それが唯一の親孝行だったかなあって思うよ」

 2019年1月、その母・ミヨさんが逝去。喫茶アメリカンは開業以来、異例の1週間の休業をした。そして昨年、1000万円を都合してくれた父親も亡くなった。

「昔、親父が東京に来たときな。うちの親父は飛行機が怖いから、新幹線で来たわけよ。で、せっかちだからさ。名古屋を出たあたりで、車内放送が“次は東京、東京、終点の東京”なんて言うもんだから、すぐ荷物まとめてドアのとこに行ったらしいんだよ。そこから2時間、デッキでずーっと立ちっぱなしだったって」

携帯もない時代に

 “なかなか着かん”と窓の外を見つめ続けた原口さんの父が、ようやく着いた東京駅のホームで息子の姿を見つけた。そこから息子を見失わないよう急いで、まだ動く車内を走った。大荷物で右往左往する父を見つけるのはとても難儀だった、と原口さん。

「携帯もない時代だから、駅でいっぱい人が降りるともう見つけられないわけ。佐賀の感覚だと、隣の駅ってまぁ10分や20分で着くぐらいのイメージだったんだろうね。この前、京都に新幹線で行ったんだけど、帰りに名古屋から東京まで乗っててさ“ああ、この区間を親父は立っていたんだな”って思い出したんだ。そういうの、忘れられないよ。漫画みたいだけどさ」

 と少しだけ目を赤くした。

 喫茶アメリカンを開いてから“つらかったけど、不幸だとは思わなかった”と、原口さんは振り返る。多くのお客さんを笑顔にし、驚かせることが喜び─。そんな性格だからこそ、41年もの長い間、店を続けられたのかもしれない。最近うれしかったのは、米国テレビ局のCNNが取材にやって来たことだ。“大谷翔平も見てくれたかなぁ”と原口さんは顔を輝かせて話す。

「これで名実共にナンバーワン・エッグサンドだよな」

 店内に、35周年のときに原口さん自身がしたためたポスターが張られている。《伝説の店を目指してもう少し》─。今やもう原口さんの目指した“伝説の店”になったといえるのではないだろうか。

「それはどうかなあ。でも、俺にとってキッチンはステージなんだ。だから、営業中は店のドアを開けたまま。そこから入ってくるお客さんに、俺の姿を見てもらうんだよ。入り口からまっすぐ俺がたった1人で包丁握ってるのが見えるじゃん。そうしたらもう、早くしろ、とか待たせるな、とかお客さんは言えないわけよ。おじいちゃんが1人でやってんだもん」

 そこまで話して、原口さんは言葉を切った。

「俺、死ぬならキッチンだな。朝、母ちゃんが来てさ“あ、死んでるわ”って見つけるわけよ。それ最高だろ?」

 今年73歳になる原口さんの言葉に、京子さんはニコリともせず“またバカなこと言って”と切り返す。

 喫茶アメリカンの歴史は、佐賀の夫婦の“がばい”愛の物語でもあるのだ。

<取材・文/ガンガーラ田津美>

がんがーら・たつみ 東京都生まれ。高校中退後、各種職業を経て、官能雑誌ライターとしてデビュー。その後、広いジャンルで執筆。『外食流民はクレームを叫ぶ/大手外食産業お客様相談室実録』で、第24回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選。

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