学生出産、看護師を経て48歳で出家…“駆け込み寺”の庵主さん「自分を好きになる方法」

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2024年06月02日 06:10  web女性自身

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兵庫県姫路市網干区。瀬戸内海もほど近い場所に、悩める女性の駆け込み寺として知られる尼寺・不徹寺がある。300年以上続くこの寺を守るのが、25代住職の松山照紀さん(61)。



“庵主(あんじゅ)さん”と呼ばれる照紀さんは、これまで多くの人の相談を受けてきた。悩める女性の心がわかるのは、庵主さんも“そう”だったから。



『駆け込み寺の庵主さん』(双葉社)の著書もある庵主さんの数奇な人生を教えてもらった。



■二女に恵まれるも、夫から突然の離婚要求が



「うちは両親と祖父母が農業と養鶏を営んでいて、私も中学に入ると、兄と一緒に早朝3時から収穫を手伝っていました。幼いころの私は、野山を駆け回る、ただのじゃじゃ馬でしたね(笑)」



1962年(昭和37年)8月5日、福岡県筑紫野市に生まれた庵主さんは、地元の小中学校を経て、九州女子高(現・福岡大学附属若葉高)から九州産業大学商学部へ。先生になりたくて教職課程も選択した。



「入学後に、中学から続けていた卓球サークルに入り、ここで1歳上の男性と出会って交際がスタート。2年生の冬に妊娠します。内緒にしたまま、大きなおなかで、成人式にも親の用意してくれた振り袖を着て出席しました」



成人式を終え、両親に妊娠を打ち明けると父親は激怒したが、結婚後に大学を中退して20歳で長女を出産すると、状況は一変。



「典型的な九州男児の父も、孫にはデレデレのおじいちゃんになり和解します。その後、会社員となった夫の転勤で、私たち家族は神奈川県平塚市に転居しました」



翌年には第2子の妊娠がわかり、里帰り出産での帰省中に、父親が55歳で突然死する。これを機に九州に戻り夫の実家での同居が始まるが、突然離婚を切り出されるのは、結婚8年目のことだった。



「夫は、『自分は結婚には向かないタイプだった』と。つい、『はあ!?』と口から漏れてしまうような理由でした。もちろん納得はしませんが、子供をどちらが育てるかという話し合いのなかで、彼が『どっちでもいいよ』と投げやりに言うセリフを聞いて、ああ、この人にとって家族とはそれほどのものだったのかと、決心がつきました」



27歳で離婚して実家に戻ったが、これ以降、90代の祖母、70代目前の母親に、7歳と4歳の幼女という、女ばかり5人の生活がその肩に重くのしかかる。



何のキャリアも資格もなくパートの面接にも落ち続けていたとき、台所で洗い物をしていて割れたコップで手を切った彼女は、手際よく処置をする看護師を見てひらめいた。



「そうだ。“手に職”で、看護師の資格を取ろう」



働きながら准看護師の資格が取れる看護学校へ入学し、午前中は見習い看護師として働き、夜勤もあるハードな日々が始まった。



直後に学校の図書館で出合うのが、当時、上智大学教授だったアルフォンス・デーケン氏らが編者となった『生と死を考える』。



「生だけでなく死を考えることがよりよい人生につながるという内容に出合った瞬間、頭が真っ白になるくらいの衝撃でした。すぐに東京のデーケン先生の勉強会にも通うようになりました」



さらに同じころ、憧れていたマザー・テレサがインドのコルカタで運営していた慈善施設「死を待つ人々の家」でのボランティアも敢行。



「インドでは、マラリア、エイズなどで重篤な患者さんも多かった。2週間ほどの滞在でしたが、多くの死の現場に立ち会うなかで、死に関しては誰も平等なんだと知ったことは、その後の私の生き方のひとつの軸となりました」



30歳で准看護師となって、3年ほどが過ぎたときだった。



「激しい倦怠感と微熱が続き、結核性胸膜炎との診断で即入院。この病床で、自分の魂をあの世に持っていかれそうな体験をします。病状よりショックだったのは、いざ死と直面したとき頭に浮かんだのが、家族の心配より『まだ死にとうない』という恐怖だったこと。5年近くも真剣に死生学を学んできても、そんなもんは何の役にも立たんと知り愕然としたんです」



35歳で正看護師の資格を取得。老人ホームで働く一方、ホスピスでのボランティアをするうちに、もっと日本人の死生観を学びたいと、母校の九産大に再入学して民俗学を学び始めた。そして1999年春、人生の転機が訪れる。



「卒論も執筆がうまくいかずモヤモヤした思いで過ごしていたとき、太宰府の観世音寺の前を通りかかったんです」



いつもは通り過ぎていた道だったが、なぜかその日は車を降りた。



「立派な本堂ではなく、吸い寄せられるように奥へと行くと、ほーっ、こんな所にも小さなお寺が、ほーっ、院というんやと、そんな出合いでした」



さらに、ふと門前の掲示板に目が留まる。



「座禅会のお知らせがあって、参加費500円だと。そのとき、なぜかすんなりと、『次の日曜は参加しよう』と思ったんです。これが、私のお坊さんとしての第一歩でした」





■見つけた運命の場所。気づけば、日本中の女性が集う寺に



「お坊さんへの第一歩で、戒壇院で座禅をしても、モヤモヤとした気持ちが一気に晴れることはありませんでした。ただ、心が静まっていく感覚はたしかにあって、私はハマっていくんですね」



この後、有料老人ホームの活動を通じて知り合った柴田久美子さん(日本看取り士会会長)に誘われ、島根県・隠岐の離島で柴田さんが設立した看取りの施設「なごみの里」にて看護師として働いた。



多くの看取りの現場も体験して7年後に福岡に戻り、再び座禅会に熱心に通い始める。やがて戒壇院の住職からも強く勧められ、2010年11月3日に得度し、晴れて僧侶となる。48歳だった。



「子供たちも独立していたし、で丸坊主になるのも、なんの抵抗もありませんでした。私の決意を知ってましたから、出家のときも、娘や孫、母まで駆けつけてくれました」



そこから岐阜県の天衣寺にて、俗世とのつながりを一切断ち、雲水(修行僧)として3年半の厳しい修行を重ねた。そして、



「同期の尼僧さんが挨拶回りをするというのに同行して姫路方面に来て、ふらりと不徹寺の山門をくぐった瞬間、『ここだ!』と、まさに直感が降りてきたんです」



30年近く僧が不在の無住状態となっていたこの寺に、まさに導かれるようにしてたどり着いた。



「2016年11月、私が正式に庵主を務めるようになったとき、ここはを持たない地域の寺で、訪れる人もほとんどいませんでした。



近所の老師から、『よくぞ、この貧乏寺に来てくれた』と喜ばれたのを覚えてます(笑)。では、私は何をしていたかというと、読経などのおつとめと、あとは千坪の庭がありますから掃除したり、壊れた壁を修理したりでした」



黙々と作務をこなす姿を目にした近所の住人と挨拶を交わすようになると、やがて気取りのない人柄にふれた人たちが、「うちの主人が」「うちの子が」と立ち話や相談をするようになっていく。



「さらに座禅会や写経会を開いたり、娘に聞いてSNSを始めたあたりから、日本中の女性たちが電話してきたり、訪ねてきたり。



コロナ禍のときも、うちは催事をストップしませんでしたから、むしろこの時期に多くの声がかかるようになりました」



いまや、現代の駆け込み寺の主として、多くの女性たちの悩みや孤独を受け止める日々だ。



「私はいつも、まずお相手の話をじっくり聞くことから始めますが、ほとんどの悩みに共通しているのが、過去の自分に縛られていること。



『あのときなんでこんなことをしたんだろう』『なぜあんなことを言ったのか』と。よくないとわかっていても、ついつい考えてしまう、というやつですね」



そんなとき、庵主さんはこう語りかける。



「過去のイヤなことを思い出したら、そのたびに『あれはあれでよかったんだ』と、ひとつひとつ判子をつきなさい、花マルを付けていきなさい。



過去は変えられないんです。今は年を重ねてしまって悔やんでいるけど、当時はその行為があなたにとって精いっぱいだったはず。



ならば、変えられない過去にも、今の自分にも、おっきな花マルを付けて『こんな私でもいいや』と思えると、初めて自分を好きになれる。すると自然にまわりも愛することができます」



特に50代以降の人に、早く気付いてほしいという。



「これから私たち、人生の総決算です。もう、腹立たしい他人や過去のことを考えているヒマはないはず。時間というベルトコンベヤーに乗って、棺おけのほうにまっすぐに突き進んでいる状況。



だったら、人のことで悩むより、自分にエネルギーを注がないと、もったいない。 苦悩しているさなかは、目の前しか見えてません。



でも、ちょっと顔を上げたら、あんなに青空が広がっている。そんな習慣をつけましょう。落ち込んだら、空を見たり、ときにはコーヒー一杯飲んで、『まっ、いいか』と口に出してみる。もっともっと、自分よがりになっていいんです」



【後編】“駆け込み寺”の庵主さん語る女性のあり方「あなたの名前は“お母さん”でも“奥さん”でもありません」へ続く



(取材・文:堀ノ内雅一)

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