【対談連載】パナソニックEWネットワークス 代表取締役社長 元家淳志(下)

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2024年06月14日 08:01  BCN+R

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2024. 5.15/東京都港区のパナソニックEWネットワークス本社にて
【新橋発】パナソニックの創業者である松下幸之助さんは、モノがなく貧しい時代に、水道の水のように安くてよい製品をたくさんつくることで世の中を豊かにするという「水道哲学」を提唱した。元家さんは、幸之助さんが今の時代にいたとしたら、どんなことをしたかと思いをはせ、そこで「情報の水道哲学」という概念に行き着く。モノ余りの時代にあっても、ITの恩恵を受けられない人はまだまだ多い。誰もがその便利さを享受できる世の中にしたいという自社の役割を明確にしたのである。
(本紙主幹・奥田芳恵)

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●新素材の開発に成功するも

急転直下の工場閉鎖に

 小学生のとき、ウォークマンをプレゼントされたことをきっかけにものづくりの世界を目指されたとのことですが、ずいぶん早くに目標を定められたのですね。

 そうですね。親に相談したら、とりあえず理系を目指せばその方向に近づくのではないかと言われて、それ以来、理系一筋ですね。その後、京都工芸繊維大学の物質工学科に進み、新素材開発をテーマとする研究室に入りました。大学に入った頃、好きだったパナソニックとソニーの創業者がどんなことを考えていたのかを知るため、その著作を読んだのですが、松下幸之助さんの本は、経営書ではなく人生哲学の本のようで、すごい思考の深さと幅を持つ人だと感銘を受け、それ以来目標にしています。

 幸之助さんの考えに心酔されたのですね。

 そうですね。それと、パナソニックとの縁ということでは、大学院の1回生のとき(2002年)からパナソニックと共同研究を行っていたこともあり、04年の入社につながったという経緯もあります。

 その共同研究は、どのようなものだったのですか。

 丸い蛍光灯のガラスには、加工を容易にするため鉛が含まれていたのですが、これは環境に負荷をかける物質であるため、鉛を含まない材料の研究をしていました。入社後も引き続きその研究に従事し、その開発に成功しました。

 院生時代の研究がそのまま製品につながるなんて、そんなにあることではないですよね。

 中国市場での展開も視野に入れ、08年に現地の工場を立ち上げ、09年に製品化を果たしました。ところが、その翌年には中国工場の閉鎖が決まってしまったのです。

 なぜ、そんなに急に……。

 LEDの急速な普及により、蛍光灯ではもう勝負にならないという経営判断が下されたのです。これが、私にとって一つのターニングポイントになったことはたしかですね。

 今は冷静に振り返っておられますが、当時はどんな気持ちでしたか。

 もっと世の中に貢献できる材料を開発していたらという自責の念と、これまで10年近く取り組んできたことが、こんなに簡単になくなってしまったという寂しさや、やるせなさですね。でも落ち込むのは一瞬で、自分のキャリアの方向性や新製品開発について考えるよう切り替えました。

●一生忘れることはない

インド人スタッフの温かい言葉

 先ほど、蛍光灯事業からの撤退がご自身のターニングポイントになったとおっしゃいましたが、具体的にそれはどのようなことを指すのですか。

 これを機に、技術開発に没頭するだけで世の中に貢献することは難しいと考え、投資のタイミングやマーケティングプロセスといった経営の定石を広く学び「技術がわかる経営者」になろうと思ったことです。それまでは「経営がわかる技術者」を目指していたのですが、言葉は似ていても、それとはまったく意味が異なります。

 技術者から経営者へのシフトですね。

 30代の前半から経営の道を考えるようになり、その後、MBAも取得することになります。

 ところで元家さんは、インドに4年間赴任されていますが、赴任に際して悩んだりしませんでしたか。

 躊躇することはありませんでした。実は学生時代にアジアを旅行し、タイやカンボジアにはまた行きたいと思う半面、インドだけは二度と行きたくないと思ったこともありました。でも、小さな頃から海外で仕事をすることに憧れがあり、そのワクワクのほうがはるかに勝ったんですね。

 インドではどんなお仕事を?

 私が赴任したのはインドイノベーションセンターというパナソニックグループがインドで新規事業を起こすために設立された組織で、そこでマネージャーを務めました。貧富の格差が激しく、いまだに路上で物乞いをする子どもがいるような国で「デジタルの力でインドをより良い国にする」というパーパスをインド人と共有し合い、現地の社員たちと協力しながら仕事を進めていきました。

 やはり日本で働くのとは、だいぶ勝手が違いますよね。

 インドでは想像のつかない出来事がしばしば起こるため、日本に帰ってきてからは動じないようになりました(笑)。「大丈夫」と言われても大丈夫でないことがよくありましたし、大変なことは多かったですね。でも、楽しかったですよ。

 コロナ禍の時期も重なっていたのではないですか。

 そうですね。4年間のうち前半と後半ではまったく環境が異なりました。最初の2年間は現地のお客様を知るためにインド中を飛び回り、またインドを拠点としてイスラエルのスタートアップとの提携交渉をしたり、タイやインドネシアのパートナー企業に出向いたりしていました。

 ところが後半の2年はコロナの真っ只中で、一度帰国すると隔離期間があるため2カ月以上仕事ができないことになります。そのため、私自身は1年半近く帰国することができず、さらに、インド由来の致死率の高いデルタ株が猛威をふるったこともあり、社員の安全担保や新たな働き方に取り組みながら、経営成果を出すという難しいマネジメントを強いられました。

 大変なご苦労をされたのですね。

 このとき、一生忘れないと思ったのが、インド人のメンバーから「元家さん、家族にずっと会えないでつらいだろうけど、僕たちが家族になるから」と言ってくれて、ホームパーティーに招いてくれたことです。つらい時期にそういう言葉をかけてくれたことにとても感謝していますし、自分も相手に対してそういう気持ちを持たなければならないと思いました。

 今後、元家さんは経営者として、どのような経営、どのようなチームづくりを目指していかれますか。

 幸之助さんが『事業は人なり』や『衆知経営』を著した通り、人を生かし切ることが経営の要諦だと思います。そのためには、在籍している人の強みを見極め、知恵を集めてチームの力を最大化していくことが重要であり、自分自身の判断を疑うことを忘れてはならないと考えています。でも、確固たる信念を持って自分らしい経営をすることも不可欠であり、その信念が正しいのか、常に世の中に問い続けることも必要ですね。

 そうしたバランスをとりながら、前に進むことが経営者には求められるのですね。本日は、興味深いお話、ありがとうございました。

●こぼれ話

 砂鉄集めに夢中になる小学生。元家淳志さんは、どんな子どもだったのだろうと想像する。現在の元家さんの姿に照らしても、目を輝かせて何かにのめり込んでいく姿がすんなりとイメージできる。終始穏やかで丁寧な語り口が印象的だが、家族や幼少期の話題になると、表情が一段と柔らかくなる。豊かな自然の中で、両親に温かく見守られ、伸び伸びと育った様子が伝わってくる。翻って自分の故郷の風景を思い出しながら、幼少期の記憶を呼び起こす。私が小学生のころは、よく紙芝居や、絵本を作っていた。絵は得意ではなかったが、物語を考えたり、本を創作したりすることが好きだった。砂鉄に夢中になる子、本を作るのが好きな子。一緒のクラスにいたらどうだったかな…。この原稿を書きながら、そんな妄想をしてクスリと笑う。

 対談はいつも相手との真剣勝負である。同時に共同制作の場であるとも思っている。言葉のキャッチボールをしながら、表情や態度で感情や体温を共有する。時に新たな発見をしたり、改めて自分と向き合ったりしながら、対談相手と一緒に物語を紡いでいるようでもあるのだ。読者の頭の中に、いろいろなシーンや風景が浮かんでくるようなインタビューにまとまると、とても嬉しい。今回、元家さんにはいくつもの質問をしたが、返答に窮する場面が一切なかった。意外性を突くことができなかった私の力不足かもしれないが、元家さんが日々、自身を客観視して整理しておられることに驚く。会社の方針で、10年以上続けてきた蛍光灯ビジネスの撤退が決まった後、すぐに次なる目標を定めて動き出した俊敏さには大変驚いた。目標とし、取り組んでいたことに終わりが訪れた瞬間は、新たな目標を定める絶好の機会だ。そうした転機に、自分と向き合うことを怠らず、目標を定め直していく過程の中で「志」が育っていったのだろう。志は何よりも自分の行動の源であり、活力であり、自分を支えてくれるものだ。元家さんのぶれない芯の強さと、真っすぐさは、志を持てたことで強固になったのだと感じる。

 技術者から経営者にシフトして、今ではすっかり経営にのめり込んでいる元家さん。これからも、元家さん流の経営に注目していきたいと思う。そして、多くの方が平等にITの恩恵を受けられますよう、お互いの会社が担う役割をそれぞれ全うしていけたらと願う。(奥田芳恵)

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

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