チーム・タイサンのファミリーたちが語る千葉泰常さんとの思い出「破天荒なメチャクチャな親父」

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2024年06月14日 08:30  AUTOSPORT web

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2014年、ニッサンGT-RニスモGT3に車両をスイッチすることになったタイサンの千葉代表、ステアリングを握ることになった横溝直輝と密山祥吾
 6月7日(金)、日本国内外のレースで大活躍したチーム・タイサンを代表として率いた千葉泰常さんが亡くなった。享年79。その活動のなかで多くのドライバーがタイサンに所属したが、千葉さんは一度起用したドライバーたちを“ファミリー”と呼び、何年にも渡って関係を築くことが多かった。

 千葉さんの訃報が伝えられたのは、宮城県のスポーツランドSUGOでSROジャパンカップ第1ラウンドとフェラーリチャレンジ・ジャパンが開催されていた週末。SUGOを訪れていたタイサンと関係が深いドライバーのうち、3人に千葉さんとの思い出を聞くことができたのでご紹介しよう。

■新田守男
 スーパーGTで数多くの勝利とチャンピオンを獲得している新田守男。その初タイトルは1996年のJGTC全日本GT選手権時代で、TEAM TAISAN Jr.からの参戦だった。

 その翌年もタイトルを争うなど、初期のタイサンにとっては欠かすことができない存在だったのは間違いないだろう。

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 いろんな思い出はありますけど、すごくかわいがってくれて、親身になってくれる方でした。僕がチームにいた頃は若かったので、僕たちが困っているようなことを助けてくれたりしましたし、レースでもいろいろ親身になって考えてくれた方でした。レースでもプライベートでもすごく気遣いをみせてくれた印象がありますね。

 僕にとってはお父さんのようにいろんなことをしてくださった印象があります。もちろんいろんなことを言われていた方でもありますが、すごく温かい方でしたね。でも勢いがすごすぎて、ついていけない部分もたくさんありました(苦笑)。突っ走ってしまった部分で若いなりに迷惑がかかったこともありましたけど。

 レースで言うと、明らかに既存のスポンサーさんと競合するスポンサーをつれてきたことがあったんです。僕たちが「バッティングしますけど大丈夫ですか?」と聞いても「大丈夫大丈夫!」と千葉さんは言うんですよ。で、後で千葉さんが怒られているのを見ましたが(笑)。

 また東京の大森にタイサンハウスというのがあるんです。天井からフェラーリF40を吊したりしていて、完成したときに『観に来い』と言うので行ったら、『お前の部屋はここだから』って部屋が用意してあったり。『いやいや住みませんから!』って(笑)。そういう温かい方でしたね。

 ああいうアツい人が業界からまたひとりいなくなってしまうのは寂しいですね。天国でも“オラオラ系”でやってもらえたらと思います。

■横溝直輝
 全日本F3やフォーミュラ・ニッポンでステップアップを果たし、2005〜06年、2007年はGT500クラスで戦っていた横溝直輝は、一時スーパーGTではシートを失っていた。しかし、そのキャリアの転機とも言えたのが2013年。Team TAISAN ENDLESSに加わると、2012年に峰尾恭輔とともにGT300クラスのチャンピオンを獲得。2014年までタイサンで活躍した。

 さらに、アジアン・ル・マンにもともに挑戦するなど、タイサンとは長い関係にあった。千葉さんからも愛されていたドライバーのひとりだったが、横溝自身も千葉さんを“レース界の親父”と呼び愛していた存在だった。

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 前日の14時ごろに訃報をうかがいました。入院していたので、レースウイークが終わった水曜にお見舞いに行く予定にしていたのですが、間に合わなかったです。

 千葉さんはひと言で言うと『破天荒なメチャクチャな親父』です。あそこまで自分のわがままを貫いて生きてきた人はいるのかな? と思うくらいですが、でもそれをやり抜くことって大変だと思うんです。こうなれたらカッコいいな、と思っていましたね。

 一緒にやっているときはいつも『何言ってるんだ親父』と思ってましたが、いざいなくなると寂しいですね。もちろんレースでは自分もわがままを言わせてもらいましたし、本当の父親のような存在でした。自分がこのクルマが欲しいと伝えて『これでチャンピオンを獲りたい』と言うと、自分が持っていたコレクションを売ってくれて。『お前のためにこれも売るのか』なんてこぼしていましたけどね。

■密山祥吾
 2001年にGT300クラスに参戦を開始した密山祥吾は、2002年、2006年にはヴィーマックでチャンピオンを争うなど、R&D SPORTと関係が深いドライバーだった。しかし、2009年にはその関係を終えて、2010年にはGT300のシートがなかった。

 そんな密山を起用したのがタイサン。2010年、鈴鹿1000kmの公式予選ではCINE CITTA'タイサンポルシェを駆りポールポジションを獲得する活躍をみせると、その後もアジアン・ル・マンなどをはじめ長い関係となる。スーパーGTではフルシーズンではないが4年をともにした。

* * * * *

 僕は2009年にGT300でスバルのシートを失ったのですが、2010年に突然、山路慎一さんと千葉さんがアデナゥ(編注:2007年に東京都国立市谷保に生まれたチューニングショップ。密山が代表を務める)に来たんです。今でもくっきり覚えているんですが夕方でしたね。

 それまで千葉さんとは面識がなかったので『大きい方が来たな』と思っていたら、『次のSUGOからウチのクルマに乗らないか』と声をかけていただいたのが始まりでしたね(編注:2010年第5戦にSabelt CINE CITTA'タイサンポルシェをドライブ)。その次のレースからはエースカーのCINE CITTA'タイサンポルシェの第3ドライバーとして起用していただきポールポジションを獲れて、そこからは末永いお付き合いでドライバーとして雇っていただきました。

 千葉さんとはいろいろケンカもしたのですが、僕にとっていちばん思い出が多くあるチームオーナーでした。昨年から軽自動車のレースやEVレースのドライバーとして雇ってもらい、今年も千葉さんと一緒に二度レースを出ていました。今年はあと3レースあるので、千葉さんが元気なうちに一度優勝したかったんですけど。

 来週の水曜に会いに行く予定を立てていたのですが、悲しい電話をいただいてしまって。今は少しボーッとしてしまっています。『どうだ密っちゃん!』と今でも声が聞こえてきそうで、それがなくなったのかと思うと寂しいですね。

 ちなみに、僕は新宿で結婚式を挙げたのですが、千葉さんが用意したロールスロイスのオープンカーで雪が降るなか都内を連れ回されて、恥ずかしい思いをした記憶があります(苦笑)。ホントめちゃくちゃな人でしたけど、大好きでしたね。そのめちゃくちゃなことをするとき、たぶん自覚していたと思うんですよね。そういう時はニヤっとしていたことがありましたから。そういうチャーミングなところがあった方でした。

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