放送界の先人たち・鈴木健二氏 〜“紅白・都はるみ事件”「あと7秒あったら完璧だった」〜【調査情報デジタル】

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2024年06月15日 06:00  TBS NEWS DIG

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TBS NEWS DIG

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放送界に携わった偉大な先人たちのインタビューが「放送人の会」によって残されている。その中から、テレビ司会者の新たなスタイルの先駆者となり、「クイズ面白ゼミナール」など多くの番組で圧倒的な人気を誇ったアナウンサー、故鈴木健二氏のインタビューをお届けする。(聞き手は元NHKキャスターの隈部紀生氏)

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NHKを記念受験、アナウンサー志望ではなかった 

隈部 1952年、昭和27年にNHKにアナウンサーとして入られたと思いますけども。

鈴木 はい。

隈部 アナウンサーを希望されたってのは、何かきっかけがあったんでしょうか。

鈴木 全くありません。就職試験でNHKがどういうところかなんて全然知りもしなかったんですね。

隈部 うん、うん。

鈴木 ええ。一生に一つぐらい受けようと思って。私、大学が仙台ですから、急いで帰って、必要な書類をそろえてもらって出したんですね。

隈部 うん。

鈴木 締め切り5分前でした。午後4時締め切りっていうのを今でも覚えてます。4時5分前でした。そしたらNHKの方が「どこ受けるんですか」って。どこ受けるって、私、NHK受けに来たんですよって言ったら、中にいろいろあるって言うんですね。

隈部 うん。

鈴木 記者だの、それから営業だの技術だの、それからアナウンサーもありますって言うんですね。で、「一番受けてる人が少ないのはどこでしょうか」って言ったら、「アナウンサーは募集人員が少ないから、競争は激しいけど受けてる人は少ないです」と。

隈部 うん。

鈴木 「じゃ、そこ入れてください」って。

隈部 うん。

鈴木 それでアナウンサー。

隈部 ほお。

鈴木 だから基本も分からないわけですよ、私。

最初の配属先・熊本で学んだ放送の原点 

鈴木 それから放送局ってのは何かっていうことも知らなきゃいけない。ゼロから始めなきゃいけないと。これが、よかれあしかれ役に立ったんですね。

隈部 うん。

鈴木 初めのうち仕事を覚えたいもんですから、先輩がちょっと風邪引いたっていうと、「私に『泊まり』をやらしてください」って言って。『泊まり』をやると夜6時から翌朝10時まで一人で責任負うわけで、しかも誰もいない。すると、仕事がたくさんあって覚えるんですね。ですから1週に2回も3回も泊まったんです。

で、そのうちにですね、私が配属先の熊本に行ったのが、5月の初めだったんですが、夏が終わったらいきなり「番組を作れ」って言われたんです。いや、私アナウンサーですよっつったら、朝7時15分から半までのローカル放送を1本、それから土曜日の4時半から5時までの30分を1本、この2本を作れって言われた。

で、朝のは、考えて、何やったらいいか分からないんですね。とにかく熊本県内を歩こうと思って、一番最初に行ったのが、あの池田屋で近藤勇<1834~1868>と渡り合った宮部鼎蔵※ の出生地だったんですよ。(※宮部鼎蔵<1820〜1864>尊王攘夷派の活動家) 

隈部 うん。

鈴木 それで、よしこれやろうっつってね、ええ、池田屋とは何かってのやってやろうと思って。それをいきなりですね、昔の映画でちゃんばら映画、ジャンジャン、ズンジャカチャッチャ、ズンジャッジャン、チャンチャカチャンって音楽があるんですよ。それ持ってきてね、「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時」って、そっから放送始めたら。

隈部 うーん。

鈴木 熊本県人はびっくりした。それで怒られて、放送ってのはそういうことからやるんじゃないって。おはようございます、今日もおはようございます。それから今日はいいお天気。そっから始めんだって言われた。

いや、宮部鼎蔵でね、近藤勇と渡り合って階段から落っこって死んだ男だから、幕末のね、もう重大な池田屋って事件だから、それをやろうと思った。そしたらですね、阿蘇のほうに大学がキャンプを張ってたんですね。そっから一斉にですね、今朝の放送の資料をくださいって電話かかってきた。それで私、初めてね、放送ってのはこういうもんなんだと思ったんですね。

隈部 ほお。うん。

鈴木 ああ、聞いてる人がいろいろ参考にしたり、それを自分の勉強の資料にしたり、そういうことにも放送っての役立つんだな。ただ聞いてりゃいいっつうもんじゃないんだなと、そこで、そう思ったんですよ。

隈部 うん。

鈴木 放送っていうのはこうやって、人の知らないね。種を見つけてきて、そして、それをよく調べて放送してやると、こんなふうにみんなが喜ぶんだなって。大学の先生まで喜んでくれるんだなと思ったんです。

ラジオからテレビの世界へ ― 視聴者に親しまれるのは、はげ、でぶ、眼鏡 

隈部 昭和28年にはテレビの放送が始まりますね。ラジオからテレビに変わったっていうことで、アナウンサーとしてギャップみたいなものをお感じになったことはありましたか。

鈴木 テレビが始まる前はですね。アナウンサーの間で、アメリカの情報をいろいろまとめて聞くと、あまりの美男美女が出ていて、視聴者が顔ばっかり見てて情報が伝わらないらしいと。

隈部 ほお。

鈴木 ええ。そういう話だったんですよ。それで私は、ああ、自分はテレビ向きじゃないんだなと思ってたんですよ。そしたら、テレビが始まったら今度は、良いのは視聴者に親しみのある人だと。で、その条件はなんだっつったら、はげ、でぶ、眼鏡だっていうわけですよ。

隈部 うん。

鈴木 そう、私はそこでやっとですね、自分がテレビ向きだって分かって。テレビが出来てから何年経ちますか、六十何年経ちますか、七十年経ちますか※。(※この収録は2011年4月なので、日本でテレビができてから58年)

隈部 うん。

鈴木 ええ。NHKと民放を通じて、この三つの条件を完璧にそなえてるのは不肖私一人だけだったらしいですね。

隈部 ああ。

鈴木 今でも。

隈部 うん。

鈴木 はい。ですからもう三位一体、神のごとき存在で。在職当時はNHKの重要無形文化財と言われておりました。

隈部 はげで、眼鏡で。

鈴木 でぶです。

記者が現場からしゃべる、これがテレビのニュース 

鈴木 それで、私はまあ、後で多分話が出ると思いますが、なんでそんなにいろんなことを知ってんですかっていわれるけれども、別に知ってるわけじゃないんです。海の映像があったら、今、映っている海の中にはどんな魚がいて、この海の色は四季折々どういうふうに変化して、と、そういうふうに、そういうものを事前に私は全部調べるんです。

隈部 はあ。

鈴木 映る雑草1本まで調べるんです。だから私は資料を全部読みこなせばどんな番組もそれで90%が終わりだと。演芸番組でも報道番組でも。後になって私、報道へ行って、記者さんたちといろいろ渡り合いますが、それもそうなんです。

ああ、鈴木健二は俺たちの原稿を読んでくれないなんつってたんですよ。で、私は、そうじゃない、あなたたちの原稿を一番読んでいるからこそ、こういう読み方をするんだっつって、何べんやったか分かんない。

そうやってテレビの一番基礎の研究を始めたんですね、誰もやらない分野を。それは、熊本で経験した、よく調べれば大学の先生までが興味を持ってくれるんだということからきているんです。

隈部 へえー。

鈴木 それで私は、これからは「ニュースをお伝え申し上げます」って時代じゃないと。今日は国会でこういうことがありましたって、茶の間で話をする時代なんだ。そしたら、女性向きの種もいっぱいあると。だから女性のアナウンサーにもニュースを担当させてほしいと。

それから出来るだけ、現場に近い記者が直接カメラに向かってしゃべってくれるようなシステムにしてくれないかとか言ったんです。そしたら記者がどっと来たですよ。俺たちはしゃべる訓練受けてないんだと。俺たちの役割は、取材して原稿書くことなんだと。

隈部 うん。

鈴木 それが古い、お前さんたちはっつって。そうじゃなくて、記者が現場からしゃべる。これがテレビのニュースなんだと。それで、記者とはもうさんざんやり合いました。女性を登用してください、記者は現場からしゃべってください。そういうことを主体にテレビのニュースってのは作ってくださいって。

隈部 うん。

鈴木 とにかく、ニュースはショーになりますと。ショーってなんだって言うから、今の朝の「おはよう日本」、ああいう形ですよ。ああいう形でニュースを伝えられるじゃないですか。

でも彼らは、ニュースというものは書いた原稿をアナウンサーが読む、それがニュースだって譲らないわけです。ご存じですかね、昔、報道の中に「報道」っていう連絡誌があったんです。私、その「報道」に、報道局はもっと頭ん中に酸素を注入しろ、それで新しい頭でもって、その新しい時代に対応してくれないかっていうふうな原稿を書いたんですよ。

隈部 うん。

鈴木 その印刷ができたんですが、それをですよ、報道局は部長さん以下全員、安全カミソリの刃を持ってきて、私の部分だけ全部切って配った、全員に。これを雑誌「報道」事件っていう。そこまで私は嫌われてたですね。

台本はスタジオには持ち込まなかった 

鈴木 元々、お聞きのように早口ですから。江戸っ子だから早い分には構わない。ゆっくりしゃべれってのは苦手ですけど。それで、番組のテンポっていうことを考えて、これで勝負しようと思って。

それから話題として何を取りあげるか。どんな番組でも、始まりの1分半で勝負なんですよ。どんな短い番組でも、長い番組でも、頭の1分半が勝負なんですね。ですからそこに、何にもってくるか。それを一番注意したのは、白崎(友久)さんと一緒にやった「クイズ面白ゼミナール」※ っていう番組です。頭の1分半っていうのにほとんど番組全部のエネルギーをかけたように思うんですね。(※1981年4月〜1988年4月放送。はじめの1年は木曜日の45分番組で、1982年4月からは日曜日の40分番組として放送された)

隈部 鈴木さん、よく言われるんですけど、台本をスタジオには持ち込まなかったっていうのは。ほんとなんでしょうか。

鈴木 ああ、ほんとです。どんな番組だって俳優さん、舞台に出るのに台本持ってきますか?

隈部 はい、はい、はい。

鈴木 私はテレビカメラの前に出たら演じなきゃいけないんですよね。それを今の、なんですか、キャスターだかなんだか知らんけど。一行一行、見ながらやってるじゃないですか。だから自分の番組にならないんですよね、あれ。

隈部 うん。

鈴木 だから私は最初から、テレビの初期から、中継に行くにも、スタジオに行くにも、台本を持って入ってったってことは一回もないです。

隈部 逆に言うと、台本持ち込まず、時計持ち込まず、そういうことでおやりになって、どうも私はげすっぽいのかもしれないけど、げすの勘繰りで、手順間違えちゃったり、記憶違いがあったりして、なんか混乱するようなことはなかったですか。

鈴木 プロですからね。

紅白では、出演歌手全員と30分ずつ事前打合せ 

隈部 83年から85年まで3回にわたって紅白の白組の司会をなさったんですけど。報道、教養、バラエティー、あらゆるものをやってこられた後、歌謡番組っていうのはなんかギャップがなかったですか。

鈴木 もうギャップどこじゃないですよ。あれね、(昭和)58年だ。まだ覚えてる。58年の9月に白崎さんが来たんですよ。紅白やってくださいって。私が「面白ゼミナール」の主任教授ですって勝手に名乗ってたから、みんな私のことを教授、教授って言ってたんですけど、「教授、紅白やってください」って。でね、私、実はそれまで紅白っての全く見たことも聞いたこともなかったんです。

隈部 ほお。

鈴木 ただ、歌手の方がね、順番に、こう出てきて。歌って帰っていく番組だっていう、それは聞いてたんですけどね。

隈部 うん。

鈴木 それで私、歌手の方も知らないんですよ。「面白ゼミナール」に歌手の方はほとんど出ないんでね。芸能番組をやったこともないし。ちょっと待って、困ったなってね。

それで、なんで私がやんなきゃなんないのっつったら、実は視聴率が60%台に落ちたんで、マスコミにNHKの凋落とか、紅白の価値の下落とかさんざんたたかれている。そこで何とかして70%に回復させたいって、誰かが言ったんだ。

隈部 うん。

鈴木 それ、ちょっと待ってくれってね。NHKってのは視聴率にかかわらず良い番組を放送するのが使命なんで、視聴率を回復するために番組をやるのは、NHKとしては邪道じゃないかな、私にはちょっと出来ないって、初め断ったんですよ。

だけども、他の活字マスコミに攻撃されているのはNHK職員として我慢ができないと。なら、その回復することを目指して、じゃあやるかっていうんで。だから私は番組の司会をしてるんじゃないんですよ、あのとき。

隈部 うん。

鈴木 視聴率を何とかして上げるって、視聴率と闘ってるようなもんですよ、あの3年間。だから例によって台本はいりませんよと。その代わり、歌手の方を知らないから、歌手1人について30分ずつ、顔を合わせる時間を取ってくれないかっつって、歌手の方と全員会って。話、聞きました。

隈部 うん、ほお。

鈴木 だから私が、あの3年間(「紅白」の司会をした1983〜85年)しゃべってるのは、全部歌手の方が言った言葉です。例によって、わたしはメモも何も持ってないので覚えて、ああ、この人がこういうこと言ったなって。その中からエキスだけポンって取って。舞台に出た瞬間にそれをしゃべってっていうやり方。

それから、司会を引き受けた後、いろんな人に「去年、紅白をご覧になりました?」、「何が印象に残ってます?」と聞くと。「さあ」って言うんですね、みんな。印象に残ってないんですよ。まだ小林幸子さんも何も、衣装も何もなかった頃ですから。

隈部 うん。

鈴木 それで、よく話を聞くと、それは視聴率が下がってくるのは当たり前で、出てくる方はみんな「善男善女」なんですな。ええ。これをね、何十年間も続けてきた、あれで30年ぐらいかな、(テレビは昭和)28年から始まったんだから※ 。(※「NHK紅白歌合戦」は昭和26年の第1回から昭和28年の第3回まではラジオの正月番組として放送されていた。昭和28年2月からテレビ放送が始まり、同年12月31日に第4回紅白がテレビで初放送された)

隈部 うん。

鈴木 視聴率ってのはその年のね、どのくらいの人が関心を持っていたかの目安だけなんです。それを比較して、NHKの権威が落ちたとか、そういうことをマスコミは言うけど、そんなものに振り回されちゃだめだと。

で、私はつらつら考えて、これを救うには悪役が1人出ることが必要だと。要するに、料理で言うと隠し味みたいなの。それまでの紅白には隠し味がなかったんだと思ってね。

隈部 ほお。

私に1分間 時間をください!

鈴木 そして、その59年に例の都はるみさんのことがあったんですよ。最初、私のとこへ来たのは、はるみさんに2曲歌わせるって来たんです、最初ね、誰かから。途中で1曲、それからトリで1曲って。でも私はそれは違うだろうと思いました。

隈部 うん。

鈴木 紅白ってのは、あくまで1人1曲が原則、大原則じゃないかと。だから、はるみさんにもう1曲歌ってもらうには、全歌手のオーケーが必要だと。そこでそれを「お許し願いたい」って言ってやろうかと思ったんです。それをやるためには、白組キャプテンの北島三郎さん、赤組キャプテンの水前寺清子さん、指揮のダン池田さん、この3人には断わんなきゃいけないなと。

隈部 うん。

鈴木 それで、はるみさんにそのことを言うとすると、ここで1分かかるなと思ったわけです。だけど紅白ってのはね、時間との闘いなんです。押してくる(時間がオーバーしてくる)から。

隈部 うん。

鈴木 私が58年に最初にやった時、始まって3分たったらフロアにいるディレクターさんがそばへ寄ってきて、「すいません、今5分押してます」って言うんです。さ、3分しか、始まって3分しか経っていないときにね、「今5分押してます」って。そのぐらい時間との闘い。そしたら時間いっぱいにしたところに、さらに1分取るってのは大変なことですよ。

隈部 うん、うん、うん。

鈴木 そのあとの「蛍の光」なんて消し飛んじゃう。野鳥の会も消し飛んじゃうかもしれない。さらにそれを言うタイミングがあるかどうかもわからない。はるみさんが歌い始めて泣き出しちゃったらどうしようもないし。

隈部 うん。

鈴木 さらに、歌い終わって泣き崩れたところにアンコールを歌わせるのは、この上もない残酷なシーンになるじゃないですか。そう考えてくると、はるみさんにとにかく持ち歌を完璧に歌いきってもらってからじゃないと、言うタイミングがないわけです。

隈部 うん。

鈴木 もうそれは、その時のはるみさんの心理ですよね。

隈部 うん、うん。

鈴木 だから私、この紅白のとき、朝から晩まで、はるみさんをずーっと見てました、遠くから。そしてリハーサルのとき、割合落ち着いて全部歌ったんですね。よし、これは出来るな、と決心したのがね、5時頃でしたね。

隈部 ほお。

鈴木 そして本番、はるみさんが持ち歌を全部歌いきった。それで場内から拍手と「アンコール!」って声が起ったんで、しめたと思って、私、飛び出そうと思ったの。だけどね、あれね、よーくあそこんところビデオを見てもらうと分かるんだけど、私ね、一歩出たところで止まってんのね。

てのはね、モニターの声がえらい小さいんだ。ね。私1人で勝手に決めたでしょう。だから技術さんには何も連絡してないわけだよ。その結果、場内のマイクロフォンが上げきれてない、音がとれてないなと思ったわけ。つまり各家庭には、これほどのアンコールや拍手の音は流れてないなと思ったの。

隈部 ほおー。

鈴木 そこへ私が飛び出してってですよ。ね、何とか言ったらね、もう「それ以上でしゃばるな」って言われるに決まってんじゃないですか。これ以上恥をかくことはないと思った。だから一歩出て止まってるんですよ。どうしようかと思って。

だけど「もうしょうがねえ」と思ってそのまま出てって、予定どおりですね、あの「1分くださいっ!」つったの。うん。それではるみさんはもうしゃがみこんじゃってるから、すぐはるみさんに話しかけて、そこでアンコールの曲の演奏が始まったんですよ。

ところが、私は1分っつったのに、あれ正確に計るとね、53秒で音が出てきてんだ。私はね、はるみさんがオーケーって言ったら、舞台のもとへ戻ってきて、アンコールってことを場内に向かって大声で言うつもりだった。

隈部 うん。

鈴木 アンコールって2度叫ぼうかと思ったのに、それは出来なかったのね。53秒で音が出ちゃったから。だからあと7秒あれば、あそこのシーンは完璧だったんですけどね。

今の報道、ニュースに足りないのは歴史性  

隈部 もう最後、あと1問ぐらいにしますけど、アナウンサーをはじめとして、今、放送に携わってる人に、これだけは言っておきたい、このことだけはぜひ気を付けてほしいとか、そういうことはありますか。

鈴木 歴史を勉強してほしいってことです。今の報道に、ニュースに、それから番組に足りないのは歴史性です。目先のものを伝えるだけになっている。例えば今、大震災(東日本大震災)が起こってますね。そうすると、阪神淡路大震災と比較して、あの時はこうだったからって言ってるんですよ。

私はね、むしろあの空襲、昭和20年3月10日の東京大空襲。あれと比較したほうがいいと思ってんです。例えば被災地にね、何日経っても、食事が来ない、水も出ない、ガスも来ない。それはね、空襲直後の日本と全く同じなんです。ですから、空襲の後どうやって立ち直ってきたかの方がはるかに参考になるんです。

隈部 うん。

鈴木 それが今の人達は、みんな戦争や空襲って知らないから、同じ震災だからって阪神淡路大震災と比べてる。でも阪神はね、1週間後にはもう、物資は全部こと足りてたんですよ。それと比べて遅いとか何とか。そういう歴史性が足りないんですよ。

隈部 うん。

鈴木 それから今の経済状態が、終戦直後の経済状態と似ていたり、昭和初期の状態と似ていたりってね。もっとなんか、こないだ初めて見た「ニュース深読み」ってのでも全く、浅くしか読んでない。ただ、今までの情報を集めてるだけで。歴史性が足りないから、少なくとも現代史だけはよく読んでほしいですね、裏の裏まで。

隈部 いや、ありがとうございました。大変広い範囲にわたって、ほんとうにありがとうございました。(本証言は2011年4月18日に収録)

【鈴木健二氏のプロフィール】
元NHKアナウンサー。テレビ草創期の教養番組からワイドショー、バラエティー、報道、歌番組まで自ら顔を出して番組を進めるスタイルの先駆者となった。驚異の記憶力と豊富な知識に裏打ちされた話術で人気アナウンサーの地位を不動のものとし、「知の巨人、喋る巨人」「NHK主任教授」などのニックネームで数多くの番組司会を担当した。

出演番組は「こんにちは奥さん」「歴史への招待」「クイズ面白ゼミナール」「紅白歌合戦」ほか多数。

略 歴 
1929年 東京(現墨田区)生まれ、生粋の江戸っ子から旧制弘前高校へ進学。
1952年 東北大学文学部美学美術史学科卒業後、NHKに入局。熊本放送局配属、アナウンサー兼ラジオ取材。
1954年 東京アナウンス室転勤、4年後大阪放送局に異動。    
1960年 東京に復帰後、報道関係やドキュメンタリー番組のナレーションを担当、東海道新幹線開通中継やアポロ11号月面着陸特番などの司会進行も担当。
1969年「こんにちは奥さん」「昭和の放送史」ほかの司会でギャラクシー賞受賞。
1972年 教養・バラエティ番組に活躍の舞台を移す。        
1984年 理事待遇。                        
1988年 定年退職。その後、熊本県立劇場館長に就任。
1998年 青森県立図書館長就任    。
2024年 95歳で没。

【放送人の会】
一般社団法人「放送人の会」は、NHK、民放、プロダクションなどの枠を超え、番組制作に携わっている人、携わっていた人、放送メディアおよび放送文化に関心をもつ人々が、個人として参加している団体。
「放送人の証言」として先達のインタビューを映像として収録しており、デジタルアーカイブプロジェクトとしての企画を進めている。既に30人の証言をYouTubeにパイロット版としてアップしている。

【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版(TBSメディア総研が発行)で、テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。2024年6月、原則土曜日公開・配信のウィークリーマガジンにリニューアル。

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