前田健太はPL学園1年夏から甲子園を経験 高校野球ファンは「桑田真澄二世」と呼んだ

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2024年08月05日 10:21  webスポルティーバ

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プロ野球選手の甲子園奮戦記(5)〜前田健太(タイガース)

【1年夏から実質エースとして活躍】

 日米通算163勝(2023年シーズン終了時点)を誇る前田健太の大きな分岐点を挙げるとすれば、PL学園に進学したことだろう。

 中学時代に所属していた忠岡ボーイズでエースを務め、日本代表として出場した世界大会で優勝を果たした前田のもとには、関西をはじめ、東北や四国の強豪校からも誘いがあった。「高校からプロ」と目標を立てていた前田は、それが叶うのなら高校のこだわりがなかったという。

 そんな彼にPL学園を勧めたのが、同校OBで忠岡ボーイズの監督だった阪川英次である。

「プロ野球選手をたくさん出しているPLに行くことが一番の近道だと思うぞ」

 甲子園優勝は春夏合わせて7回の超名門。1980年代黄金時代の象徴である桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」など数多くのプロ野球選手を輩出していることを阪川から聞かされた前田は、迷わず進路を決めた。

 そのデビューは早かった。

 PL学園に入学して1カ月後には3年生を相手にシートバッティングで投げ、練習試合でも起用されるようになった。

 そして夏の大阪大会でベンチ入りした前田は、大阪桐蔭との決勝戦で延長15回引き分けとなった翌日の再試合に先発し、完投勝利と大役を果たした。大会ではチームトップの7試合、42回3/2を投げた1年生のパフォーマンスは、エースと呼ぶにふさわしいものだった。

 キレのいいストレートはコントロールに優れ、カーブは鮮やかな弧を描き鋭く落ちる。そのピッチングは、まさに83年夏に1年生ながら甲子園優勝の原動力となった桑田そのものであり、高校野球ファンの間で「桑田二世」と呼ばれることとなった。

「光栄に思っていました。自分も前から好きな選手で尊敬もしていましたし、みなさんからそう言っていただけるだけでうれしかったというか。桑田さんと比べていただける選手になるために、あの頃は『超えてやろう』くらいに意気込んでいたように思いますね」

【ほろ苦い甲子園デビュー】

 2004年夏、甲子園初戦の先発マウンドに上がったのは、1年時の桑田と同じ背番号「11」を背負った前田だった。

 前年夏の甲子園メンバーが6人残り、チーム打率3割8分8厘の攻撃力で西東京を制した日大三相手に、1年生右腕が真っ向勝負を挑む。初回から毎回ランナーを背負いながら無失点で切り抜けていたが、4回につかまってしまう。

 無死一、三塁からスクイズで同点とされると、なおも一死二、三塁から逆転スリーベースを打たれた。この時、前田はマウンド上での自分を振り返ろうとしても「よく覚えていない」と、本心を打ち明けている。

「『あんまりいいピッチングができなかったな』って、それだけでしたね。予選ではいい緊張感を持って投げられていたんですけど、甲子園ではずっとふわふわしていたというか、体が宙に浮いているような感じで投げていたというか......。知らん間に終わっていたって感じで」

 結局、前田は5回を投げ、8安打、3失点。6回から継投したエースナンバーの中村圭も、終盤に日大三の猛攻に遭いPL学園は5対8で敗れた。

 ほろ苦い甲子園デビューとなった1年生の夏。「ふわふわした感じ」を教訓とした前田は、「次に出たら思い切り投げることを意識しよう」と胸に誓い、甲子園をあとにした。

 そして、3年生となった06年のセンバツ。背番号「1」をつけ「プロ注目」の投手として甲子園に戻ってきたエースの前田は、初戦の真岡工戦で16奪三振の快投を見せるなど、3試合連続完投を演じ、チームをベスト4へと導いた。

「高校野球2024年夏の甲子園」特設ページはこちら>>


前田健太(まえだ・けんた)/1988年4月11日、大阪府生まれ。PL学園で2度甲子園出場し、2006年高校生ドラフト1巡目で広島入団。2年目の08年に9勝を挙げると、4年目の10年に15勝で最多勝、最優秀防御率、最多奪三振の投手三冠を獲得し、沢村賞にも輝く。12年4月6日DeNA戦でノーヒット・ノーラン達成。15年も15勝で最多勝に輝き、2度目の沢村賞。同年オフにポスティング移籍でドジャースと8年契約。16年はチーム最多の16勝をマーク。17年は13勝を挙げ、ポストシーズンではリリーフとして活躍。20年2月にトレードでツインズ移籍。21年9月にトミー・ジョン手術受け、23年に復帰。24年からタイガースでプレー

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