他人の嘘を聞き分けるという特殊能力を持った鹿乃子(松本穂香)と貧乏探偵・左右馬(鈴鹿央士)が昭和初期の平和な町で巻き起こるさまざまな事件に対峙していくドラマ『嘘解きレトリック』(フジテレビ系)も第8話。
この作品の魅力といえば、なんといってもレトロな世界観にマッチした主人公2人のかわいらしさなわけですが、今回はあんまり顔面のかわいらしくない大倉孝二と今野浩喜という個性派俳優2人がフィーチャーされました。最後にはこの2人さえかわいく見えてきちゃうんだから、たいしたものです。
振り返りましょう。
■もうミステリーですらない
前回は冒頭から血まみれの死体を転がし、江戸川乱歩風味のホラーテイストで本格ミステリーを見せてきた『嘘解きレトリック』ですが、今回は一転、お弁当の注文が「13コか23コか」というささいなトラブルが解かれました。
トラブルの主は、左右馬の探偵事務所の隣で食堂「くら田」を営む達造(大倉)と八百屋の六平(今野)。六平が急な寄り合いに持っていくために「くら田」に弁当を13コ注文しに来ましたが、後に達造がそのメモ書きを確認すると「23コ」と書いてある。「十三折」だったはずが、「廿三折」になっていたんですね。
|
|
23コ作っちゃった達造と、13コしか注文していない六平が大ゲンカになってしまい、仲裁を頼まれた左右馬が鹿乃子とともに取り調べを行ったところ、達造も六平も、達造の妻・ヨシ江(磯山さやか)も嘘は言っていない。
この状況を左右馬が推理し、メモ書きを折り畳んだ際に万年筆のインクが写って「十」の文字が「廿」に見えてしまっていた、という解決に至りました。先週、人が殺されてミイラになって幽霊まで登場していたドラマとは思えない、実に些細なトラブル。そして、もはやミステリーとさえいえないようなシンプルな謎解き。
一方で、今回語られたのは鹿乃子の「嘘を聞き分ける」という能力そのものについて、もしくは能力者としての葛藤と苦悩といいましょうか、そういうお話がメインとなりました。
第6話も同様に、軽い事件とともに能力者・鹿乃子の苦悩が語られていました。鹿乃子は他人の嘘を見抜いたことからその人を犯罪者と決めつけ、それが冤罪を生む可能性に思い至り「嘘を聞き分けることができる私だからこそ、見えないものがある」と悩んでいました。
今回は、その鹿乃子が「嘘が聞き分けられなくなったら」という不安に苛まれます。
|
|
弁当トラブルで誰も嘘をついていなかったことを聞き分けた鹿乃子、その後、町を歩いていても、そこらへんの人からまったく嘘が聞こえてきません。
初めてこの町に来たとき、この往来は嘘にあふれていました。「今夜はすき焼きだ」と自慢するご婦人、「これはどこよりも安い」と言い張る質屋、「お嬢さん、羽織がほつれているよ」と言い寄ってくるおばあさん、みんなが嘘をついていた。今日も同じようなことを言っているのに、そのひとつにも嘘がない。
鹿乃子は、自分が能力を失ってしまったのではないかと青ざめてしまいます。
もともと、鹿乃子にとって嘘を聞き分ける能力は忌まわしいものでした。その能力は周囲から気味悪がられ、生まれ育った山村を追われた鹿乃子。しかし、この町にきて左右馬に出会ったことで、その能力が誰かの役に立つことを知り、左右馬に受け入れられることで、ようやく自分自身もその能力の存在を受け入れることができた。
嘘が聞き分けられなくなったら、自分は役立たずになってしまうのではないか。左右馬とも別れなければならないのではないか。この町にいられなくなってしまうのではないか。そしてそれ以上に、嘘が聞き分けられなくなったとき、鹿乃子には人を信じる方法がわかりません。嘘か本当かわからないとき、どうやって人を信じたらいいのか。なぜ、左右馬は自分の言うことを嘘だと思わないのか。その問いに対し、左右馬はこう答えるのでした。
|
|
「どんなに聞いても嘘か本当かわからなかったら、何かを信じて、傷つくのを覚悟して飛び込んでみなきゃ始まらないでしょ」
そうか、そうだねえ、おっしゃる通りです。そんなお話。
■ミステリーだけにとどまらない
嘘が聞き分けられなくなったと不安がる鹿乃子が、そこらへんの子どもの「宿題をやった、やってない」という小さな嘘を聞き分けて安心するシーンは印象的でした。この能力さえなければ普通の人として生きていけたのに、とあんなに忌み嫌っていた能力が、左右馬という人に認められたおかげで「失いたくないもの」に変化している。
人が人と出会うことで「こんな自分はもう嫌だ」の「こんな」が変化しないまま「こんな自分でいたい」と思えるようになることがある。最初のころはチート能力者活用ミステリーだと思って見始めたドラマでしたが、こういうことを語ってくるんだよな。ミステリーだけに、全然とどまらない。
それともうひとつ、このセリフね。
「どんなに聞いても嘘か本当かわからなかったら、何かを信じて、傷つくのを覚悟して飛び込んでみなきゃ始まらないでしょ」
当然、私たちも嘘は聞き分けられないし、それでも生きてるわけです。このセリフの通りのことをやってるんだよな。誰もが、これを繰り返して生きてきたわけです。改めて言語化されると、生きてるだけでなかなかすごいことをやってるんだというメッセージですね。こういうポジティブさの提案は、なんか素直に受け入れてしまいますね。
(文=どらまっ子AKIちゃん)