軍艦島の通称で知られる廃虚の島・端島(はしま)(長崎市)が注目を集めている。TBS系ドラマ・日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」の舞台となっているからだ。
世界文化遺産にも登録された海底炭鉱の島は、なぜ廃虚になったのか。ドラマでは、1950年代からの端島と現代の東京という二つの舞台を結んだ壮大な物語が展開されているが、今後の展開にも影響を与えそうな端島の史実を公開資料からたどる。
長崎港から南西へ約18キロの海上に端島は浮かぶ。南北約480メートル、東西約160メートル。約6・3ヘクタールしかない小さな島だ。
三菱マテリアルの情報誌などによると、端島で石炭が発見されたのは江戸時代の1810年ごろ。90年、端島の北東にある高島で炭鉱事業を展開していた三菱が、10万円(現在の価値で約20億円)で買収した。
数回に渡って埋め立てが行われ、元の小さな岩礁の3倍にまで拡張された。狭い島内で多くの人が生活するため、1916年には、日本初の鉄筋コンクリート造りの高層集合住宅(30号棟、当初4階建て、後に7階建てに増築)が建設された。
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煙を立ち上らせながら海に浮かぶ姿が、まるで巨大な軍艦のように見えたことから軍艦島と呼ばれるようになったと言われる。2015年に「明治日本の産業革命遺産」の一部として世界文化遺産に登録された。
戦後、日本は経済再建のため、石炭や鉄鋼に資金や労働力を重点的に配分する「傾斜生産方式」を講じた。鉄道輸送や重工業に欠かせない石炭は、最優先で緊急増産対策が実施され、石炭の生産は飛躍的に伸び、戦後復興をけん引していく。
端島もその一翼を担った。戦前ほどではないにしても、石炭の生産量が回復していく。それに伴って人口も増えていった。三菱マテリアルの情報誌によると、1959年には史上最高の5259人を記録した。人口密度は当時の東京の9倍に上ったという。
石炭の生産が伸びていく裏側で、住民の生活環境も向上していく。端島には、小中学校や病院、映画館やスナックなど、生活に関わるさまざまな施設が存在した。
島内での生活必需品は個人商店と、三菱鉱業(現三菱マテリアル)直営の購買部で賄われた。まるで一つの都市のようだった。
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海に眠るダイヤモンドでも、活気にあふれていた55年からの端島を舞台にしている。56年に発表された経済白書に「もはや戦後ではない」とうたわれた時代だ。
しかし、石炭産業には逆風が吹いていた。資源エネルギー庁のホームページによると、石炭産業は60年以降、物価上昇に伴う採掘コストの上昇や、競合関係にある石油の値下がりなどを背景に経営が悪化していく。労使間紛争も起こり、大規模なストライキも頻発した。政府は、62年に原油の輸入自由化に踏み切り、それまで国のエネルギー産業の主役だった石炭産業を合理化する方向に政策を転換していく。
そんな時代の空気の中、端島で事故が起きた。高島炭鉱史(三菱鉱業セメント発行)によれば、64年8月17日午前2時半ごろ、海面下940メートルの坑道で自然発火が発見される。すぐに注水による直接消火を行った。しかし、押さえ込めたかにみえた午後11時40分ごろ、突然ガス燃焼が発生、注水作業中の10人がやけどを負った。直ちに退避命令が出されるとともに、負傷者を救出し病院に収容した。のちに1人が死亡した。
直接消火は困難との見通しとなり、現場を密閉することに方針を転換した。18日から作業を開始、19日午前1時ごろには仮密閉が完了した。だが、引き続き行われたコンクリートブロックなどでの密閉準備作業中に白煙が発生。粘土を用いて気密強化をしていた午後8時ごろ、密閉を破る爆風が発生、21人が負傷した。
これを受け、会社側は「これ以上は不測の大事故を招きかねない」と判断し、最後の手段として深部区域の水没を決定、25日に発生源を完全水没させた。
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その後、会社側は深部区域の放棄を決定。新たな採掘場所の開発を加速したことによって、端島の生産体制は大幅に縮小されることになる。事故前に約1000人超いた鉱員は500人程度となった。くしくも、事故が起きた64年は東海道新幹線が開通し、東京ではオリンピックが開催されたのと同じ年だった。このころから多くの人が島を去るようになった。
往時の端島を最新のデジタル技術を使って体感することができる軍艦島デジタルミュージアム(長崎市)の元島民ガイドを務める木下稔さん(70)は、端島で生まれ13歳まで過ごした。
事故当時、小学5年生だった木下さんはその夜、島内にサイレンが鳴り響いた様子を覚えている。「鉱員だった父は家に居て無事だった。どんな事故だったのか詳しく分からなかったが、それ以降、同級生が次々に島を離れ、目に見えて人が減っていった。今思えば、端島が衰えていくきっかけとなる事故だった」と語る。
仕事のつらさから坑内に入ることをためらうようになっていたという父は事故を機に島外で仕事を見つけたといい、木下さんは66年12月に島を離れた。「にぎやかだった端島に、寂しげな空気が流れていたのを覚えている」と振り返る。
その後、新たな場所からの石炭採掘は65年9月に開始された。機械化され、順調に生産を続けた。この時期、以前より島内人口が減少したことで、住宅不足が解消するなど生活環境が改善されたと評価する指摘もある。
しかし、「安全に採掘しうる炭量が枯渇して鉱命が尽きた」として、74年1月15日、ついに端島は閉山することとなった。「軍艦島」から「総員が退艦」したのは、3カ月後の4月だった。三菱が採掘を始めて84年、炭鉱としての使命を終えた。
その後、長らく無人島となっていた端島だが2009年から上陸が解禁され、これまでに241万人超が訪れている。廃虚となってなお、長崎観光の「ダイヤモンド」になっている。【若狭幸治】
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