大病も患った細貝萌が振り返る20年間のプロ生活――世界を渡り歩いた彼の支えになっていたものとは?

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2024年12月06日 07:20  webスポルティーバ

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細貝萌(ザスパ群馬)
現役引退インタビュー(後編)

前編◆細貝萌がプロ入り時から決めていたキャリアの最後>>

 2010年から始まった海外でのキャリアは、計9シーズンに及んだ。所属したのは、ドイツのアウクスブルク、レバークーゼン、ヘルタ・ベルリン、トルコのブルサスポル、ドイツのシュツットガルト。その後、2017年に一旦はJリーグに復帰し、柏レイソルで2シーズンを戦い、2019年には再び海外へ。タイのブリーラム・ユナイテッド、バンコク・ユナイテッドを渡り歩く。

「浦和レッズでの6シーズン、僕はずっとドイツ人監督のもとでプレーしたこともあり、若い頃から外国人監督に評価してもらっている自分を感じ取っていました。彼らが理想とするサッカーや求められる仕事を通しても、漠然とですが、ヨーロッパのほうが向いているのかもしれない、外国籍監督に合うプレースタイルなんだろうな、と考えることも多かった。事実、彼らのサッカーでは、ハードワークや守備といった自分のストロングポイントを発揮しやすかったし、そこを評価されていると感じることも多かったです」

 もっともその事実は、下平隆宏監督のもとで戦った柏での2シーズンを否定するものではない、と細貝は言う。実際、出場機会はそう多くはなかったものの、子どもの頃に大野敏隆を通して憧れた黄色のユニフォームに身を包んだ時間も、キャリアを語るうえでは欠かせない、大切な記憶として刻まれている。

「正直、柏での2シーズンは輝けなかったと自覚しています。でも、だからいい時間じゃなかったとは思っていません。あの苦しんだ時間があったから、タイへのチャレンジができ、タイでの充実した時間につながった。

 それは、ヨーロッパ時代にも言えることで......ドイツやトルコの時間がどれも順風満帆だったわけではないし、正直悩んだ時期もあります。でもその時々で、この道だ、このクラブだ、と選んだのは自分に他ならないので。責任を持ってその選択を正解だと言えるものにしようと思っていたし、自分が厳しい局面に立たされた時ほど、それを自分に言い聞かせていました」

 実は、その柏からブリーラムへの移籍を決めたタイミングで、細貝は人生をも左右するような大きな出来事に直面している。2018年のシーズン終盤から胃もたれのような症状が続いていたことを受け、シーズン終了後すぐに「タイに渡る前に胃薬だけでももらっておこうかな」と病院を訪れたところ、医師から『膵(すい)のう胞性腫瘍(SPN)』と診断されたのだ。まさかの宣告に頭のなかは真っ白になった。

「SPNに罹患する8割は女性で、部類的には低悪性の腫瘍だと言われていますが、実際に手術をしてみないと、陽性か、陰性かはわからない、と。ましてや、膵臓は沈黙の臓器と呼ばれるほど発見が難しいので、腫瘍が見つかった時には余命を考えるような状態に陥っていることもあると言われて......もう、サッカーどころじゃない、と。

 そこからはバタバタでした。ブリーラムに状況を伝えつつ、どの病院でオペをしたほうがいいのかなど決めなきゃいけないこともたくさんあって......正直、パニック状態でした。もちろん命を第一優先に考えていたので、ドクターには『サッカーをやめたほうがいいならやめます』ということもハッキリ伝えていました」

 その時の腹腔鏡手術によって、今も彼の腹筋周りには6箇所、メスを入れた傷跡が残る。膵臓は11センチを切り取り、脾(ひ)臓はすべて取り除いたという。幸い、術後の病理検査で命に別状はなく、サッカーは続けられることになったものの、入院、検査、手術によって体重は7.5キロほど落ち、筋力を取り戻すのにも時間がかかった。

 ただし、彼がそれらのことを公表したのは、病気の発覚から2年近い時間がすぎてから。タイでのキャリアを終え、ザスパクサツ群馬(現ザスパ群馬)への加入が決まったあとのことだ。

「病気だけど頑張っています! なんて自分と家族だけがわかっていればいいことだと思っていたので、本来は公表するつもりはなかったんです。ちょうどブリーラムへの移籍のタイミングで、大事に至らなければ数カ月後には復帰できるのもありました。でも群馬への加入が決まり、あるテレビ番組への出演に際してのいろんな話し合いをしていたなかで、『大きな病を乗り越えた経験を明らかにすることで、同じように病気で苦しんでいる人たちを勇気づけられるんじゃないか』という思いに至り、公表を決めました。

 そしたら、思っていた以上にいろんな反響をいただいて......同じ病気で苦しんでいる方や、入院生活が続いている方からもダイレクトメールが届いたりして、いろんな方の思いに触れたことは、僕にとってもプロサッカー選手としての使命を改めて実感することにつながりました」

 話を戻そう。タイでの2シーズンを終えた細貝が、群馬への移籍をする決断に踏み切ったのは、2021年9月だ。そのタイミングで海外からのオファーもいくつか届いていたものの、35歳という年齢も考慮して3年ぶりのJリーグ復帰を決めた。

「ザスパはまだそこまで大きなクラブではないと考えても、たとえば違約金がかかるような状況で獲得してもらうのは正直、難しいだろうということは以前から頭にありました。また、自分の価値を本当の意味で群馬に還元するには、しっかりとピッチで戦力にならなければいけないと思っていたので、このタイミングがベストかもしれないと考えました。

 なので、エージェントには自分から『ザスパに声を掛けてほしい。金額的な交渉はしてもらわなくていい』と伝えたんです。僕自身、群馬でプレーすることに対して、お金には代えられない価値があると考えていました」

 実際、細貝は群馬加入に際して、金額的な交渉は一切していない。すぐさま獲得の意思を示してくれたクラブから提示された契約書にサインを書き入れただけだという。ただ、バンコクでのシーズンを終えた時から、次のキャリアに向かうのは『戦える体』を取り戻してからだと考えていたため、合流時期はややずれ込み9月末になった。

「病気から復活してハイペースでリハビリをし、チームに合流して、試合を戦って、と突っ走ってきましたから。現役としてこの先も長くプレーするためにも、このタイミングで一旦、心身をリセットし体を作り直す必要があると感じていたんです。それもあって群馬には無理を言って少し時間をもらい、しっかりと戦える体を取り戻してから合流しました」

 そうした思いで加わった群馬では4シーズンを戦い抜いた。2022年3月には左足首の脱臼骨折というアクシデントに見舞われたものの、大きな病を経験していたこともあってダメージはなかったそうだ。

「足首を折るくらい、どうってことないというか。骨折も大きなケガではあるんですけど、足が痛いだけで、SPNの時のようにHCU(高度治療室)でいろんな管につながれるとか、頭を30度以上あげちゃいけないから常に横向きで寝ていて、自分では寝返りさえうてないとか、背中から入れている痛み止めが合わずに吐き続けるなんてことはなかったので。足さえ治ればサッカーができると考えれば、全然、楽勝だと思っていました」

 その言葉どおり、ポジティブにリハビリと向き合った細貝は「復帰まで6カ月」という診断を大幅に縮めて約4カ月で戦列に戻ると、以降はコンスタントにピッチに立ち、同シーズンを締め括る。

 だが一転、キャプテンに就任した2023年は序盤こそコンスタントに先発メンバーに名を連ねたものの、4月以降は出場機会が激減。その状況は2024年も変わらず、シーズン終了を前にスパイクを脱ぐ意思を固めた。

「僕がそうだったように、サッカーをしている子どもたちにとって、近くに格好いいなと思える選手がいたり、こんなふうになりたいと目標を描ける存在がいることは、すごく意味があると思っていました。だからこそこの4シーズンは、自分がそういう存在になることを常に意識していたし、それがサッカー選手としての礎を作ってくれた群馬への恩返しだと思っていました。

 ですが、ここ2シーズンは思うように試合に絡めない時間が続き......もちろん、それでもやるべきことは続けていたし、チームのために力になるんだという思いが揺らぐことはなかったです。でも正直、ピッチで貢献できていない自分を冷静に見た時に引き際なのかな、と。プロサッカー選手としてピッチの上で輝けなければ、チームを勝たせられるような仕事ができなければ、それは本当の意味でのクラブへの貢献とは言えない。その思いに従って引退を決断しました」

 どんな時も細貝と同じ歩幅で歩いてきてくれた家族もこれまでと同様に、「納得して、決断したことなら」と寄り添い、背中を押してくれたという。

「奥さんは、これまでも僕がサッカーにおいて、その時々で下した決断に異を唱えることはなかったです。たとえば、タイに行くと決めた時も『へー、いいじゃん! 楽しそう!』ってくらい(笑)。きっと彼女にもやりたいことはあったはずですが、すべてのことを受け入れ、常にそばにいてくれたし、プライベートの時間も含めてサッカー中心の生活に理解を示し、僕の考えを尊重してくれた。それは、引退の決断に際しても同じでした」

 そして、だから新たなキャリア――来年2月1日付で群馬の社長代行兼ゼネラルマネージャーに、同4月に正式に代表取締役社長に就任するというチャレンジにも、勇気を持って一歩を踏み出せたという。それは、現役時代には達成できなかった群馬をより高いステージへ導くための決断でもあった。

「選手として、もっとこのクラブのためにたくさんのものを残せたんじゃないか。伝えられることがあったんじゃないか、という思いは今も拭えません。今シーズンに関してはステージを上げるどころかJ3リーグに降格してしまったことにも、最年長選手として大きな責任を感じています。

 ただ一方で、選手としての自分にできることはもうないという現実も冷静に受け入れているというか。ホーム最終戦で今シーズン初めて先発のピッチに立ちましたけど、なかなか思うようなプレーができなかった自分を感じて『悔しいけど、やっぱり引退だな』と。ピッチの上でそれを感じられて、逆にスッキリした自分もいました。

 また、シーズン終盤に差し掛かった頃から、クラブとはいろんな話をしてきたなかで、クラブから新たな立場でやり残したことを実行に移すチャンスをいただいたので。すごく驚いた反面、やりがいも感じていますし、このクラブに関わるいろんな人と連携しながら、現役時代と同様、一つひとつ課題と向き合って、乗り越えて、現場が少しでもいい方向に進んでいけるように努力していきたいと思います」

 そんなふうに新たなキャリアへの決意を口にした彼に、20年もの長い現役生活を支えたものは何だったのかを尋ねてみる。細貝の言葉を借りれば「技術が秀でているわけでもない、体もたいして大きくない、パワーも特別あるわけじゃない自分がこんなにも長くプロとして戦ってこれた」理由について、だ。

 しばし考えを巡らせた彼は、意外に思われるかもしれませんが、と前置きしたうえで"情熱"を挙げた。

「僕はあまり感情を表に出すタイプではないし、現役時代、ほとんどそういう言葉を口にすることもなかったですが、サッカーへの情熱だけはずっと誰にも負けていないと自負していました。どの試合も、どのシーンでも、常に負けたくないと思っていたし、そう思って戦い続けることが、自分のストロングポイントだと信じていました」

 錚々たる顔ぶれがそろう浦和に身を置いた日々も。ブンデスリーガで100試合を超えるキャリアを積み上げた時間も。試合に出ても出られなくても。病に倒れ、いろんな恐怖に押し潰されそうになった時も。故郷でサッカーをする幸せに触れた時間も。

 自分が選んだ人生に責任を持ち、負けるもんかと戦い続けた20年間。サッカー選手として心の奥底で燃やし続けた情熱を誇りに、細貝は愛する故郷で次なる一歩を踏み出す。

(おわり)

細貝萌(ほそがい・はじめ)
1986年6月10日生まれ。群馬県出身。前橋育英高卒業後、浦和レッズに入団。2008年に北京五輪に出場。浦和でも主力として奮闘した。2010年、日本代表入り。同年、ドイツのレバークーゼンに完全移籍し、期限付き移籍先のアウクスブルクでプレー。その後、レバークーゼン、ヘルタ・ベルリン、トルコのブルサスポル、ドイツのシュツットガルト、柏レイソル、タイのブリーラム・ユナイテッド、バンコク・ユナイテッドと渡り歩いて、2021年にザスパクサツ群馬(現ザスパ群馬)に加入。そして、今シーズンをもって現役引退。来季からは群馬の社長として奔走していく。国際Aマッチ出場30試合、1得点。

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