──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
大河ドラマ『光る君へ』・第46回「刀伊の入寇」では、大宰府(現在の福岡県・太宰府市)までたどり着いたまひろ(吉高由里子さん)が、因縁の医師・周明(松下洸平さん)と再会し、当地を揺るがした外国からきた海賊と武士たちの戦闘に巻き込まれるという怒涛の展開が見られました。しかし……再会したところで、第46回のラストでは周明の胸に流れ矢がブスッと命中。声が出るほど「まさか」すぎる展開でしたから、恋の再燃は難しそうですが……。
まひろは周明に「私はもう終わってしまったの」などと言っていましたが、大宰府への旅路の途中――須磨の浦では波打ち際をいきなり走り出すなど、「太皇太后・彰子の女房」にして「源氏物語の作者」という京都・内裏での肩書を捨て、ずいぶんと身軽になっている様子でしたよね。
まひろの旅装は、「壺装束」と呼ばれるものです。貴族や上流武家の女性の旅装ですが、時代によってかなり異なるようですね。まひろも笠をかぶっていますが、彼女の顔は主に「垂れぎぬ」と呼ばれた薄い布で隠されています。しかし、鎌倉時代に描かれた絵巻物『春日権現験記絵』に見られる壺装束は、あまりに巨大な笠をかぶっているので、女性の顔から肩あたりまでが隠されているという鉄壁の構えなのでした。
鎌倉時代の絵巻物でそれなのですから、「顔を見せること」がとても気恥ずかしいと考えられた平安時代の壺装束は、ドラマよりもさらに厳重だったのではないかと想像されます。まぁ、ドラマの主人公・まひろに、兜のような巨大な笠をかぶせ、波打ち際を走らせるなんて映像は映えませんから、ああいう装いになったのではないでしょうか。
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さて、大宰府で周明と運命の再会を遂げたまひろは、彼の手引で政庁に赴き、大宰権帥(大宰府の長官)になっていた藤原隆家(亡き皇后・定子や、伊周の弟)と再会し、隆家(竜星涼さん)は太閤・道長(柄本佑さん)から依頼されたといって、まひろを厚遇していました。
ドラマでは隆家が武士たちと身分を超え、親しく交流する姿まで描かれました。史実の隆家がドラマのように公私ともに武士たちと交流していたかはともかく、九州の武士たち――というより、正確にはこの時代にはまだ「軍事貴族」たちと呼ぶべき人々から、隆家の人気は非常に高かったのは事実です。
もともと隆家は気性が真っすぐで、それゆえ史実では策略家の道長とは何度となく衝突していましたし、後年、尖ったもので目を傷つけたことで視界が悪くなり、大宰府には腕のよい中国人の眼科医がいると聞きつけ、大宰権帥になりたいと道長に申し出たそうです。そして、それを許された結果、大宰府に赴いたのでした。
しかし隆家は当地の人々から身分を超えて慕われ、善政を敷いたと伝わります。都の高貴な生まれだからといって、朝廷での権力闘争より、外の世界でのびのびと生きるほうがよほど性に合っている隆家のような貴族も本当は多かったでしょうね。
第46回のタイトルにもなった「刀伊の入寇」でも隆家が大活躍しています。刀伊の入寇とは、隆家が大宰権帥として大宰府に下向してから約4年後、つまり寛仁3年(1019年)3月末から4月にかけて発生した外国人勢力による襲撃事件です。襲撃事件というより、小規模な戦争であったといったほうが正しいかもしれません。約50艘もの海賊船が対馬・壱岐を襲い、略奪や殺人、人さらいなどを行ったのでした。
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また海賊たちは、壱岐の人々や対抗した役人たち148名を惨殺し、女性239人を拉致するなど極めて残忍でした。命がけで包囲を突破し、逃げられた人からの報告が隆家に届いたのが4月7日。隆家はその日のうちに飛駅使(ひえきし)と呼ばれた早馬を都に飛ばしています。
しかし早くも翌・8日には筑前国・怡土(いと)郡(現在の福岡市西部と糸島市付近)が海賊に襲撃され、隆家は「海賊はハヤブサのように素速い舟だから対抗できない」と都に書き送っています。
もはや朝廷の対応など待っていられない、スピードこそが鍵であると悟った隆家は、九州各地にすでに根づきつつあった軍事勢力を結集させることに成功しました。隆家は、70歳を超えてなお、現地の武人たちの中心人物だった大蔵種材(おおくらのたねき・ドラマでは朝倉伸二さん)からも気に入られていたこともあり、隆家の呼びかけに多くの武人たちが素直に従ってくれました(大蔵種材は、瀬戸内海の海賊の棟梁・藤原純友による反乱事件の鎮圧にも貢献した軍事貴族の一族の末裔です)。
9日には、博多に侵入しようとした海賊を弓矢を得意とする武士や、当地の庶民たちが撃退する一幕もあり、それ以降も防戦が基本でしたが、戦闘があるたびにジワジワと海賊を討ち取ることに成功していきます。ドラマではなぜか弓兵まで崖から浜辺まで降ろし、射撃させていましたが、普通なら高所から敵を狙い撃ちさせるものではないか……と思ってしまった筆者です。双寿丸たち歩兵と同じシーンに収める必要があったからでしょうか。
史実の隆家は海賊が上陸しうる地点を予測し、十分な兵力で守らせてもいました。13日には、肥前国・松浦郡(現在の佐賀県唐津市から長崎県佐世保市の一部)を襲った海賊をも討ち取ることに成功。海賊たちはついに侵攻を諦め、帰国していったようです。海賊たちに襲われた対馬・壱岐と呼ばれる九州北部の島々は、当時の日本では交易によって大きな利益を得られていた富裕な地域でもありました。
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また、海賊を構成していたのは、もともとは中国東北部に暮らしていた女真族だと考えられています。しかし唐王朝の滅亡後、混乱が続いていた中国大陸では宋王朝が新たに成立してからも、宋の軍事支配力は弱かったので、異民族の統制もかつてのようにはうまくいっておらず、女真族の一部は朝鮮半島にまで侵攻していたそうです。
当時の朝鮮を支配していたのは高麗国でしたが、高麗は女真族に宋との貿易を禁止していたので、その「あてつけ」として、調子に乗った女真族の一派が高麗や日本の九州地区まで荒らし回るようになったと考えられています。
このように刀伊の入寇とは、日本史上の大事件であるだけでなく、中国大陸と朝鮮半島の政治的混乱の反映でもあったのです。ちなみに「刀伊」とは、「東の夷狄(いてき)」=「東夷」という意味の朝鮮語に日本側が当て字した結果に生まれた表記です。
さて、隆家から早馬で報告を受けたはずの京都の朝廷は何をしていたのでしょうか。刀伊の入寇はドラマでも描かれたように体調不良に苦しんでいた道長が、厄落としを兼ねて剃髪した直後の時期の話です。体調が回復した道長の中では、権力欲が再びムクムクと芽生えていました。
京都の朝廷では道長はやはり出家しようがカリスマですから、藤原実資(秋山竜次さん)は道長のもとを足繁く訪ね、出家後も政治の中心にいてほしいと請願しています(『小右記』)。刀伊の入寇事件当時も、公卿たちの会議(陣定)が行われる以前に情報を得た実資は道長の邸宅を訪ね、対応をいかにすべきかと事前にお伺いを立てたことが知られています。しかし、なぜか道長の反応は極めて鈍かったので、朝廷では具体的な対策を講じる前に加持祈祷を行い、すでに北九州の地から海賊たちが立ち去った後の4月27日になってようやく派兵準備に取りかかるという体たらくでした。
まぁ、この辺も宮廷政治の一貫で、道長からすれば大宰府に追いやったことで、それこそ「終わった」はずの隆家が、この事件の中で当地の軍事勢力との絆を深め、勢力を回復しかねない恐れがあったのであえて放置したと見ることもできます。
戦後も、朝廷の対応はピントがズレていたというしかありません。
本来なら一番の功労者といってもよいであろう隆家には具体的な褒章はなく、大蔵種材が「壱岐守」になり、もう一人活躍を評価された軍事貴族・藤原蔵規(ふじわら・まさのり)が「対馬守」になった程度でした。後世に成立した歴史物語『大鏡』によると、当時の帝(後一条天皇・橋本偉成さん)は隆家の活躍に感動し、彼に大臣もしくは大納言といった相応の官位を与えようと思いましたが、隆家は眼病になってから都の人々との交流も失われてしまっていたので、そういう人物を朝廷の要職につけるのもいかがなものか……と「遠慮し」、隆家の昇進はなかったという無理のある説明をしています。実際の後一条天皇は、外祖父・道長からの「隆家を無視せよ」という圧力を跳ね返せなかったのでしょう。
九州地区の武士たちの中で、藤原隆家の人気は彼が都に戻った後も非常に高く、隆家の子孫を自称する家も多かったといいます。権力闘争に明け暮れる朝廷の上級貴族の指示を仰ぐよりも、迅速に眼前の問題に対処できる軍事力の持ち主が必要とされるようになったからこそ、官位では道長に劣る隆家の人気が九州の武士たちの間で爆発し続けたともいえますね。
歴史の転換点となった刀伊の入寇という大事件について、史実の紫式部がどのように感じていたのか(この時まで彼女が存命だったのかは不明ですが)、なにも記録が残っていないのは残念なことです。