前回は中宮彰子(演・見上愛さん)の出産の場面を記した『紫式部日記』を紹介しました。後に天皇となる子を設けることは外祖父、藤原道長(演・柄本佑さん)の政権の安定にとって重要なことでした。彰子の出産については、藤原道長『御堂関白記』、藤原実資(演・秋山竜次さん)『小右記』、藤原行成(演・渡辺大知さん)『権記』にも記録されていますが、彰子の側に仕えた紫式部の日記がもっとも詳細に書かれています。なかでも、験者がもののけを調伏する場面は臨場感豊かに描かれています。『紫式部日記』には、
御帳の東面は、内裏の女房まゐり集ひてさぶらふ。西には、御もののけうつりたる人々、御屏風一よろひを引きつぼね、局口には几帳を立てつつ、験者あづかりあづかりののしりゐたり。南には、やむごとなき僧正・僧都かさなりゐて、不動尊の生き給へるかたちをも、呼びいであらはしつべう、たのみみ、うらみみ、声みなかれわたりにたる、いといみじう聞こゆ。
(御帳台の東面の間には、主上付きの女房が参り集って控えている。西の間には、御もののけが移った憑坐の人々を、めいめい一双の屏風でぐるりと引き囲み、その口もとにはそれぞれ几帳を立てて、験者が一人一人を受け持ち、声高に祈祷をあげている。南面の間には、僧正・僧都というような高僧たちが幾重にも重なるように座って、不動明王の生きたお姿を今にも眼前に呼び現しかねないほどに、くり返し祈願したり恨み言を述べたりして、声がみな一様にかれはててしまっているのが、たいそう尊く聞える。)
とあります。以前に紹介した「憑祈祷」です。もののけが乗り移った女房を屏風で囲み、局口に几帳をたて、験者が一人一人に対して祈祷し、調伏しています。別の間では、高僧たちが不動明王の祈祷をしているとあります。験者、高僧とも声をからしての祈祷でした。
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さて、出産の場面は『源氏物語』葵の巻にあります。光源氏の正妻、葵上が夕霧を出産する場面です。もののけに苦しむ葵上を祈祷するなか、次のような記述があります。
もののけ、生霊などいふもの多く出で来て、さまざまの名のりする中に、人にさらに移らず、ただ自らの御身につと添ひたるさまにて、ことにおどろおどろしうわづらはし聞ゆる事もなけれど、又片時離るる折もなきもの一つあり。いみじき験者どもにも従はず、しうねききけしき、「おぼろけの物にあらず」と見えたり。
(物の怪とか生霊とかいうものがたくさん現れてきて、さまざまに名のりをする中に、憑坐にもいっこうに乗り移らず、ただご本人のお体にぴったりととりついている様子で、特にはげしくお苦しめ申すこともないけれども、そうかといって片時も離れる折もないものが一つある。すぐれた験者の調伏にもひるまず、その執念深い感じは尋常のものでないと思われた。)
験者の「憑祈祷」のなかで、さまざまな霊が憑坐の女房の口をかりて語りだすなかに、もののけや生霊が登場し、なかでも執念深く、なかなか正体をあらわさない霊があり、優秀な験者にも従わない手ごわいものでした。その正体は、六条御息所の生霊(いきすだま)でした。『源氏物語』では、生霊が正体を現す場面を次のように記しています。産気づきながら執念深い霊に悩まされている葵上に光源氏が慰めの言葉をかけたところ、
(葵上)「いであらずや。身の上のいと苦しきを、しばしや休め給へと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、物思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」と、なつかしげに言ひて、(霊)「嘆きわび空に乱るる我がたましひを結びとどめよしたがひのつま」と宣ふ声、気配、その人にもあらず変はり給へり。「いとあやし」とおぼしめぐらすに、ただかの御息所なりけり。
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(「いえ、そんなことではございません。この身がまことに苦しいものですから、しばらく御祈祷をゆるめてくだされと申しあげようと存じまして。こうしてここに参上しようとのつもりはさらにありませぬのに、物思いに苦しむ者の魂は、なるほど身から抜け出してしまうものでした」と懐かしそうに言って、「嘆きのあまりに身を抜け出て空にさまよっている私の魂を、下前の褄を結んでつなぎとめてください」とおっしゃる声なり感じなりが、女君とはうって変って別人でいらっしゃる。これは不可解な、とあれこれお思い合せになると、まさにあの御息所ではないか。)
とあります。産婦である葵上に六条御息所の生霊が乗り移り、声や気配までかわり、別人のようになったとあります。生霊は貴族の日記などの古記録に見ることはできません。ドラマでも「生霊だ」との台詞もありましたが、物語の世界のものだったのでしょうか。人々を苦しめる霊を憑坐につけて語らせて調伏する祈祷がその背景にあったことは想像に難くありません。
(園田学園女子大学学長・大江 篤)
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