3度の離婚を経て、2人の子どもを育てながら、37歳でグラドルデビューした茜結さん(45歳)。現在は一般企業の広報、結婚相談所のカウンセラーとして働きつつ、“奇跡の45歳”のキャッチコピーで芸能活動を続けている……。
すでに情報量がとんでもないことになっているが、波瀾万丈の人生だったことは想像にかたくない。本人は「下積み時代が長かった」と話すが、今回は20歳から芸能活動を開始し、子育てと両立しながら37歳で花開くまでの“下積み時代”に迫る。
◆舞台役者から芸能活動をスタート
18歳から声優を目指そうと専門学校へ通い、20歳から芸能の仕事を主軸に置いてきた茜さん。
幼い頃から自分の声をカセットテープに録音して遊んでいたという茜さんは、もともと芸能志向が強かったという。声優になりたいと思ったきっかけは、友人から薦めてもらったアニメ作品に出ていた声優の魅力に惹かれたから。
そこから代々木アニメーション学院 大阪校へ通ったものの、卒業後には声優プロダクションへ入る試験を受ける必要があった。
声優プロダクションは東京に多く、「その時はまだ東京には行く気はなかった」と茜さんは言う。
そんななか、たまたま友達に誘われて観に行った芝居に感動したことで、舞台役者に興味を持ったのだった。
「今まで学校の演劇部の芝居しか観たことなかったんですが、友達と一緒に行った劇団『かっぱのドリームブラザーズ』のお芝居はすごく面白くて。その劇団は程なく解散してしまったんですが、そこで活動していた劇団員が客演で出ていたのが、のちに所属することになる劇団『リリパット・アーミー』のお芝居だったんです」
◆役者→音楽→モデル。次々と“路線変更”を繰り返す
1年間、研究生として下積みを経験し、オーディションを経て合格を果たし、舞台役者としてのキャリアをスタートさせる。
舞台の世界に初めて入り、充実した日々を送っていたそうだが、「色々と悩む年頃だったので、他にもやりたいことがたくさんあった」と茜さんは語る。
「舞台の幕間でかかる音楽がジャズのような曲がいいなと思って、漠然と音楽がやりたいと考え始めました。小さい頃から歌うことが好きだったのもあり、今度は音楽の学校に通い始めたんです」
大阪スクールオブミュージックに入り、音楽活動するための勉強に取り組んでいくうちに、バックコーラスなどの小さな仕事を担当するようになっていた。それでも、他にやりたいことが見つかり、いろんな情報を集めていくうちに書類審査に受かったモデル事務所に所属することに。
「モデルとして、色々な仕事をさせてもらえて楽しかったんですが、素人としてテレビに出る機会があり、テレビの世界が面白いと感じたんです。もっと大きな事務所に行けば、テレビの仕事もたくさん来るかもしれない。そう思って、たどり着いたのが“吉本”でした」
◆産後直後で辛かった学校の授業。「母乳が出てしまったときも…」
吉本に所属するためには、養成学校に行く必要があり、吉本総合芸能学院 女性タレントコースに通うことになった。
しかし、学校へ入学する数日前に第二子を出産したばかりで、産後の体で授業を受けるのがものすごく辛かったと茜さんは吐露する。
「体が熱っぽく、だるさを感じたりと本当に座っているのも大変でしたね。体力はある方だったので、筋トレは得意だったんですが、産後は筋力がなくて腹筋・背筋の授業はかなりきつかったのを覚えています。
あとは母乳が出てきてしまって……。周りに見つからないように、トイレでこっそり搾乳をしていましたね。でも、トイレが一つしかなくて大渋滞したときは本当に焦りました」
◆夢を追い続けた日々「子育てに専念する気はなかった」
茜さんは20代で2度の結婚と離婚を経験し、同時に2人の子どもを授かっている。
22歳で1回目の結婚をしたが、24歳の時に離婚。2回目の結婚は26歳で、第一子を産んだものの、すぐに離婚することになる。
吉本の養成学校に入学する前、29歳だった茜さんは第二子の出産を迎えるが、「1ヶ月だけ付き合った男性と別れてから妊娠が発覚し、相手に内緒で出産した」と打ち明ける。
「子どもが生まれたことで、子育てに専念しようとかは全く思わなかったんですよ。子どもがいても、自分のやりたいことは諦めずにやりたかったので。とにかく後先考えずに、がむしゃらに目の前の事だけに向き合ってきたんです」
吉本の養成学校を卒業後、事務所に所属が決まったものの、なぜかタレントではなく“ものまねピン芸人”としてデビューすることになった茜さん。
「体を張ったネタで勝負していたのですが、自分のやりたいこととの相違が生まれてしまったことから、進路を変えるために総合芸能事務所に所属する道を選択する。
モデルやCM出演、役者、MCなど、色々な仕事を経験したが、それだけでは食べていけず、派遣やアルバイトも掛け持ちしながら芸能活動を続けた。
◆プライベートでは“バツ3”を経験。それでも新天地を求めて上京を決意
こうしたなか、茜さんは35歳の時に3度目の結婚を果たす。それも束の間、結婚生活も続かずに35歳で離婚してしまう。
「実はバイト先のテレアポで知り合った女性と10年間付き合ったこともあるんです。女性が好きとかではなかったんですが、魂から強烈に惹かれる不思議な感覚を味わって。それに比べ、男性とは長くても5年しか続いたことがなく、3人目と結婚した際にはプライベートで色々あって行き詰まってしまい、子どもと3人で家出を経験したんです。
その時は、近所のホテルを転々としながら、子どもが通う学校への送迎をしていましたね。いまだに子どもからは『あの頃は毎日いろんなホテルに泊まれて楽しかった』と言われるのはいい思い出です」
その後、出身地の大阪を離れ、子どもを連れて3人で上京を決意する。
「さまざまな仕事を経験し、常に新しいことに挑戦しつつ、学校で勉強に専念してきたことで、自分の中である程度の基礎力がついたと実感していました。このまま大阪にいてもこれ以上の成長はないと感じたのと、ちょうど子どもの進学でタイミングも良かったので、東京へ引越しすることを決めました」
◆東京生活は苦労の連続。寝る間を惜しんで働いた
ところが、シングルマザーで子ども2人を育てながらの東京生活は苦労の連続だったそうだ。限られた時間の中で家族、お金、夢とのバランスを考えながら、やりくりをしていかなければならない。
バイトや派遣の稼ぎだけでは足りず、家賃や生活費に追われる日々。
「生活のバランスをとりながら自分の夢を追いかけることは想像以上に難しいと感じましたね。睡眠時間を削って毎日ライブ配信をしたりSNSを更新したり。演技の勉強のためにワークショップに参加したりと、自分磨きに必要なお金と生活費を必死に工面していましたね」
新天地で揉まれながら精一杯やってきた茜さんにとって、“遅咲き”のチャンスが訪れたのは37歳の時。
『ミスFLASH2017』のオーディションに参加したことを皮切りに、雑誌『BITTER』のオーディションで見事グランプリに。さらには伝説のグラビア雑誌『URECCO』復刊号の表紙を飾るなど、“グラビアアイドル”として頭角を現すと、バラエティ番組「有吉反省会」(日本テレビ系)に“年齢不詳のグラドル”として出演し、一躍有名になったのだった。
<取材・文/古田島大介、撮影/藤井厚年>
―[茜結]―
【古田島大介】
1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている