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空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第5回
(第4回:前田日明の試合を見て「大したことないな。これは勝てる」 UWF大ブームのなかで対戦を直談判した>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第5回は、ドン中矢ニールセンとの異種格闘技戦の実現に至る経緯を語った。
【「正道会館をやめたくて仕方なかった」】
UWFの前田日明に挑戦するために動き出した24歳の佐竹は、その第一歩として、キックボクサーのドン中矢ニールセンとの一戦に臨んだ。
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時は1990年6月30日。舞台は日本武道館だった。しかし当時の佐竹は、さまざまな葛藤を抱えていた。
「正道会館をやめたくて仕方なかったんです。全日本選手権も1987年から3連覇したんですが、その間も『やめます』と何度か言っていました。だけど、全日本選手権の前になると、僕が信頼していた先輩の田島晴雄さんなどに『お願いだから出てよ』と頼まれて、仕方なく出ていました。気持ちはそんな状態でしたけど、出場すれば負けたくないから頑張る。それで優勝して、賞金の100万円をもらっていました(笑)」
その頃は、プロレスラーになることも考えたという。
「UWFの試合も何回も見に行きましたし、SWSを旗揚げした天龍源一郎さんとも会って、『SWSに行こうかな』と気持ちが揺らいだこともありました。ほかにも、大仁田厚さんのFMWなど、いろんな団体を調査しました」
プロレスへと心が傾いた理由は、戦いで報酬を得る「プロ」として生きたいという思いがあったからだ。前田への挑戦に動いたのも、その衝動によるものだった。
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「『プロとして食っていくためには、前田日明と戦って倒すしかない』と思い込んでいました。自分で言うのもなんですが、あの時に僕が『プロになるしかない』と追い込まれて行動に移さなかったら、今の日本の格闘技界はここまで大きくなっていなかったはずです。僕が大学を卒業して、就職してアマチュアとして空手をやっていたら、格闘技界の天下はずっとプロレスが握っていたでしょう。
自分のなかでニールセン戦へ挑む前の僕は、豊臣秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた足軽時代みたいなものですかね。とにかく僕は、早くプロになりたかった。夢と名誉を手に入れるため、道は自力で切り開くしかないと思っていました」
【グローブを着用した試合への対応】
佐竹の「プロ」への葛藤が、ニールセンとの試合実現の原点だった。さまざまな関係者が奔走して迎えた1990年6月30日、日本武道館で開催された全日本キックボクシング連盟の「INSPIRING WARS HEAT 630」。佐竹はニールセンを相手に、初めてキックボクシングルールで戦うことになった。
空手家がグローブを着け、顔面へのパンチ攻撃アリのキックボクシングルールで試合を行なうのは、1969年に極真会館の第1回全日本選手権を制した山崎照朝(てるとも)たちが"走り"と言っていいだろう。その山崎はライト級だったが、ヘビー級クラスの空手家が異種格闘技戦に挑戦するのは、佐竹が先駆けだ。
ヘビー級の猛者が立ち技最強をかけた戦い。佐竹のニールセンへの挑戦が、「K-1」の源流になったのだ。
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正道会館は1989年の全日本選手権からリングを使用。さらに延長戦では、グローブを着用して顔面へのパンチを認めるルールを採用していた。ただ、佐竹はグローブに対応する練習をほぼやっていなかったという。
「グローブを着けた練習はほとんどやっていなかったので、冷静に考えると、どうやっても僕がニールセンに勝てるわけはないんです。ただ、当時の自分は『なんとかなるだろう』と思っていました。とにかくニールセンに勝たなければ、僕には明日がなかった。負けたらプロ格闘家になる夢を諦めて、就職の道を考えなければいけない。
だから、試合が決まってからはボクシングジムで練習して、顔面を殴られて頭がグラグラになったこともありました。ただ、グローブがどうとか、顔面攻撃が怖いだとか言っていられなかったんです。自分の未来と、人生のすべてをかけた戦いでしたから」
グローブへの対応を指導してくれたのは、正道会館への入門時から憧れ、尊敬していた中山猛夫師範だった。
「中山師範は、グローブを着用した戦いが天才的にうまかったんです。めちゃくちゃパンチが重くて、スパーリングで倒されたこともありました。当時の中山師範は、恐らく後のK-1ファイターより強かったと思いますよ」
【前歯4本を抜いたのは「自分が生きた証」】
中山との特訓で急速にグローブに対応していった佐竹は、ボクシングジムでの練習で当時の日本ランカーを倒すほどの力をつけた。一方で、減量との戦いも強いられた。
「契約体重は91キロだったんですが、当時の僕はナチュラルウエイトが100キロだったので、約10キロの減量をしなければいけなかった。食事は制限せずに、ひたすら稽古を重ねて体重を落としました。毎日、必死でしたね。あそこまでトレーニングに没頭したのは、後にも先にもあの時が一番です。あまりに激しい毎日で、あの頃の記憶が抜けているくらいです」
さらに必勝を期して、大胆な行動に出る。
「マウスピースを着けたこともなかったので、着けると呼吸が苦しくなるんです。スパーリングで前歯が欠けた時に、道場の近所にある歯医者さんに行って『前歯4本を抜いてください』と頼みました。『マウスピースをはめるより、入れ歯にすれば呼吸もラクになるからいいだろう』と。
前歯4本を抜くことで、十字架を背負うじゃないですけど、覚悟を固めようという思いもありました。そのことは自分が生きた証ですし、今も前歯は入れ歯のままです」
試合直前に契約体重が89キロに変更になるハンデも背負ったが、人生をかけた佐竹にとって大したことではなかった。そして、決戦当日を迎えた。
「日本武道館に入る時には、かなり昂っていました。『どうやって戦うべきか』と思いを巡らせていた時、セコンドを務めていただいた中山師範が僕の心の中を読んだように、ひと言ささやいたんです。『佐竹くん、あんなもん"パチキ"入れてやればいいんだよ』と。その言葉に『押忍!』とうなずきました。中山師範は、僕の闘志を高めようとして言ってくれたんだと思いますが、それで『これはケンカだ』と覚悟が固まりました」
中山がささやいた「パチキ」とは、頭突きを意味する。佐竹の人生をかけた一戦がいよいよ始まった。
(つづく>>)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。