佐竹雅昭が語るK-1の原点、ニールセン戦の1ラウンドKO 頭突きには批判も「果たし合いに反則も何もない」

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2025年02月13日 10:10  webスポルティーバ

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空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第6回

(第5回:K-1へとつながる異種格闘技戦 ニールセン戦を前に「前歯を4本抜いてください」>>)

 現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。

 59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第6回は、衝撃のKO決着となったドン中矢ニールセン戦を振り返った。

【空手家たちの応援が重圧に】

 1990年6月30日、日本武道館。キックボクサーのドン中矢ニールセンとの決戦に向け、佐竹は控室の扉を開けて花道に出た。高い武道館の天井まで轟く、満員の観衆による大歓声に武者震いを覚えた。

「プロとしての初めての試合ですから、入場時は『やってやるぞ!』と緊張して硬くなっているわけです。そんな状態で、初めて花道から武道館の客席を見ました。『ウォー!』と地鳴りのような歓声が僕に注がれて、まるで自分が『あしたのジョー』でホセ・メンドーサ戦に向かう矢吹丈になったような気分でしたね。

 客席には正道会館の仲間はもちろん、ケンカしていた他流派の空手家も流派など関係なしに『佐竹! 空手のために勝ってくれ!』と叫んでいました。こっちは、明日から食べていくために、自分が生きるためにニールセンと戦おうと思っていたのに、『空手のために!』という声が耳に入ってきて......責任と重圧という名の大きな石が、背中にどんどん積まれていくような感じでしたよ」

 そんなプレッシャーを抱えたなかで、ついにニールセンと対峙した。

「こっちは決死の思いでいたのに、ニールセンはニタニタ笑って『OK、OK。なんでも来いよ』みたいなことをささやいていたんです。その顔を見たら、『この野郎、ナメ腐りやがって!』と闘志が沸騰しました。レフェリーチェックでニールセンが近づいてきて目を合わせてきたから、こっちも睨み返しました。心の中で『こいつに勝たないと明日がない』と繰り返していましたが、緊張と興奮で意識が飛びそうな状態でしたね」

【試合中に「すべての時間が止まった」】

 運命のゴングが鳴る。しかし佐竹は、自分の体の異常に戸惑った。

「気合は入っているのに、緊張で体がうまく動かなかったんですよ。『これは、どうなっちゃうんだ』と焦っている時に、ニールセンの蹴りが金的に入ったんです。それは故意じゃなくて偶然だったと思います。ただ、あの金的への蹴りで『てめぇ、この野郎』と緊張が一気に吹っ飛びました」

 そこで脳裏をよぎったのは、控室でセコンドを務めた中山猛夫師範がささやいた「パチキ(頭突き)だよ」の言葉だった。

「ロープに詰めた時に、ガーンと頭突きが入って。そうしたら、レフェリーのサミー中村さんが間に入って減点1を取られ、『次やったら失格だ』と宣告されました。それでまた緊張してきて、マックスに達してすべての時間が止まりました。僕も、目の前にいるニールセンも止まっているような感覚です。

 大歓声も聞こえなくなって、『極度の緊張はこういうことなんか』と一瞬だけ冷静になった時、ニールセンの顔が目の前にあったんです。僕はこの時、サウスポー構え。『右ストレートを入れたら当たるんじゃないか』と思ってからは、動きがコマ送りのようになりました。右ストレートがゆっくり伸びて、拳にガンという感触があった。直後、ニールセンがカクカクとした動きで倒れていったんです」

 1ラウンド2分07秒。佐竹は右ストレートでニールセンをKOした。佐竹は両手を突き上げ、セコンドが駆け寄り、武道館は大歓声に包まれた。人生をかけた勝負に勝ち、プロ空手家として生きる道を切り開いたのだ。

「空手家人生のなかで『怖い』という思いを抱いた試合はありましたが、あれほどの恐怖、重圧、緊張など、いろんなものを背負った戦いはあれが最初で最後です。戦いながら時間が止まったような感覚に陥ることなんてなかったですし、奇跡の試合だったと思います」

【頭突きへの批判も「まったく気にならなかった」】

 試合後、ニールセン陣営が反則の「頭突き」を理由に、主催者に対してKOを無効とする要求を行なった。結果、レフェリーが注意、減点をしているため問題なし、という見解が出されたが、一部のマスコミ、ファンから批判を浴びた。

「周囲の批判は、まったく気になりませんでした。僕は、ニールセンと"果たし合い"をしたと思っていたので。格闘技はスポーツじゃない。相手を殴って倒すケンカなんです。だから自分は、スポーツマンでもない。その哲学は、今もブレていません。

 スポーツの観点に立てば頭突きは反則ですけど、『果たし合いに反則も何もないでしょ』と思っていました。中山師範に控室で『パチキ』とささやかれたこともありますが、頭突きは空手家にとって一番の有効技。決して、きれいなやり方ではないですけどね」

 ただ、あの瞬間の「頭突き」は計算したものではなかったという。

「ただただ無心の"素の佐竹"でした。だから、『いざという時に、自分は頭突きをするのか』と、自分の知らない獣の本性のようなものにも気づきましたね。何が何でも負けるわけにはいかない。試合で負けてもケンカでは負けられないという思いが、極限まで高まって出たものだと思います」

 物議は醸したが、空手家にとって圧倒的に不利なキックボクシングルールで、ニールセンを1ラウンドKO。佐竹は時代の寵児となった。身長187cm・体重100kgという体格はボクシング界にもいない。格闘技ファンが待望していた世界に通じる日本人ヘビー級のファイターの誕生だった。

 ニールセン戦が導火線となり、3年後の1993年には、ヘビー級で立ち技世界最強を争う「K-1」が始まった。

「あそこで自分が負けていたら、後の格闘技ブームは起きていなかったでしょうね。おそらく前田日明さんの天下でしょう。そうなると、アントニオ猪木さんなども介入してきて、また1980年代のようなプロレス王国が築かれたはずです」

 時代の先頭に立った佐竹に、あらたな敵が用意された。相手は、極真空手の"熊殺し"ウィリー・ウイリアムスだった。

(第7回:「熊殺し」ウィリー・ウィリアムス戦と前田日明「リングス」参戦までの激動の日々>>)

【プロフィール】

佐竹雅昭(さたけ・まさあき)

1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。

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